災害予防調査会(プラネット通信ブログ)自治州と環境と防災と新エネルギー

防災環境研究30年。危険な高層ビルや地下開発が進まないよう、防災環境基準作りと対策を州で行うよう訴えるブログを開設した。

環境防災クラブと大学

2019-04-14 19:19:56 | こども環境防災クラブが守るべき対象
03年「小泉首相の延命のために自衛隊が嘘口実で戦後初めて戦争地域に派遣」されたのに菅小泉を当時の朝日やTBSや岩波が応援した。今も立憲民主党の名前で「原発即時廃止で野党政権を作る」と原発を爆発させた張本人菅枝野と日本新党松下政経塾と社民党の落選恐怖症とが言っている。

こういう矛盾をおかしいと思わないことがどんな有名大学卒業であろうと、本当の大学教育(高等教育)を受けていないジャーナリストの欠陥なのである。高等教育(大学)は東大京大慶応早稲田とかアメリカ留学帰りの肩書ではない。高校までは文部省検定教科書の内容を受験体制で受けいれる。

「高等教育を受けた(大学で勉強した)」といえるためには、私のように夜間大学でもその大学の昼間の先生が公平に夜間も授業をやる。これだけがバカ大学のいいところだった。今はテレビのタレントや知識がないマスコミ受け、菅の側近バカどもを集めている恥ずかしい大学だが、以前はそれなりの理念があったぞ!

ありがたいことに東大からマル系の先生がみな追い出された時代だったから、「先生一流学生三流」の馬鹿大学で、つるし上げが授業のようなとんでもないところだったが、夜間でも一流先生と出会う授業が結構あった。

「大学で授業を受けた」というには、それなりのバイトでない大学の教師と決められた授業だけでなく、自由に議論できる授業やゼミで他の全員と一人だけ違った意見を戦わせることが大切である。意見が違っても仲間外れにならない授業やゼミの議論の経験が大学教育に必要である。ゼミなら議論の続きを飲み屋で自由に話せることが大事なんである。

偉い先生の授業で飲み会はなくとも、ほかにない授業を経験できることが大事である。大学というなら質問が自由にできることとアカデミックな回答ができる教師と出会うことが大事である。

話したこともなくても尊敬できる授業が1年生の時あった。毎回授業に「差別である」と集団で押し掛ける学生をたった一人で妥協しないで、何年も授業を続けている先生に出会った。毎授業メットとゲバ棒で押し掛ける学生グループが嫌で、1年の必修でも歯がぬけるようにほかの学生は授業に出なくなったが、私はできるだけ出ていざこの先生が殴られたら助けようと思っていた。

卒業するまでにあるいは中退してでも大学の経験をするのはいい。自分で調べて課題を見つけて研究することができるように、124単位つまらないルーチンワーク授業を自分の著書を売るためにする先生など選ばないことである。その先生の研究思索の過程で学生と議論して考察を深めることに立ち会うのも面白い授業なんである。

そういういろいろの高校までにない授業を経験して、最後に4年間の色々な経験がもっと短くていいと思うが、卒論までカリキュラムを組むべきである。卒論の書き方や統計の扱い方や各種統計の見方や卒論に関係する歴史や理論を提供できる学識を教員が持っていることが大事だが、それができる学者は極めて少ないであろう。

でもなかには滔々と、明治以来のその学問についていつまででも語たる事ができて、どこにもない資料をコピーで提供できる、資料が欲しくてその先生の統計分析術を知りたくて、東大や一橋や馬鹿大学の大学院生が夜間大学のゼミに来る「あーこういう人が典型的な大学の先生」なんだなと実感できる人にも会った。

そういう場合はゼミの飲み会はなしだったが、そういうエリート大学院生と高校を出てからずっと働いてきた自分と、「どっちがよく労働条件や労働意識を知っているか?」といえば私である。自慢じゃないが今では世界的に超有名な「トヨタのカンバン方式が共産党主導でだれにも悪評だった」が私は「労働者自主管理の手法になる」と思っていた。ほかの先生はとんでもない労働者搾取だと共産党のようなことをいったが、さすがにその先生は私の独自意見を認めてくれた。

できれば小学校や中学校や高校も戦争直後から私たちの小学生時代のように、「コアカリキュラム」で経験学習を身につけるほうがいい。「われ思うゆえにわれあり」と考察したり、事実を集めてそこから法則性を見出したり、推論できる教育である。

「東大を出なければ」とか「夜間だから」とかひがんだことはない。胸を張って自分の道を選んできた。大学は自分で考える訓練をして専門を持つための入り口である。だから高等教育というのである。国が決めた結論(文部省の審議会答申)を押し付けるのでなく自分が各教師の説から正しいと思うものを選ぶ場所である。

「正しいものがなければ、中卒でも高卒でも小学校卒でも自分の説を正しい思うところまで突きとめればいいと思って何が悪い?!」と胸をはることができるように大学に行くとなれる。つまり「大学というところは大したところではない」とわかるために誰でも行くといいとおもう。

全く知らないことを知っている先生にも会えることもあるが、逆に「あー大学の先生はこの程度か!」とわかるから「大学教授」の肩書にひれ伏して、大学教授のご高説をありがたく拝聴する」ことがなくなるところであることが一番いいことである。
大学でなくても、学歴関係なく、年齢関係なく、職業関係なく、そういう議論の雰囲気を環境防災クラブで作れたらと思うがまだどういう手段でできるかは、具体的には考えていない。

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