ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ=台東区)江戸名所図会めぐり

2016年10月25日 10時09分13秒 | 江戸名所図会めぐり

江戸名所図会めぐり、若い時はまったく興味がありませんでした。今回訪れた小野照崎神社は最初に就職した職場のすぐ近くにありました。江戸名所図会にも出てくるような有名な神社とは知らずに

先輩の職員が神社のお祭りの話をしていましたが、聞き流していました。

★ランドマーク小野照崎神社:小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。
現在の社殿は慶応2年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。
例大祭は5月19日で、3年に一度、本社の神輿渡御が行われる。台東区教育委員会掲示より)拝殿

境内にある庚申塚です。日本三庚申となっています。日本三庚申とは京都の金剛寺(八坂庚申堂)、大阪の四天王寺庚申堂、東京の入谷庚申堂だと言われているようです。

江戸名所図会の入谷庚申堂のキャプションにも「喜宝院に安ず。摂の四天王寺の青面金剛と同作の霊像となりといへり。」あるのでこの青面金剛は四天王寺庚申堂のものと同作と書かれています。ただ「喜宝院に安ず」ということで喜宝院はないので入谷庚申堂は消滅しているものと思われます。

当日は逆光で塚全体が撮れませんでしたがこのようになっています。

庚申塚の前にある力石です。

江戸名所図会には載っていませんが、境内に下谷坂本富士塚があります。浅間神社には狛犬ならぬ狛猿です。

★ランドマーク下谷坂本の富士塚:この塚は模造の富士山で、文政11年(1828)の築造と考えられている。「武江年表」同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。 境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山進行は室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。 ここの富士塚は高さ約5m、直径約16m。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定された。(台東区教育委員会)国が文化財に指定している物は、全国で4基のみである(他の3基は練馬区の江古田富士、豊島区の長崎富士、埼玉県川口市の木曽呂富士)だそうです。

普段は入れないので草が生い茂っていました。

こちらは織姫神社に稲荷神社です。

お百度石江戸名所図会では、稲荷が左手に見えるのでこちらの鳥居が正面のようです。

最初に入った鳥居の左側には境内末社として三峰神社と御嶽神社がありました。

入谷や根岸、金杉には江戸名所図会に描かれているところが多くあります。古地図(江戸切絵図)です。入谷の鬼子母神も近くにあります。

 

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篠塚稲荷・榊神社(六天社)から西福寺、浄念寺、龍寶寺まで(蔵前江戸名所図会めぐり)

2016年10月22日 08時17分35秒 | 江戸名所図会めぐり

近場のランドマーク探しをしていますが、最近は江戸時代に書かれた江戸名所図会を参考に散策しています。

江戸名所図会(えどめいしょずえ)は江戸時代後期の天保年間に斎藤月岑が7巻20冊【前半1–3巻(10冊)は1834年、後半4–7巻は1836年(天保7年)】を刊行、鳥瞰図を用いた江戸の名所図会(地誌紀行図鑑)。日本橋から始まり、江戸の各町について由来や名所案内を記しています。長谷川雪旦の挿図も有名です。

今回は柳橋から篠塚稲荷、第六天(榊神社)、西福寺、淨念寺、龍寶寺を巡ってみました。

篠塚稲荷です。

江戸名所図会では第六天と篠塚稲荷は隣り合っていますが、第六天は少し離れたところに移転しています。

★ランドマーク篠塚稲荷神社当社の創起年代は詳らかではないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり。
正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年神仏分離の際玉蔵院は廃せられた。古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る。

句碑「涼風や月雪 はなの隅田川」

第六天榊神社の鳥居

第六天榊神社

★ランドマーク榊神社(第六天榊神社)景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したということで、古くから「第六天神宮」と呼ばれてきました。明治6年(1873年)に社号を「榊神社」へ改称しました。現在の所在地には、かつて官立の図書館浅草文庫があったところです。浅草文庫跡碑浅草文庫は明治14年(1881年)5月に閉館、その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現東京工業大学)の校地となっていました。関東大震災後に東京高等工業学校が目黒区大岡山へ移転したことから、昭和3年(1928年)にはその跡地の一部(同校正門付近)に移転し現在に至っています。(ウイキペディアを参考にしました)

拝殿です。

繁盛稲荷社

 七福稲荷神社

江戸切絵図より

西福寺です。

わたしの彩(いろ)の「江戸名所絵図」 大人の塗り絵より。

★ランドマーク西福寺:「貞阿が西福寺と号して駿河に創建、慶長3年(1598)駿河台下に移り一寺となし、また、別院真行院、塔頭六ヵ院(源祟院、法林寺、林照院、長應院、存心院、智光院)を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めていました。」触頭の意味が分からず調べてみましたがあまり理解できませんでした。goo辞書によると「江戸時代、寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達し、また、配下の寺院からの訴願を奉行に伝えるのを役とした寺。」と書かれていました。

 

次は淨念寺です。江戸名所図会には淨念寺、東漸寺、龍寶寺と並んで描かれています。

わたの彩(いろ)の「江戸名所図会」大人の塗り絵より

東漸寺は不明ですが龍寶寺は残っていました。淨念寺には台東区の有形文化財の木造阿弥陀如来立像があります。浄念寺平成2年度登載

浄念寺の木造阿弥陀如来立像 浄念寺は浄土宗で、慶長元年(1596)江戸神田駿河台に開創、同10年現在地に移転しました。本像は、開創後間もない頃、ある老翁から寄進されたと伝えますが、詳細な点は不明です。ただし、文政12年(1829)編集の『御府内寺社備考』という記録には、当寺の本尊として記載されていますので、それ以前の伝来は確実です。

像高は、84.8センチメートル。材質はヒノキで、肉髻珠(頭部の隆起した部分)や白毫(額部の隆起した部分)には水晶をはめこみ、両手は来迎印を結んで、両足を揃えて直立します。

また、背中には横にノコ入れがあります。像内には、本像の制作に用いたノミ・カンナを納めたという伝承がありますので、背のノコ入れはその際のものかと思われます(納入品については現在のところ未確認)。

本像は、衣の彫りが深く、足首の深い張りが顕著となっている点で、鎌倉時代初期の制作と推定されます。また、優れた彫刻技術による丁重なつくりであることから、京都あるいはその周辺で造像されたと考えられます。(台東区のHPより)

 

淨念寺の化用天神は、亀戸天神や湯島天神、平河天神などの江戸二十五天神のひとつに数えられるようです。

お寺さんにはいろいろな有名人の墓がありますが、浅学の私には残念ながらほとんど知らない人です。

墓地に入ったすぐのところに「千代の山雅信之碑」が建っていました。こちらは私たちが相撲に夢中になっていたころの横綱です。鏡里、吉葉山、千代の山、この後に栃錦、若乃花の時代だったと思います。

千代の山は、昭和17年1月初土俵、20年11月入幕、24年10月大関、26年5月場所後に横綱、34年1月引退。11代九重となり、42年2月に出羽海部屋からの破門の形で九重部屋を創設。52年10月29日歿。

龍寶寺です。もと宇治・平等院にあったものを慶長年間、神田駿河台に創建の時、宇治より寄付されたといことです。また、初代・柄井川柳の菩提寺で古くから「川柳寺」として知られていたそうです。

江戸名所図会より
手前に新堀川が流れ、川に沿った門前には柳の木となっています。中に入れなかったので、ぐるりと一回りしてみました。下の切絵図のように、淨念寺には及びませんが、当時はかなり広かったようですが、だいぶ狭くなってしまったようです。

江戸切絵図より  

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猿江恩賜公園(猫)・亀戸中央公園(コサギ)

2016年10月18日 20時50分48秒 | 公園散策

住まいの近くの都立公園を散策してみました。猿江公園は夕方、亀戸中央公園は昼前です。

いつもリハビリウオーキングしている猿江公園には3匹のネコさんに出合います。なかなか写真の撮れなかった三毛猫さんを撮ることができました。よそ見していたのでこちらを向くように願いしてようやく向いてもらいました。ちょっとうさん臭そうですね。またよそ見されてしまいました。

二周目に来た時はもういませんでした。

上を見たら狂い桜?(ソメイヨシノ)の花が咲いていました。

1周1090mの公園を3周することを目標にしています。両手杖でのろのろ歩いているので、1周は20分かかってしまいます。

そろそろ西の空が暗くなってきます。秋空がひろがっています。

いろいろと動きが見えます。すぐに夕焼け空になりました。

池に移る絵がきれいでした。

 

東京スカイツリーの方向を見ると木の間から見えます。

逆さツリーです。

酔芙蓉が酔って寄り添っていました。

亀戸中央公園は猿江公園より少し離れていますが、静かでいいところです。

★ランドマーク亀戸中央公園この公園は、日立製作所の亀戸工場のあったところを買収し、整備したもので、A・B・Cの3地区に分かれています。
A地区には、中央広場に時計塔やアスレチック風の木製遊具が設置され、子供たちの格好の遊び場になっています。

B地区には、人工池、流れがあり周囲は芝生の憩いの広場となっています。
C地区は、運動広場として整備され、多目的球技広場、テニスコートのほか児童コーナーがあり、ターザンロープ等の木製遊具は子供たちの人気を集めています。
またこの公園は「サザンカの名所」として親しまれています。開園年月日 昭和55年6月1日

昭和49年から昭和52年までこの近くに住んでいました。その頃はまだ日立製作所の工場がありました。

欅が少しずつ秋めいてきます。

さざんかがたくさん植えてあります。少し咲いてきました。

キバナコスモスはかなり長く咲いています。

公園から旧中川に出るとコサギが佇んでいました。なにやら横を向いたらいきなりジャンプしました。

 

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吉良邸跡・両国橋・両国国技館

2016年10月15日 10時25分03秒 | 歴史の小道

1年前に訪れた吉良邸跡と両国橋を古地図や錦絵を挿入して再編集しました。両国国技館についても少し付け加えました。

知りませんでしたが、下の由来にも書かれていますが、この白い壁は「なまこ壁」というらしいです。盛り上がった丸さがナマコに似ているからということでした。私にはあまりピンときませんが。今はその一角に小さな公園が作られています。

これは国立国会図書館のデジタルコレクションの分間江戸大絵図 完より撮ったものです。享和3(1803)刊、金丸彦五郎影直//図となっています。ペイントソフトで書きこんでみました。

★ランドマーク吉良邸跡地旧本所松坂町(両国3丁目)吉良家上屋敷は広大で、東西73間(134m)、南北は34間(63m)であって、坪数2,550坪と記録されています。
吉良上野介が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが、元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、前後1年半に満たない短期間でした。
屋敷の表門は東側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側に位置し、東・西・南の三方は周囲に長屋があり、北の方だけ本多孫太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。建坪は母屋が381坪、長屋は426坪です。
現在、吉良邸跡として残る本所松坂町公園は、当時の76分の1にすぎませんが、地元両国3丁目町会有志会が発起人となって、邸内のいわゆる「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年3月東京市に寄附し、これによって貴重な旧跡が維持されました。なお、区移管は昭和25年9月です。公園の周囲にある高家を表すなまこ壁の、長屋門を模した高さ2mのコンクリート壁と門とが、わずかに当時の模様を偲ばせます。」

現役当時は首洗いの井戸となっていましたが、今はみしるし洗いの井戸となっていました。

中には吉良上野介義央公座像などがあります。

吉良の屋敷は回向院と接するくらいあったようです。

江戸名所図会より回向院

参道の脇に説明書きがありました。

回向院の境内の中に建てられた旧の両国国技館、日大講堂があったところです。跡地はマンションになっています。日大講堂は、私の学生時代の43年日大当局の経理不正問題をきっかけにおきた大学闘争で日大全学共闘会議議長だった秋田明大の指導で3万人参加の大衆団交が行われたところです。保健所現役の時は、すでに日大講堂は使われなくなり建物だけが残っていました。

回向院を後にして、両国橋に向かいました。

★ランドマーク両国橋明暦の大火(振袖火事)明暦3(1657)年)をきっかけに、万治2(1659)年に架けられた。正式の名はただの”大橋”と呼んだが、武蔵、下総両国に架かること新大橋などができてから、両国橋が正式名になった。橋の両側に火除地として広小路が設けられ、江戸随一の盛り場として賑わった。そうです。

江戸名所絵図に見る両国橋です。江戸名所図会より

広重の浮世絵両国花火です。国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所より同じく広重の大川端の絵です。国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所より

こちらは今の両国橋です。

橋の真ん中から上下流を見渡しました。

上流には東京スカイツリーが見えます。

下流は新大橋を望みますが、その手前は高速道路の橋が架かっています。

江戸切絵図

真ん中から墨田区側に戻りました。橋の袂には「ももんじゃ」があります。

20年ほど前に、一度食べに行ったことがあります。

この周辺にある相撲部屋は春日野部屋です。

若乃花と栃錦の相撲をTVで見ていたものにとっては春日野部屋は懐かしいです。

★ランドマーク春日野部屋春日野部屋は横綱・栃錦が現役力士のまま二枚鑑札で9代春日野を襲名して継承したところです。栃錦は、師匠として横綱・栃ノ海や大関・栃光、関脇・栃東、関脇・栃赤城、関脇・栃乃和歌などといった多くの関取を育てています。春日野理事長時代に今の両国国技館を建設しました。

写真は日本相撲協会のHPより

国技館の思い出回向院内にあった両国国技館は終戦でGHQに接収され、メモリアルホールとして改称・改装されプロレスリングなどに使われ、その後日大講堂として使用されていました相撲は昭和29年9月からは蔵前国技館で行われていました。

現在の両国国技館は旧両国貨物駅跡地に建設され、1985年(昭和60年)1月場所より使用されています。。新国技館は、総工費150億円の地上2階・地下1階で、全てを借金なしでまかなったと言われています。国技館は雨水利用しています。建設当時担当していた保健所の環境衛生監視員の村瀬誠さんが区長と相撲協会を説得して作らせたものです。

国技館に降った雨が周辺に流れ出すのを一時的に防ぐとともに、管内のトイレなどの水は雨水で補うようにしたものです。雨水利用が広まるきっかけになりました。この後建設された都庁舎も同じように雨水利用しています。

個人的には国技館地区担当の食品衛生監視員をしていたので、建設当時から国技館につくる飲食店や売店、地下にある調理場の相談にあたっていました。国技館名物の焼き鳥は自動焼き鳥機で焼かれています。前身の蔵前国技館では炭火で焼いていましたが、興行場では防火のため火が使えないため電気で焼けるように工夫されています。オープン後は毎年1月5月9月の場所開催時には、従業員に対する事前衛生講習と出来上がった食品の細菌検査を実施して安全を図っていました。

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意富比神社(船橋大神宮)

2016年10月12日 20時26分33秒 | 江戸名所図会めぐり

晴天につられて東京スカイツリーのある押上駅から船橋まで京成電車で出かけました。江戸名所図会に船橋意富比神社と載っている船橋大神宮を散策しました。江戸名所図会大人の塗り絵より

京成船橋駅の次が大神宮下駅になります。少し前に船場駅と同様に高架になりました。

江戸名所図会の右隅にある鳥居の所から入りました。入り口を入った右側に建っています。

最初の御神燈です。

参道にはいろいろな碑が立っています。

二の鳥居 第62回神宮式年遷宮 記念事業 二の鳥居造替 高さ18尺 笠木24尺 平成25年6月15日完成
 ※参考 伊勢神宮の宇治橋鳥居 高さ7.44m、約22尺 ということだそうです。神社のHPより

神社にもお百度石がありました。拝殿です。

★ランドマーク意富比神社(船橋大神宮):景行天皇四十年に日本武尊が東国御征討の途次、船橋に到着し天照皇大神を奉祀して創建したといいます。延喜式に「意富比神社」と記載される古社で、源義朝が院宣を受けて神社再興の折には船橋伊勢大神宮と記載されているといいます。江戸開府の頃、徳川家康公が社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石の土地が幕府から寄進され幕末に至りました。

社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」のように船橋地方随一の名所であり、遊山の旅人はたいてい参詣したそうです。
明治直前の慶応4年(1868)に戊辰戦争の局地戦が房総で起こった際、当社が幕府方脱走兵の一拠点とされたために、官軍方の砲撃で消失という災難にあってしまいました。
 明治に入り、当社は仮社殿でありましたが、まもなく正式に再建されました。また、明治初期に新政府の政策として、全国の神社の社格が決められた時、当社は現市域唯一の「県社」とされました。 その後、明治6年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正12年(1923)、昭和38年(1963)、同50年(1975)、60年(1985)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道に至るまで随時造営がなされ、県文化財指定の灯明台の修復なども経て、今日に至っております。(神社のHPなどより)

由緒が書いてるようですがよく読めません。

神輿庫です。

神輿が二基納まってます。向かって左に本町八坂神社の神輿。右に湊町八剱神社の神輿。だそうです。また、通常、社殿の中に鎮まっている神様がお祭りの際に乗のが神輿ですが、ここでは実はこの神輿自体が神社そのもので、神様は常にこの神輿にお鎮まりになっているそうです。

 

常磐神社(摂社) 大神宮を崇敬・庇護した徳川家康公、秀忠公を御祀りしてあります。

大鳥神社:御祭神は日本武尊で、例年十二月の酉の日、壱之酉、弍之酉が例祭日で、境内は酉の市として賑わい、熊手等を商う露天商が出店して、夜遅くまで近在の人々で活気があり、「船橋のお酉様」として親しまれております。

灯明台(千葉県指定文化財)大鳥神社の後ろの丘に立てられている木造瓦葺の灯明台は、3階建てで高さ12m程あります。3階の灯室は、洋風の灯台の様式を採り入れた六角形で、ひときわ目を惹きます。明治13年(1880)、地元の漁業関係者によって建設されました。普段は非公開ですが、正月三が日は公開しているということです。

慰霊碑のところに猫さんが鎮座していました。

豊受姫神社(外宮)

 御祭神の豊受大神は、伊勢豊受大神宮(外宮)に御祀りされ、天照皇大御神のお食事を司られる神様で、五穀豊穣と衣食住の守り神様です。こんなものが置いてありました。

境内社がたくさんあります。ここへくると多くの神社にお参りができるようです。天之御桂宮

こちらは趣があったので入ってみました。お宮には八雲神社と書かれていました。

江戸名所図会左側からの入り口階段があります。上から見たところ登ったところに船玉神社です。

末社群に続いて金毘羅社があります。隣が神輿庫です

江戸名所図会大人の塗り絵より

絵では9月20日の祭りになってますが、今は10月20日が大祭になっています。

 

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