地下鉄雑司ヶ谷駅近くにある施設を訪問しました。都電の鬼子母神駅があるので、とにかく暑かったのですが、鬼子母神を探してみました。都電の反対側に歩きかけてから、あきらめて戻ってきたら、ようやく門にたどり着きました。入り口
大欅がありました。大欅並木は都の天然記念物になっているようです。
鬼子母神堂
雑司ヶ谷鬼子母神のHPより鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。
東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。鬼子母神像:いろいろと鬼子母神にかかわる話がウイキペディアに書いてありました。「鬼子母神(きしもじん/きしもしん)、梵: हारिती [Hārītī]、ハーリティー)は、仏教を守護するとされる夜叉で女神の一尊。梵名ハーリティーを音写した訶梨帝母(かりていも)とも言う。三昧耶形は吉祥果(ザクロの実。種が多いことから多産・豊穣の象徴)。種子(種字)はウーン(huuM)。
夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将般闍迦(パンチーカ、散支夜叉、半支迦薬叉王[1])の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母でありながら、常に他人の子を捕えて食べてしまうため、釈迦は彼女が最も愛していた末子・愛奴児(ピンガーラ、プリンヤンカラ 嬪伽羅、氷羯羅天、畢哩孕迦)を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。以後、仏法の護法善神となり、子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護とも言われる。」そうです。こちらは都の天然記念物になっている大公孫樹(おおいちょう)です。樹齢700年だそうです。
15日、16日と埼玉の実家のお盆で帰省してきました。
実家では昔ながらの盆飾りがしてありました。
お墓のあるお寺さんは昔、
小学校の頃、登校前に 皆で集まって野球をした場所です。今見るとなんて狭い所で遊んでいたのかと思いますが、当時は貴重な遊ぶ場所でした。ただ、上級生の命令で始業時間すれすれまで野球をしていて、急いで走らされて学校に行ったものです。自分が上級生になった時はそれが嫌だったので、皆で早く学校に行って、校庭で遊ぶようにしました。
百日紅や松や
蓮池は
60年前と変わらずに元気でした
お寺の入り口のある地蔵さんは昔から見つめています。60年前に当時88歳だった近所のおばあさんが毎日地蔵さんをお参りしていたことを思い出しました。
小田原に出張でした。暑い中お城に行ってみました。2度目なので今回は正門の方から行きました。小田原城(おだわらじょう)は、戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、北条氏の本拠地として有名です。江戸時代には小田原藩の藩庁があり、城跡は国の史跡に指定されています。
鋼門(再建)
天守閣です。暑さにもかかわらず、夏休みで結構観光客が来ており、ちょっと涼しい日陰で休んでいました。
訪問地からの帰りがけに駅に向かっていたら北条氏政らの墓がありました。
さらに歩くと大乗寺がありそこの庭にネコさんがいましたが、
警戒されてしまいました。
寺の入り口には百日紅の老木が目いっぱい花を咲かせていました。
月曜日は都営地下鉄の浅草橋駅の上にある施設を訪問しました。昼食を現役時代にお世話になった墨田区側のお店で摂り、訪問地に向かいました。これは吾妻地蔵尊です。吾妻橋の東詰のところに立っています。
この地蔵尊は、吾妻橋一丁目町会有志によって、震火災水難殉難者各霊供養、交通安全御守護のために建立され、また関東大震災や東京大空襲慰霊の卒塔婆も置かれています。地蔵尊は墨田区に勤めていたかなり前から注目していました。それは、明治20年代に生まれた田舎の祖父が、関東大震災の時に埼玉の田舎から動員されて隅田川の死体を処理したということを聞いていたからです。
爺さん子の私は夜な夜ないろいろな話を聞かせてもらいましたが、この話も印象的でした。隅田川に死体が川面を埋め尽くすほど浮いていて、それを引き上げて埋葬したということでした。死臭で大変だったが夢中で処理したと言っていたということを、この地蔵さんを見ると時々思い出していました。
今日は思い切って地蔵さんを撮ってみました。
その後も私が生まれる20日ほど前の1945年3月10日の東京大空襲で10万の命が奪われて時も、隅田川は同じようになったと、これは小学校5年生の時に、修学旅行で東京見学に来た時にバスガイドさんが話していたことを思い出します。
今は、浅草から東京スカイツリーを訪れる方が、この脇を通り過ぎていきます。これは下流の駒形橋から見た吾妻橋です。
これは駒形橋の西詰の麦とろの隣にある駒形堂です。元禄年間(1688~1704)までは、川に面して東向きであったが、現在は川を背にして、西向きに建っています。江戸のむかし、舟着場があり、渡しや船宿もあって、大変賑わったそうです。こんなのがありました。
元禄5年(1692)浅草寺本尊が垂迹した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は待乳山聖天にいたる10町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄6年3月浅草寺第4世宣在が願主となり建立したものである。
駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑もいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦9年(1579)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現存の碑が当初のものであるかは詳かではないが、昭和2年(1927)5月に土中から八軒、同年修補再建されたものである。(東京都教育委員会)となっています。