私が最初に作者に会ったのは二十年以上前のことだけれども、年に一度ぐらいにどこかで顔を合わせる時は、いつも青年の頃のイメージが甦って来る。たぶんしゃべり方が変わらないせいだと思うが、作者の持っている自由な雰囲気が、こちらをくつろがせるせいもあるだろう。今度の歌集も、そういう作者の持っている空気感が一冊全体に行き渡っていて、そういう意味でもまったく自然体の歌集である。
長靴の子はみづたまり突き進み虹にゆがみを与へてをりぬ
補助輪をつけて娘は疾駆せりそのあとを追ふわれの小走り
聞き分けのなき子を叱り疲れ果つ昨日よりずつと年老いてゐる
子の生まれ不眠と無縁になりし吾の身体の仕組は説明できぬ
子育ての歌がおもしろく読めた。補助輪をつけた娘の自転車のあとを追いかける父親というのは、絵になる。
星合の混線電話に聞き覚えあるこゑありて耳はうるほふ
勝者も敗者もゐないさやうなら、おほかたしばしうつむきをらむ
無名なるわれは無名のまま果てむわづかばかりの悔いを残して
瑞々しい感情の流れ出している相聞歌や、作者の仕事や生活の苦労が察させられる歌のどれもが、作られた時から十年とか二十年というような歳月を経て、純朴なたたずまいを見せている。そこに好感を抱く。誰もが思い通りにならない人生を生きている、そのことの意味を宇田川寛之の歌は、静かに噛みしめている。
スタンドの花をいただき帰りたり待つひとあればちょっとおどけて
アコースティックギター爪弾く街角の少女は髪に六花をまとひ
※ 「六花」に「りくくわ」と振り仮名。
WINSに最後に寄りしはいつなりや暮らしがギャンブルそのものとなり
敵だらけになるは愉しき人生と投げやりに言ひ仕事に戻る
領収書もらふ慣らひの身につきぬフリーなる身の引き換へとして
言葉に負荷をかけすぎないで、一馬力の浮揚力をもって確かに少しだけ浮揚している。これはなかなか得難い空気感なのだ。