江田浩司の詩歌集『ピュシスピュシス』(2006年刊)の中から一篇の詩を引いて何か書いてみることにする。詩の題は、「現存(プレセンシア)の羽ばたき」。
※印のあとには、小さな画面で読んでいる人のために振り仮名を示した。
現存の羽ばたき ※「現存」に「プレセンシア」と作者による振り仮名。
その一連目。
焼け焦げた記憶の欲望に
襲われた数多の私が
衰えた幾世紀もの願いに宛てて
無数の手紙を書き送る
注釈。 自分がいま願ったり考えたりしていることは、過去に多くの人が願ったり、考えたりして、かなわなかったことの集積の上に立っているので、私の今は、痛ましいそれらの記憶の上に生れて存在しているのだ。そこでは、心身を備えた今の「私」の存在と、今の「私」の「言葉」とを、過去の記憶のすべてのイメージに重ね合わせることができる。これはあらゆる作家の創造のシステムと同じ構造を持つものだが、そのような世界観によって、これらの詩は書かれている。だから、私は過去に手紙を書き送るように、また、私自身の過ぎ去った時に向けても、そこで消えて行った言葉をなぞるように、私の言葉を書く。それが「現存」の意味である。
二連目。
慄き、薙ぎ倒された私の顔 ※「慄」に「おのの」と作者による振り仮名。
影が蝟集する切断面 ※「いしゅう」
痙攣は絶え間なくつづく
狡猾な夢が横貌を見せている ※「よこがお」
注釈。 だが、そこで「書く」ことによってあらわれて来る「私の顔」は濃密な影の濃淡によって、くっきりとは見えないものに統合され、または分割されたりなどしており、かたちあるもののようでいて、夢によって、夢のなかで掻き混ぜられるもののような、曖昧なかたちをしたものでしかない。
三連目。
熟れた風が水を織る
楕円が巣食う湿った顔
死の意匠は身を沈め
歌は私の暗がりに立ちどまる
注釈。 この一連は、なかなか美しい。「熟れた風が水を織る」というのは、夏から秋にかけての蒸し暑い温度の風だ。そのような生の時間の風に、水面が布の表面のように微細な波で罅割れて、波が動いてゆく。そのように、「私」は語られる。または「書かれる」。または「歌われ」て「私の暗がりに立ちどまる」。その「私」の「顔」は、「楕円が巣食う湿った顔」だ。楕円と楕円、またもうひとつの楕円が、重層し、絡み合いながら「私」らしきかたちを形成している。そこに「死の意匠は身を沈め」ている。数多の楕円をたったひとつの円の像に形成する時は、私が死ぬ時だ。だから、「死」はいつもその時を狙っている。
四連目。
声から洩れる
光の中に立ち止まる
雨の階段をバラバラな影が
すべってゆく
注釈。 三連目までの、やや読み飽きた感じがしないでもない既成の重苦しい詩語を用いた詩句から、この一連は飛び出してさわやかである。声というのは、自分の声だけとはかぎらない。とりわけ他者の声である。声には、常に明るさがある。どんな時でも声になった時には、声はひろがることによって、閉ざされた「私」から外へ、外へと出ようとする性質を持つものなのだ。だから、声は「光」を持つと言ってもいい。その光に一瞬恍惚とする。と、影が逃げていく。立ち去って行く。影が、出ていく。階段を「すべってゆく」。それはひとつの影なのか、いくつもの影なのか。
五連目。
青白い記憶の脈拍
光の蠕動に呑まれてゆく貌 ※「ぜんどう」
砂埃にまみれた無残な風が
ゆらゆらと海を越える
注釈。 それらの無数の「影」は、「私」、この場合は無数の「私」の記憶の中で、光に呑まれ、光に束ねられて、そこに幾多の「貌」が溶解してゆく。消え去ったイメージの総体が、風に吹き飛ばされて、大地を超え、さらに「ゆらゆらと海を越える」。一個の「私」の物語は、地球大の「記憶」の物語へと伸びあがり、拡大してゆき、脈を打つ。
三連目のおわりの二行がやや型通りなところがあって、五連目で「砂埃にまみれた無残な風が」「ゆらゆらと海を越える」の、「無残な風が」という把握が、抽象的で物足りない。やはりもう少し具体的であってほしいと感ずる。全体の統一は損なわれていないが、一篇の詩としての完成度が高められたかわりに、犠牲になっているものがある。作者は、ここから必然的に、更にここのところを具体的に言うために、心を砕くことになる。それが、第7章のような、とてつもない作品群を生んでゆくのだ。
※翌日に少し手直しをした。この項、つづける予定。
※印のあとには、小さな画面で読んでいる人のために振り仮名を示した。
現存の羽ばたき ※「現存」に「プレセンシア」と作者による振り仮名。
その一連目。
焼け焦げた記憶の欲望に
襲われた数多の私が
衰えた幾世紀もの願いに宛てて
無数の手紙を書き送る
注釈。 自分がいま願ったり考えたりしていることは、過去に多くの人が願ったり、考えたりして、かなわなかったことの集積の上に立っているので、私の今は、痛ましいそれらの記憶の上に生れて存在しているのだ。そこでは、心身を備えた今の「私」の存在と、今の「私」の「言葉」とを、過去の記憶のすべてのイメージに重ね合わせることができる。これはあらゆる作家の創造のシステムと同じ構造を持つものだが、そのような世界観によって、これらの詩は書かれている。だから、私は過去に手紙を書き送るように、また、私自身の過ぎ去った時に向けても、そこで消えて行った言葉をなぞるように、私の言葉を書く。それが「現存」の意味である。
二連目。
慄き、薙ぎ倒された私の顔 ※「慄」に「おのの」と作者による振り仮名。
影が蝟集する切断面 ※「いしゅう」
痙攣は絶え間なくつづく
狡猾な夢が横貌を見せている ※「よこがお」
注釈。 だが、そこで「書く」ことによってあらわれて来る「私の顔」は濃密な影の濃淡によって、くっきりとは見えないものに統合され、または分割されたりなどしており、かたちあるもののようでいて、夢によって、夢のなかで掻き混ぜられるもののような、曖昧なかたちをしたものでしかない。
三連目。
熟れた風が水を織る
楕円が巣食う湿った顔
死の意匠は身を沈め
歌は私の暗がりに立ちどまる
注釈。 この一連は、なかなか美しい。「熟れた風が水を織る」というのは、夏から秋にかけての蒸し暑い温度の風だ。そのような生の時間の風に、水面が布の表面のように微細な波で罅割れて、波が動いてゆく。そのように、「私」は語られる。または「書かれる」。または「歌われ」て「私の暗がりに立ちどまる」。その「私」の「顔」は、「楕円が巣食う湿った顔」だ。楕円と楕円、またもうひとつの楕円が、重層し、絡み合いながら「私」らしきかたちを形成している。そこに「死の意匠は身を沈め」ている。数多の楕円をたったひとつの円の像に形成する時は、私が死ぬ時だ。だから、「死」はいつもその時を狙っている。
四連目。
声から洩れる
光の中に立ち止まる
雨の階段をバラバラな影が
すべってゆく
注釈。 三連目までの、やや読み飽きた感じがしないでもない既成の重苦しい詩語を用いた詩句から、この一連は飛び出してさわやかである。声というのは、自分の声だけとはかぎらない。とりわけ他者の声である。声には、常に明るさがある。どんな時でも声になった時には、声はひろがることによって、閉ざされた「私」から外へ、外へと出ようとする性質を持つものなのだ。だから、声は「光」を持つと言ってもいい。その光に一瞬恍惚とする。と、影が逃げていく。立ち去って行く。影が、出ていく。階段を「すべってゆく」。それはひとつの影なのか、いくつもの影なのか。
五連目。
青白い記憶の脈拍
光の蠕動に呑まれてゆく貌 ※「ぜんどう」
砂埃にまみれた無残な風が
ゆらゆらと海を越える
注釈。 それらの無数の「影」は、「私」、この場合は無数の「私」の記憶の中で、光に呑まれ、光に束ねられて、そこに幾多の「貌」が溶解してゆく。消え去ったイメージの総体が、風に吹き飛ばされて、大地を超え、さらに「ゆらゆらと海を越える」。一個の「私」の物語は、地球大の「記憶」の物語へと伸びあがり、拡大してゆき、脈を打つ。
三連目のおわりの二行がやや型通りなところがあって、五連目で「砂埃にまみれた無残な風が」「ゆらゆらと海を越える」の、「無残な風が」という把握が、抽象的で物足りない。やはりもう少し具体的であってほしいと感ずる。全体の統一は損なわれていないが、一篇の詩としての完成度が高められたかわりに、犠牲になっているものがある。作者は、ここから必然的に、更にここのところを具体的に言うために、心を砕くことになる。それが、第7章のような、とてつもない作品群を生んでゆくのだ。
※翌日に少し手直しをした。この項、つづける予定。