本来この言葉が持つ意味からは、ちょっと外れていると思うのですが、、今朝浮かんだ言葉は、「表裏一体。」
今 朝の朝行でちょっと面白い事に気づきました。ワタシが好きな木のなかの一本、の、表からの表情と裏からのそれが、ああ、まるで違う木みたいなんです、、。更に言えば朝と夜の姿もかなり異なります。季節が変わると更に変化が!今朝はかなり時間があったのでじっくり眺めることができた。だいたいにして、どちらが裏でどちらかが表、なんてことも実はないわけで、どれもが全てこの木なんです、、。一方からの姿だけを見て、その木の、と思ってしまうのは、もったいない話。四方八方から眺めて見ていよう。、、これは、物事が、なかなかうまくいかない時に使えそう。
夜朝 朝、違う方から。
どれもいいですねえ、、。
今日は休日なのでもう1つ。
、、何本か合わさって一本に見える木。、、
今日も一日楽しくすごそう。
今 朝の朝行でちょっと面白い事に気づきました。ワタシが好きな木のなかの一本、の、表からの表情と裏からのそれが、ああ、まるで違う木みたいなんです、、。更に言えば朝と夜の姿もかなり異なります。季節が変わると更に変化が!今朝はかなり時間があったのでじっくり眺めることができた。だいたいにして、どちらが裏でどちらかが表、なんてことも実はないわけで、どれもが全てこの木なんです、、。一方からの姿だけを見て、その木の、と思ってしまうのは、もったいない話。四方八方から眺めて見ていよう。、、これは、物事が、なかなかうまくいかない時に使えそう。
夜朝 朝、違う方から。
どれもいいですねえ、、。
今日は休日なのでもう1つ。
、、何本か合わさって一本に見える木。、、
今日も一日楽しくすごそう。
でも一番の決め手となる手掛りは、感受性が豊かかどうか・・・の問題だと思いますよ。
例えとして相応しくないかもしれませんけれど、音楽でも同様の事が起きます。何年も何十年も聴いている曲に、ある日突然新たな解釈が芽生えたり、気にも留めていなかった楽器のフレーズが聴こえてきたりします。
視覚だけでなく、聴覚にも同じ事は起こります。いえ、それは五感の全てで起こり得るものです。そんな出来事に(ひらめきに)出くわした時は、『ああ、未だ私の感性は生きていた』と、嬉びの感覚に震える瞬間です。
おそらく、朝・夕の杜の中で、その様な体験をしているのでしょうね。その様な環境の中に居られる事はステキな事です。
でもこれは、対人関係にとっても役に立つ事だという事に、気が付いていますか? 下手をすると「疑心暗鬼」の世界に陥ってしまいますけれど、心をっ冷静に保っていられれば、処世術の有用な糧となるものです。
な~んてネ。
ところで「何本か会わさって1本に見える木」で思い出しました。私がまだ小学生時代、常磐線の南千住と云う処に東京電力の発電所が有って、そこには四本の煙突が立っていました。上野から千葉坊面へ向かうと右手なのですが、その煙突、見ていると、何と四半から三本に、そして二本~一本へと数が変って行くのです。実はこれ、目の錯覚ではなく、煙突の配置に由って起こる現象だったのですが、巷では『お化け煙突』として結構有名でした。勿論、今ではその跡かたも無く、別世界の街並みに代っています。
そんな事を思い出させてくれた一枚の写真でしたよ。
心をっ⇒心を(または精神を)
下から六行目
会わさって⇒合わさって
失礼しました(毎度の事ですが)
では、のちほど。
南千住の煙突は右手側ではなく左でした。
表裏一体に関しては、全くその通り、人間関係に関しても、然り、、。片方からだけの見方で判断してしまうと、あとから悔やむことに、、なんてこともありますね。
広い視野で、じっくり見つめていきたいものです。
そして、あの、新小岩、、の周辺の煙突、、。ごくたまに総武線に乗る程度ですが、あのあたりに煙突があったなんて、、。今は想像すらできませんね、、。その時代の東京は、どんな感じでしたか。
幼少時代、チャコチャンけんちゃん、とか見ていて、幼いなりに、どらまの舞台が自分の住む東北とは何かしら違うなあと思ったのを覚えています。
朝夕の行は、益々楽しく愉快になってます。
あと、、U+1F4BFU+1F3B6音楽の事、、!わたし、最近、そのようなことがよくあります。確かに、、あるのです、あれ、、この曲、こんな感じの曲だっけか、違うように感じるときがあるんです。面白いですね。
では、また。U+1F638