さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

國森晴野『いちまいの羊歯』

2018年02月10日 | 現代短歌
 グレン・グールドのハイドンの晩年のピアノ・ソナタ集を聞きながら、國森晴野の『いちまいの羊歯』をめくっているうちに、一つの納得感のようなものが生まれて来た。

かみさまの真似をしてみる20°Cの試験管にはみどりが澱む

無いものは無いと世界に言うために指はしずかに培地を注ぐ

寒天は澄んでわたしの胎内にひとしく熱を与えつづける

 言うべきことはきちんと言う事ができる清潔な文体である。決して情感に流されてはいない。最近は「無いもの」をあることにしてしまう研究者の過ちが世間で話題になることが多いが、それは「寒天」に自らの身体感覚を重ねるような、研究対象への愛情を欠いているために起きるまちがいであろう。研究そのものよりも自己顕示欲や、ただの利害の方にすぐ目が向いてしまうのは、生きることの中に「詩」が組み込まれていないからだ。「詩」は空無のなかに意味を生むことができる。

コロニーと呼べばいとしい移民たち生まれた星を数える真昼

 トランプのアメリカとは何の関係もない歌だが、これをどなたか訳してアメリカに届けてほしい。必ず確かな反応があるはずだ。シャーレの中の微生物たちは、さながらアメリカの移民たちだ。それを「いとしい」という感性こそ、今後の世界を形作るものでなくてはならない。それは「もったいない」よりも世界に訴えてみたい、「やさしさ」という日本語の持つ価値だ。これはテロや戦争を肯定する感性とは対極のものだ。

真夏日の街をまっすぐゆく君が葉擦れのように鳴らすスカート

 この「君」は自分自身のことなのではないかと思うが、さわやかな歌である。

さよならのようにつぶやくおはようを溶かして渡す朝の珈琲

 初読の際には、実を言うとこういう歌が気に障って放り出したのである。何か意識して作りすぎているような気がしたからだ。でも、続く歌をみていると才質はまぎれもないものだし、この二首後の、

椎茸はふくふく満ちるとりもどせない夕暮れをかんがえている

 なんて、読む方に何かを「かんがえ」させないでは止まない力がある。東直子エコールでありながら東直子をこえる可能性を見せている作者とでも言うべきか。

あの青に還りましょうかぴかぴかの荒巻鮭を抱えて歩く

 こんなふうに完璧に東直子の歌を消化したそのあとが問題だ。やはり、現実そのものの手触り、「現前」、私の造語で言うと「幻相」の「現前」をとらえる意志が必要だ。それは時には時局に掉さすような政治的なものとか、生身の生活の痛みとか、そういうものを歌の対象として含むことがあってもいい筈だ。単に美的であったり、審美的な態度を崩さないでいられること自体には何の価値もないのではないかと思う。

某月某日、私はとりあえず本書を同じ叢書の田丸まひるの『ピース降る』とともに、勤務先の図書室で買ってもらうことにしたのである。