「何か1つ」を見つける毎日(⌒‐⌒)

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コロナと、世界の愛と、朝行き。

2020-06-01 08:34:50 | 月火水木金土日、、朝(時々夜)。゚+.(・∀・)゚+.゚
最近は切ない。朝早く歩いていても、すれ違う人も猫もいない。毎日のように会えていた猫たちは、噂では、大掛かりな猫刈かりが行われたということで、本当かどうかは定かでないが、とにかく、シロコもグレコも、誰もいない。本当に会えなくなってしまったのだ。
、、命というなら、犬猫花木、皆同じなのに。人ばかり大きな顔をする。ノラちゃんは、増えるからと捕獲し、ペットならば溺愛する。なんか、やるせない。
そして、世界の愛を調べ始めてから今度は、自分の存在が切なくなり始めたから、たまらない。コロナの影響も、もちろん多分にあるだろう。
考えてみれば、この地球上、紀元前うん万年前から、様々な生命が命をつないできた。気の遠くなるような、本当にはるかはるかの昔から。そして、時を経て今がある。世界の歴史を齧るにつれ、そうか、一人の人間の生きるうん十年などというのは、本当に本当に長い歴史のその一瞬に過ぎないのだなとと実感せざるを得なくなるのだ。
そして、このコロナが世界に蔓延している今、いやがおうにも、心のどこかで、死を意識してしまう。かかるかからないのはなしではない、死を考えてしまう自分がいるのだ。
そして、私が考えている死は、自分が死ぬ間際、何を思うのか、と死ぬ間際に父と母は何を思っていたのか。この2つに尽きる。この2つ以外にも、子らはやはり悲しむのだろうな、とか、死んだらどこへ行くのか、などももちろん考えるのだが、やはり、自分が死ぬ間際と、父母、特に急死した母は、その瞬間何を思ったのか、それを、知るすべもないのに、知りたくてたまらないのだ。
コロナは辛いよ。子らにもうしばらく会えていないし、不意に言いようのない虚無感に襲われるし。でも、でも、決してそれだけでない。死が
意外にも身近なものだということと、だとしたら、いまをどういきるのか。ちっぽけすぎる一人の人間である自分はどう生きるのか、を、ふだんあまりにも無造作に生きている自分に考えさせる機会をくれたのだ。コロナと、世界の愛と。この2つ。そして、朝行きで出会うすべて、が、心を変化させてるような気がする。




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