ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

秋の花(彼岸花他)9月12日まで

2017年09月12日 23時51分03秒 | 季節の花

季節の巡りは早く一挙に秋に突入です。リハビリウォーキングしている猿江恩賜公園などにも花が増え歩くのが楽しみになります。

 

真っ赤な彼岸花が咲き始めました。

白いものもあります。

ホウセンカもいろいろな種類があるようです。

ニラの花も咲いています。ニラの花に蝶です。

パラガイオオオニバスも頑張って咲いています。

蓮の花は一輪ずつ継続して咲かせています。

酔芙蓉

 

今年初めて見たヘビウリです。

大島・小松川公園にも行ってみました。

初秋の香りキンモクセイです。白い花が早く咲きました。

この木の花も気になりました。

オシロイバナも単色ではありません。

秋のさわやかな空、ちょっと夏が残っている空、

久しぶりに真っ赤な夕焼け団地のベランダから見ました。

東の空に虹がかかりました。

たくさん咲いているので希少感がないのでつい撮るのを遠慮していました。

 

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根津神社(根津権現)江戸名所図会めぐり

2017年09月10日 23時34分54秒 | 江戸名所図会めぐり

一度行ってみたいと思っていた根津神社を散策しました。地下鉄や都バスから少し離れているので、思い切って自転車で行きました。光源寺までは8㎞程です。

光源寺から坂を下りて北口に着きましたが、境内を表門の鳥居まで歩きました。表門から見ています。突き当りのつつじが有名です。

古い神社の略記がありました。

★ランドマーク根津神社:御祭神は須佐之男命・大山咋命・誉田別命  相殿として 大国主命・菅原道真公

【由緒】日本武尊が1900年近く前に千駄木に創祀したと伝えられている古社で、文明年間(1469年-1486年)には太田道灌により社殿が造られた。万治年間(1658年-1661年)にこの地が太田氏の屋敷地となったため東方に移り、さらに団子坂上に遷座。現在の場所は、宝永2年(1705年)江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が兄綱重の子・綱豊(のちの第6代将軍・家宣)を養嗣子に定めた際、綱豊の産土神とされていたため綱豊の元の屋敷地を献納されたもの。社殿が宝永3年(1706年)に完成し、同年遷座。

 権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされていて、社殿7棟(本殿・幣殿・拝殿、唐門、西門、透塀×3、楼門、)が国の重要文化財に指定されている。

神橋と楼門です。戦災にも焼けずに残って国宝(国指定重要文化財)となっています。大人の塗り絵「江戸名所図会」より江戸名所図会に描かれたようなままに残っています。

水舎唐門

昔は国宝と言っていましたが、今は国指定の重要文化財といいいます。

唐門に続く塀は透塀というそうです。

これも国宝になっています。石燈籠(宝永3年記名)神社と一緒に納められたようです。

銀杏の木のところに東京10社めぐりの看板です。これで半数以上散策したことになります。

唐門を入ると左右に狛犬と銅灯籠があります。

西門も国指定の重要文化財です。
青銅灯篭(国指定重文)
社殿前に一対  藤堂和泉守高敏奉納こちらが拝殿です。

幣殿(重要文化財)とは拝殿と本殿の間の建物と書かれていました。

ツツジ山のところに乙女稲荷神社があります。

 

★徳川家宣胞衣塚:六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。

この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月5日ここで生まれた。

 胞衣とは、胎児(母胎の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。

この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚なあら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。

 本殿横には、明治14年に建てられた「胞衣塚碑」がある。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。

 家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。(文京区教育委員会掲示より)(文京区教育委員会掲示より)

庚申塚です。

 

★庚申塔(六基・根津神社境内):ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡幅などのため、根津神社に納められたものである。

 正面から左回りに刻まれた像、銘文を見ると、

①青面金剛・猿・鶏・寛文8戌申(1668)・駒込村・施主15名

②観音像・庚申供養・施主12名

③日月・青面金剛・猿・延宝8庚申(1680)願主1名

この中で、⑤の庚申塔は、寛永9年(1632)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和5年のもので、これより9年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪魔を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。

 庚申信仰は、中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申(かのえさつ・十干十二支の組合わせ)の夜は、人がねむると、三尸の虫がその人の体からぬけて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合してわが国に渡米し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。

 江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集り、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過ごした。また、祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神であるとの説もある。(文京区教育委員会掲示より)

賽大神

《塞の大神碑》 「この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘1-1)にあった。ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。

この追分は、日本橋から一里(約四粁)で江戸時代一里塚のあった所である。今も角店は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋よりに一里塚があり、榎が植えられていたが、明和3年(1766)に焼け、その跡に庚申塔がおかれたが、これも文政7年(1824)の火災で欠損した。

その跡地に、この塞の大神碑が、明治6年(1873)建てられた。同43年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。

 塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれる。

─郷土愛をはぐくむ文化財─   文京区教育委員会 昭和56年3月」

北門からの乙女稲荷の鳥居です。

右手に駒込稲荷神社

 

ここから入りました。

こちらが裏門でしょうか。

根津権現から登ったところに四季花屋敷と書かれたところがあります。その上が団子坂になっていますが錦絵に描かれています。広重 名所江戸百景
千駄木団子坂花屋敷

★文京区千駄木解説: 一帯はもともと千駄木御林おはやしと称した林地で、上野寛永寺創建の後、薪材の供給地として寄進された。千駄木の名は、一日千駄の薪を伐り出したことにちなむとされる。千駄木から谷中、上野に通じる団子坂は、坂上から佃沖が見渡せたため別名汐見坂とも言い、道沿いに団子屋が多かった。坂上には植木屋が多く、年中何らかの園芸植物が見られた。安政3(1856)年染井から菊栽培の植木屋が移り住み、菊人形で知られた。坂下には、本郷台地と上野台地の間を縫って谷戸川(藍染川)が流れていたが、関東大震災後に暗渠とされた。宇平治という植木屋が紫泉亭と称する花屋敷を開き、庭園には池を設けたという。(錦絵で楽しむ江戸名所より)

根津権現は浮世絵や錦絵などに多く描かれています。

歌川 広重 2代

江戸名勝図会   根津 より

小林清親・根津神社秋色

楼門がそのまま描かれています。

笠松紫浪・月の出根津権現

いまのままの西門ですね。

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光源寺(駒込大観音)江戸名所図会めぐり

2017年09月09日 21時43分35秒 | 江戸名所図会めぐり

秋晴れに誘われて駒込の大観音を訪れてみました。団子坂があるので、交通手段をいろいろと悩みましたが思い切って自転車で向かいました。漢音堂です。江戸名所図会より

大人の塗り絵「江戸名所図会」よりお借りしました。たのしく塗り絵されています。

再建された十一面観音菩薩像です。

観音堂の前に初代の大観音像の敷石が置いてあります。

十一面観世音碑です。

現場では意味が分かりませんでしたが、大和長谷の写しという意味ですね。

★ランドマーク駒込大観音:「駒込大観音」は大和国(奈良県)長谷寺本尊の十一面観音を模して元禄10年(1697)地蔵菩薩の持物である錫杖を持ち、岩の上に立つという独特の様式で、お地蔵さまの慈悲をあわせ持つ観音さまとして、古来人々の信仰を集めてまいりました。『江戸名所図会』の挿絵としても掲載されてる駒込大観音は、7月9日と10日にお参りすると4万6千日分のご利益がある「4万6千日」の縁日、酸漿市として今日にいたるまで賑わいをみせております。

  この駒込大観音は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲により堂宇もろとも灰燼と帰し、そのお姿を拝むことができなくなってしまいました。爾来、私どもはその復興に努めてまいりましたが、ようやく念願がかない再興が相成りました。

  再興された十一面観音は長谷寺式同様に錫杖を右手に持つ像高6メートル余の立像で、仏像彫刻家・西山如雲氏により父・如拙氏の監修のもとで木曽檜を用いた寄木造りで彫刻され、さらに東京都伝統工芸士の藤原茂夫氏により漆塗りと金箔・金粉を施して仕上げられました。また、像の後方壁面には書家・柳田泰雲氏揮毫の「妙法蓮華協経観世音菩薩普門品偈」が陶板に加工して飾られ、堂内を荘厳しております。

  観音堂は楜沢成明氏の設計で、創建当時の土蔵造りの外観を生かし、内部はインドなどの仏教聖地の建築意匠をとりいれています。

  なお、観音堂に向かって右手の阿弥陀如来と千手観音の石像は、駒込大観音を建立した江戸の町人、丸屋吉兵衛の供養塔です。また、境内に点在設置してある石は、創建時の観音像の台座として用いられていたものです。

  観音さまは「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」と呼ばれ、駒込大観音は十一面観音の名のとおり時に応じたさまざまなお顔で私たちに接し、苦しみ、悩み、悲しみ、怒り、願い、喜びなどをもつあらゆる境遇の人に、宇宙の根源的な生命力を自覚させてくださる菩薩です。

  お参りされるときは「南無大慈大悲観世音菩薩」または「オンマカキャロニキャソワカ」と唱え、観音さまを鑑として自己を見つめなおされるようおすすめいたします。

  ここに、駒込大観音を再興するにあたって浄財を寄進してくださった方々のお名前を記しておきます。

  平成5年(1993)5月吉日 駒込大観音光源寺 二十一世観誉俊匡

ちなみに似せたという本物の長谷十一面観音像です。

右手には梅の木がありました。蓬莱梅だそうです。

★蓬莱梅: 「野梅性(やばいしょう)白梅、樹齢約300年」かって、この大観音堂の傍らに梅の古木があったが、昭和20年5月25日の空襲で、観音堂と共に焼失した。 この度、大観音再建にあたり、代替りの梅の木を各地に探し求めたが、榛名山の麓でこの梅を見付け出し、昔を偲ぶ思いをこめて、ここに移植した。蓬莱梅の名称は住居表示改正前、ここの町名であった駒込蓬莱町に因んで名付けたが、明治末頃迄、駒込辺りは梅や桜の花木の産地として有名であった。   平成5年(1993)11月吉日 光源寺住職 島田 俊匡

公園のようになっている一角には庚申塔がありました。

★庚申待百万遍講中庚申塔  文京区指定有形民族文化財 平成23年(2011)3月1日指定

  青面金剛立像を主尊とする笠付角柱型の庚申塔である。紀年銘から明和9年(1772)9月に造立されたものと考えられる。基礎の上に塔身・笠、最上部に宝珠を載せる。地面からの高さは250cmを超える、極めて大型の庚申塔である。

  塔身正面に一面六臂の青面金剛立像を浮き彫りし、その下には青面金剛に踏まれた邪鬼や岩座の中に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)を浮き彫りする。塔身向かって身側面および左側面には施主銘「庚申待百万遍講中」や願文が、裏面には「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれる。また、上段の基礎の四面すべてと下段の基礎の正面には200名を超える人名が刻まれている。これらは、本庚申塔に造立に関係した人々と考えられる。

  本庚申塔は、保存状態が良好であり、かつ造作・規模などの点から極めて優品の庚申塔である。江戸時代中期における庚申信仰のあり方を伝える貴重なものである。

  文京区教育委員会 平成24年(2012)3月

石仏が並んでいました。

ようやく表に回ってみました。

★ランドマーク浄土宗 天昌山 光源寺:光源寺は、天生17年(1589)に神田に創建されましたが、慶安元年(1648)に現在の地に移転しました。

浄土宗寺院の本尊は阿弥陀様ですが、大きい観音様が目立っていたため、江戸時代から駒込大観音として親しまれてきました。元禄年間に造られたという奈良の長谷観音を写した十一面観音は東京大空襲で焼失しましたが、平成5年に御丈6m余の御像として再建されました。境内に梅の巨木があることから、梅の大観音とも呼ばれています。

近所に住んだ夏目漱石も小説『三四郎』の中に、この大観音のことを書いています。

毎年7月9日と10日には四万六千日 ほおずき千成り市が開かれます。「四万六千日」とは、7月9・10日の観音様の日に参詣をすると四万六千日(=約126年)分のご利益があるという日の縁日で、今でも賑わっています。

本堂に行く途中で女郎花が生き生きと咲いていました。本堂です。

右手に墓地があります。

明珍本家墓

  平安時代、京都九条の甲冑師・鍔工であった宗介は、その技術のすぐれていることに感をうたれた近衛天皇(1141~1155在位)から「明珍」の号を授かったと伝えられている。以来、その一族は明珍姓を名乗るようになり、代々各地で甲冑・鍔作りを生業としていた。

  光源寺本堂に向かって右手奥には、江戸寛政期(1789~1801)に幕府お抱えの甲冑師となった明珍本家の墓所があり、54世宗介、55世宗正、56世宗政、57世宗益、58世宗妙、59世宗邦、宗家、宗胤、60世宗治などが埋葬されている。

  浄土宗 光源寺    文京区教育委員会 平成8年(1996)3月

墓地の中にも女郎花がたくさん咲いていました。

切絵図です。谷中の長久寺ところから坂を下って千駄木に、川になっているところは不忍通です。途中の団子坂を登って光源寺大観音と書かれているところに着きました。今回の目的は根津権現でした。団子坂上から下って根津神社の裏門に着きました。次回アップします。

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長耀山感応寺(現:護国山天王寺)江戸名所めぐり

2017年09月05日 23時47分03秒 | 江戸名所図会めぐり

JRの日暮里駅の南口から向かいました。

駅から谷中墓地に向かう坂は紅葉坂で、突き当りが天王寺なっています。

境内から駅方面を見ています。入り口を探して塀に沿って歩くと旧町名の由来と、ハイカラな門がありました。ここから入ると左手に釈迦如来坐像があります。

★ランドマーク銅造釈迦如来坐像天王寺(台東区登録文化財平成4年度登載)

像背面銘文によって、元禄3年(1690)5月、神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したとわかります。また、願主は未詳ですが、当寺が天台宗に改宗する前の日蓮宗最後の住持「日遼」の名が刻されています。

 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造され、螺髪は旋毛形、肉髻珠・白毫相を表し、衲衣・褊衫を着け、両手を胸前で合掌し、大仏座上に結跏趺座します。大きさは像高296cm、髪際高241cm。なお本像は、江戸期の史料に「丈六仏」と紹介されていますが、本像に関しては、髪際高を像の高さとしたものです。「丈六仏」とは、1丈6尺の高さに作る身長を持つ仏像をいい、坐像の場合は、同じ身長の立像の二分の一の高さ、8尺の坐像が丈六です。

 本像ははじめ旧本堂右側の地に建てられ、明治7年の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていたところ、昭和8年現在地に基壇を新築、修理を加えて移され、昭和13年、基壇に納骨堂が設置されました。

 本像について『江戸名所図会』や『新撰東京名所図会』に記載があり、谷中地域の、さらに江戸・東京のシンボル的な存在だったと知られます。

江戸名所図会より 五重塔が見えますが、釈迦如来像は探せませんでした。本堂の左手に九品佛とありますが。

★ランドマーク長耀山感応寺:上野谷中門の外にあり天台宗にして本尊は伝教大師の作の毘沙門天を安置す。当寺始は日蓮宗にして宗祖上人を開山とし、日長上人中興ありて由々しき一宗の寺院たりしが元禄年中故ありて台宗に改められ、爾より後東叡山に属す。その時大明院宮の御願によりて叡山横川にありし伝教大師の作の毘沙門天の像をここに移し本尊とせらる。京師鞍馬山の毘沙門堂は比叡の乾に當りて仏法守護の道場なれば当寺も東叡山の乾に當を以て鞍馬寺に比せらるるといへり。境内に桜桃の二花ありて春時爛漫なり。

五重塔 始当寺中興日長上人建立ありしが明和九年の火災に焦土となれり、よって寛政の今再建してむかしに復せり。(江戸名所図会より)本堂

沙羅双樹

学童守護地蔵尊(天王寺)

毘沙門天堂

若柳観世音菩薩(天王寺)

★ランドマーク護国山天王寺:日蓮上人はこの地に住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。ー伝承による天王寺草創の起源である。

  一般には、室町時代、応永(1394~1427)頃の創建という。『東京府志料』は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。

東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。

 元禄12年(1699)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。

  平成4年(1992)11月  台東区教育委員会

富突きの図(東都歳事記)

台東区登録文化財 旧感応寺(天王寺)富興行関係資料 天王寺 平成4年度指定

 天王寺は、かつて感応寺という日蓮宗の寺院でしたが、元禄12年(1699)天台宗に改宗、天保4年(1833)天王寺と改めました。

この感応寺では天保13年まで、現代の宝くじのル-ツ・富突(とみつき)を催し、谷中感応寺の富突といえば江戸市民の人気をもっとも博したものでした。この天王寺には富突の実態を克明に記録した、次の11点の史料が遺されています。
富御祝儀渡帳(とみごしゅうぎわたしちょう)(1冊、文化6年(1809)以後の成立)

(富興行)定書(さだめがき)〈1枚、天保4年(1833)から同5年)

当山帰宗一件記(とうざんきしゅういっけんき)」〈1冊、嘉永2年(1849)成立)

富興行一件記(とみこうぎょういっけんき)」〈3冊、嘉永2年(1849)成立)

当時有形絵図面(とうじゆうけいえずめん)」〈1枚、嘉永2年(1849)成立)

奉歎願口上覚(たんがんしたてまつるこうじょうのおぼえ)」〈1冊、嘉永3年(1850)成立)

奉伺口上覚(うかがいたてまつるこうじょうのおぼえ)」〈1冊、嘉永4年(1851)成立)

突富興行願諸用記(つきとみこうぎょうねがいしょようき)」〈1冊、安政3年(1856)成立)

感応寺領坪数并持添地其外坪数訳書之写(かんのうじりょうつぼすうならびにもちそえちそのほかつぼすうわ)〈1冊、享保6年(1721)の記録を江戸末期~明治時代に写したもの)

感応寺領坪数并持添地其外坪数訳書(かんのうじりょうつぼすうならびにもちそえちそのほかつぼすうわ)〈同前)

保存箇所并堂宇再建見込書(ほぞんかしょならびにどううさいけんみこみしょ)(1冊、明治22年成立)

実は、これらの史料が発見されるまで、感応寺はおろか、江戸時代の富突の実態はあまり明らかではありませんでした。しかし、天王寺の史料を解読してみますと、富興行のありさまが細部にわたって理解できます。

たとえば従来の定説では、幕府公認の富興行は享保15年(1730)京都仁和寺が江戸音羽護国寺境内で行ったものが最初と考えられてきましたが、天王寺の史料によって、それより30年前の元禄末年(1700年頃)には感応寺で興行していたことがわかりました。

その他、富突の開催をめぐる感応寺と幕府の交渉の有様、富札1枚の値段が庶民にとって高額だったことから生じたヤミ行為の顛末、あるいは富突に使用する箱・札・錐(きり)などの道具の寸法といった細かいことまで、様々な事実が明らかとなっています。

天王寺所蔵の11点の富興行関係史料は、単に富突だけでなく、江戸の風俗・文化を知る上でも、きわめて貴重な史料です。

富興行一件記より(幕府公認の富興行開始年代について、従来の定説を覆す文面)

★ランドマーク谷中:江戸時代には上野台地の北部と両側の低地部を指した。地名の由来は上野と駒込の間にある谷の意。江戸開府後、寺院が多数創建され門前町が形成された。感応寺(現天王寺)境内では毎年1、5、9月の11日に富くじ興業が行われた。五重塔で知られ、明治になって露伴の小説の題材にもされたが、昭和32(1957)年に焼失した。寺が多かったため「谷中は墓と富くじ」と言われ、明治に入って谷中霊園が整備された。名産として葉生姜が名高く、谷中生姜として贈答用に用いられた。

境内から少し離れたところに五重塔跡がありました。

★ランドマーク東京都指定史跡 天王寺五重塔跡 指定 平成4年(1992)3月30日

 谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長耀山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、百三十年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。

錦絵歌川 広重 2代 江戸名勝図会 天王寺

 

こちらは三十六花撰 東都谷中撫子 絵師:喜斎立祥となっていますが、同じく広重2代のものです

ナデシコ越しに五重塔が見えます。

境内にはその他客殿

上善堂

庚申塔

 

散策を終えて家に帰る途中でスーパーに寄り、なんとなく谷中生姜を買っていました。

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亀戸事件追悼会(赤門浄心寺)

2017年09月03日 22時18分28秒 | 身辺出来事

亀戸に1975年から住んでいますが、亀戸事件の追悼会に初めて参加しました。

場所は衛生点検でお邪魔している工場の隣にある赤門浄心寺です。

浄心寺には亀戸事件犠牲者の碑が建てられています。

(碑裏)1923年(大正12年)9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。

  1970年9月4日  亀戸虐殺事件建碑実行委員会

 碑裏の下部には

犠牲者之碑誌

 この犠牲者之碑を建立して23年の歳月を経た。この間研究の努力によって、中筋宇八 24も亀戸事件の犠牲者であることが立証された。当実行委員会は事件70周年記念事業のひとつとして、このことを確認し、碑にとどめる。なお、碑の改修にあたり、碑文等一部を書き改めたことを付記する。             1993年9月5日   亀戸事件追悼会実行委員会 

碑の正面の下のところには

犠牲者氏名年令  川合義虎 22 加藤高春 27 北島吉蔵 20 近藤慶造 20 佐藤欣司 22 鈴木直一 24 平澤計七 34 山岸実司 20 吉村光治 24

と書かれています。

関東大震災 亀戸事件しおりには

  1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生し、その混乱の中で天皇制政府は「朝鮮人、社会主義者が井戸に毒を投げ入れた」とか「暴動をおこしている」とデマ宣伝し、軍隊や警察、そしてこのデマに惑わされた「自警団」などが6千名以上の在日朝鮮人や中国人を虐殺し、無政府主義者の大杉栄夫妻と6歳の甥も憲兵隊によって殺害された。南葛地域(現、江東、墨田区)では、軍隊が、被災者救援のため活動をしていた川合義虎(日本共産青年同盟委員長)をはじめ労働組合の幹部など10名を虐殺した。これが亀戸事件である。この事件は「日本の労働運動の発祥地、拠点であった亀戸で、その革命的精神を双葉のうちにつみとろうとした、近代史上、比類をみない残虐な事件」であり、「隠された権力犯罪」(「亀戸事件」加藤文三著)である。亀戸事件犠牲者追悼実行委員会は、亀戸事件の真相と責任を追及し、1970年には、江東区亀戸にある赤門浄心寺に多くの団体、個人の協力を得て、「亀戸事件犠牲者の碑」を建て、毎年9月の第1日曜日に追悼会や学習会、現地調査などを行っている。

手すりのない階段あので中には入らず石仏像と一緒に並んで石に座っていました。石仏には宝永8年(1711)とあります。後ろには立派なヤツデの葉がありました。ずっと石に座っているのも体へだったので途中で境内を撮って歩きました。入り口に左に立っている六地蔵尊です。右側には有形民俗文化財の地蔵供養塔 念仏講在銘はどちらでしょうか。

黒猫さんがこちらを見ていました。浄土宗なので南無阿弥陀仏です。

★ランドマーク浄心寺:浄心寺は『新編武蔵風土記稿』巻之二四によれば、この寺の創立は元和元年(一六一五)で、開山鑑蓮社吟誉至山不通は寛永五年(一六二八)に亡くなったという。『浄心寺誌』によれば、江戸初期に正二位権大納言烏丸光広卿が江戸に下ったおり、鷹狩りに遊び、宝燈庵と称していたころの浄心寺に立ち寄り、不通和尚の法話に耳を傾け、その姿に心服した光広卿は朱塗りの門と、自家の菊花紋を浄心寺に与え、赤門寺と呼ばれるようになった。寺では慶長八年(一六〇三)のことと推測している。(「江東区の民俗城東編」より)

当日の様子を同じく参加していた原純子さんのfacebookより写真をお借りしました。

 亀戸は江戸時代から亀戸天神社をはじめ多くの社寺仏閣があったところです。江戸時代の古地図です。

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