土屋文明と井上通泰について触れた文章があるので買っておいた本だが、日本近代の学問思想と文学に興味のある者には、俯瞰的な視野を提供してくれる展望台のような書物である。
文明の『万葉集私註』は、たしかに「語学上の欠点が確かに目立つ」が、「『私註』ほど萬葉集全体が読めている注釈書はなかろう」と評する。谷沢は学問の成果を「批評」してこう言っているのである。ここから文明『私註』の読み方を学べるではないか。
井上通泰についても、わずか一ページほどの文章のなかで『万葉集新考』(刊行者正宗敦夫)の著者の風貌をみごとにスケッチしている。
しかし、「慶応二年生まれの井上通泰には、開明期啓蒙史学に連なる主観的には国士風選良意識の啓蒙啓発至上主義が底流しており、古典を我が身から突き放しつつひとつの資料と見做して冷凍し料理する態度が見られるようである。」とするが、桂園の祖述者としての井上についての言及はなく、「万葉」学についてはそうかもしれないが、このくだり、景樹関係の文献を多少かじっている目からすると、井上通泰の桂園関係の仕事も含めた全体像をとらえたものとするには、やや不足がある。
文明の『万葉集私註』は、たしかに「語学上の欠点が確かに目立つ」が、「『私註』ほど萬葉集全体が読めている注釈書はなかろう」と評する。谷沢は学問の成果を「批評」してこう言っているのである。ここから文明『私註』の読み方を学べるではないか。
井上通泰についても、わずか一ページほどの文章のなかで『万葉集新考』(刊行者正宗敦夫)の著者の風貌をみごとにスケッチしている。
しかし、「慶応二年生まれの井上通泰には、開明期啓蒙史学に連なる主観的には国士風選良意識の啓蒙啓発至上主義が底流しており、古典を我が身から突き放しつつひとつの資料と見做して冷凍し料理する態度が見られるようである。」とするが、桂園の祖述者としての井上についての言及はなく、「万葉」学についてはそうかもしれないが、このくだり、景樹関係の文献を多少かじっている目からすると、井上通泰の桂園関係の仕事も含めた全体像をとらえたものとするには、やや不足がある。