ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

入谷鬼子母神・45年前

2015年10月10日 09時52分27秒 | 近郊地散策

入谷鬼子母神の周辺を散策してみました。45年前の昭和45年4月に東京都庁に入り、下谷保健所の配属になりました。4月時点では保健所は仮庁舎で坂本小学校の空き教室を使用していました。

隣の鬼子母神は朝顔市としての記憶しかありませんでした。

7月6・7・8日の3日間、入谷鬼子母神(真源寺)と、その周辺は、朝顔市に訪れる人で大賑わいとなります。
 朝顔は、奈良時代に薬用植物として中国からもたらされ、当初の花は青色だけだったのだそうです。やがて花の愛らしさが注目されるようになり、文化年間の初め頃から、下谷御徒町あたりで植木職人が栽培を始め、変種や珍種が育てられるようになりました。
 そして、文政年間(1818~30)、嘉永・安政年間(1848~60)、明治15年(1882)~大正の初めにかけて、3度の朝顔ブームが湧き起こりました。朝顔は、浮世絵などにもしばしば登場する、江戸・東京の夏の風物詩となったのです。
 なかでも明治中期の入谷に出た植木師・成田屋留次郎の朝顔は、変化咲で一世を風靡。さらに成田屋は京都や大阪から珍品を集めて図説を作るなど、朝顔紹介のプロデューサーとして活躍し、入谷の朝顔を世に喧伝しました。
 ところが、入谷あたりの市街化が進んだため、植木屋の多くが移転。さらに第二次世界大戦の戦火によって、朝顔は一時、東京から姿を消してしまいます。地元の有志が復活を考え、かつて朝顔を栽培していた職人たちに依頼して入谷の朝顔が復活したのは、昭和22年のことでした。

浮世絵と朝顔が飾ってありました。

朝顔市では浮世絵も売っているようです。

★ランドマーク真源寺:真源寺は万治2年(1659年)光長寺20世・日融が当地に法華宗本門流の寺院を開山したということです。鬼子母神を祀っていることで、入谷鬼子母神の名称で有名な寺院である。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落も有名である。また、7月の七夕の前後に当寺院の境内で、朝顔市が開かれることで、入谷の名物であることはもとより、東京下町の夏の訪れを伝える行事として、全国的にも知られている。下谷七福神のひとつ福禄寿が祀られています。雑司ヶ谷鬼子母神堂中山法華経寺とともに江戸三大鬼子母神として多くの崇敬を集めています。

お寺さんは眞源寺で下谷七福神の福禄寿となっています。

坂本小学校は鬼子母神と隣り合わせになっています。表に回ってみました。

昭和45年4月に入庁し、1ケ月の研修期間を経て5月に下谷保健所の配属になりました。上野駅から所在を知らせる茶封筒を頼りにたどり着いたのはこの小学校でした。当時は保健所が建て替えでここの空き教室が事務所になっていました。クーラーもなく、夏場は水の入ったバケツに足を入れて事務をしていたことを思い出します。

9月には新しい庁舎に移転しました。

美濃部革新都政の住宅政策で、複合事務所になっており事務所の上は都営住宅です。各所で都の事務所を建て替えるときに都営住宅を併設させていました。福祉を大切にする革新都政だと感心しました。

当時、台東区には東京都下谷保健所と東京都浅草保健所の2か所がありました。私が昭和49年に墨田区に異動になった後、統合されて別の場所に移ったため、今はこのような団体の事務所になっていました。

青春のど真ん中の25歳から29歳までここで働かせていただきました。

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一葉堂・樋口一葉

2015年10月09日 23時35分25秒 | 近郊地散策

荒川区から台東区に戻って、都庁の同期生が開いている木目込み人形屋に寄ってみました。保健所の食品衛生監視員を途中で退職して開いたお店です。ちょうど人形教室を開いているところで、ご婦人が6人ほどいらっしゃいました。この家は樋口一葉の家址、一葉が「たけくらべ」を書いた時に住んでいたところで、一葉記念館の目の前にあります。

下の碑は「ここは明治文壇の天才樋口一葉旧居のあとなり。一葉この地に住みて 「たけくらべ」を書く。明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を 慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。
 菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和十一年七月のことなり き。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和 二十年三月この辺一帯焼野ケ原となり、碑も共に溶く。
 有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家として の面目、これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐ に由なし。
僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
       昭和二十四年三月
            菊  池   寛撰
            小島政二郎補並書
                 森田春鶴刻。

真葵政先生の作品です。

その他にもたくさん作品が展示してありました。

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素盞雄(すさのを)神社(荒川区)

2015年10月09日 16時36分18秒 | 近郊地散策

リハビリを兼ねて自転車で近郊を散策しています。今回は江戸検の東京まつりの名所にあげられていた素盞雄神社を散策しに出かけました。亀戸からスカイツリーの下の通り言問通を行きました。言問橋をようやく上り、一息入れて川の上流、下流をパチリ、上流には2か月あまり入院していた病院があります。下流は東武スカイツリーラインの鉄橋です。素盞雄神社には入り口が3カ所ありますが、こちらは国道4号線からの入り口です。突き当りに大銀杏がります。大銀杏は神社のHPによると「飛鳥の杜<あすかのもり>と読みます。母乳の出ない婦人がその皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒いて幼児の無事成長を祈願した「子育ての銀杏」をはじめ樹齢五・六百年という大イチョウ。 4月8日「御創建疫神祭」桃の御守に因む一重八重、紅や白の桃の木々。このように瑞光石を中心に樹木が生い繁り、四季折々の変化をみせるこの境内を「飛鳥の杜」と言います。 」とありました。また、その根元にはこんなものが、

松尾芭蕉の「奥の細道」旅立ちの記念碑がありました。千寿といふ所より船をあがれば
  前途三千里のおもひ胸にふさがりて
  幻のちまたに離別の
  なみだをそそぐ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」

こちらが正門?

社殿

狛犬が勇ましかったので撮ってみました。

神楽殿です。

地蔵堂です。

寺のHPでは「文政12年(1829)年編纂「江戸名所図会」には境内に「ちそう(地蔵)」として、この地蔵堂の様子が描かれています。
 これは地蔵を中心とした江戸時代の庚申塔三基・宝篋印塔一基などからなる石塔群です。  庚申とは一年に6回巡ってくる干支の「庚申(かのえさる)」のことで、この日には人の体内にいる<三尸の虫>が眠っている間にその人の罪を天帝に告げてしまうために、徹夜して夜を過ごす庚申待の習俗が行われ、人々は講を形成して寄り合い、三年間で計18回の庚申待を行うと諸願成就するといわれ、その記念に建立されたのが庚申塔です。
 当社の延宝6年(1678)庚申塔には、人の罪を<見ざる・言わざる・聞かざる>として三匹の猿と、早く朝が来るようにと二羽の鶏が刻まれています。」とあります。

富士塚です。

端光石<ずいこうせき>が祀ってあります。
 御祭神すさのお大神・あすか大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩を「瑞光石」と言います。
  文政12年(1829)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現隅田川)まで延びていた為に橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
 この小塚から「小塚原」の地名が起こり、「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をも窺うことができます。
 尚、現在の周辺小学校の名称に冠された「瑞光」もこの瑞光石に因むものです。
 元治元年(1864)には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。

祭りは盛り上がるようです。

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清澄庭園(江東区)

2015年10月03日 21時10分20秒 | 公園散策

リハビリを兼ねて清澄庭園までサイクリングをしました。自宅の近くにある横十間川からそれに続く親水公園に沿って進むと水車小屋がありました。

さらに田んぼと案山子のコーナーもありました。東陽町に向かい木場公園まで行きました。木場公園にはバーベキューができる場所あり、大いに盛り上がっていました。

公園からスカイツリーが見えました。ススキのような穂はパンパです。

少し先まで行き過ぎたので、戻りながら隅田川に向かって行くと、ようやく清澄庭園に着きました。

宴会をするので、入り口にある施設を利用したことがありますが、夜の宴会でしたので、庭園は良く見えませんでした。

今回はどうにか一周しました。入ってすぐのところにある手水鉢と燈籠です。バックの楓が色付くころは見ものになるようです。

庭園内の遊歩道は、敷石や砂、石垣などで、杖をついて歩くには少し大変でした。

午後4時頃でしたが入園者はかなりいました。水辺や中の島に行くには石垣や石橋などで行くしかありませんでした。そこは止めて、最も外周の道を歩きましたが、道をが細くすれ違うのに気を使いました。

途中に由緒書きの石碑がありました。

★ランドマーク清澄庭園泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。
この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として 一応の竣工をみました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を 代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。
清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こう した庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7 月に公開しました。

また、昭和52年には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園しました。ここには芝生広場、パーゴラなどがあります。また、サクラの木が20 本ほど植えられ、春のお花見の場となっています。なお、庭園の方は、昭和54年3月31日に東京都の名勝に指定されています。水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。
この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。享保年間(1716~1736年)には、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃にある程度庭園が形づくられたようです。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として 一応の竣工をみました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を 代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。
清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時図らずも災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。岩崎家では、こう した庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して昭和7年7 月に公開しました。

また、昭和52年には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園しました。ここには芝生広場、パーゴラなどがあります。また、サクラの木が20 本ほど植えられ、春のお花見の場となっています。なお、庭園の方は、昭和54年3月31日に東京都の名勝に指定されています。東京都公園協会のHPにはと書かれていました。

奥の庭園には松尾芭蕉の「古池やかわず飛びこむ水の音」の石碑や、

石仏群がありました。

水辺はいろいろな風景が見られました。水に映る中の島の松です。

多重石塔はいろいろなところにありました。。

ここからもスカイツリーが見えます。

少し疲れたので、帰りは一直線に自宅を目指しました。途中いくつかの橋を越えてきました。自転車で橋の坂を上るのが大変ですが、止まらずに登り切ったことでほっとして、あたりを見渡したらここからもスカイツリーがよく見えました。

猿江橋と書いてありました。

全体で2時間、往復に自転車で1時間、公園内での1本杖の歩数は3000歩ほどでした。まずまずのリハビリになりました。明日足が攣るのが心配です。

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三囲神社

2015年10月01日 11時00分50秒 | 近郊地散策

隅田川沿いにある三囲神社を散策しました。30年前から神社の周辺で仕事をしていたのですが、当時は寂れた神社がある程度の認識でしたが、今回脇を通ってみると見違えるように改修されていました。一の鳥居でしょうか。鳥居の脇にこんな看板がありました。案内が出ています。

倉稲魂命=宇迦之御魂神を祀る。旧村社(現在はかつての小梅村にあたる地区にあるが、旧地は須崎村にあったと推測されている)。元、田中稲荷と称した。創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。

元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀した。

本来は牛島神社の隣にあったが、洪水で一度流され、河岸に堤が築かれることになった際に南へ少し移動した。その堤のために、対岸から見ると、鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれた。

二の鳥居の前の石垣に二の鳥居を入ると

右側に藤堂高虎が奉納したという石塔がありました。

拝殿です。

雨乞いの碑

白狐祠鳥居

と白狐祠老翁老女の石像

三越の商標とライオン

三井家より移設の三角石鳥居

隅田川七福神の大国神と恵比寿神

こんこんさんは稲荷神社の象徴で、昔のこんな絵もありました。隅田川を船で来て参拝したようです。

 

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