以下は、短歌雑誌「未来」のコラム「伏流水」に書いた短文である。データの日付が二〇一〇年七月となっている。この文章にはまだ続きがあるのだった。そのことを書けるかどうかはわからないが、とりあえず本文をここに引いて、間違いを訂正し、字数の関係で思うにまかせなかった文章そのものに手を入れて、ここに再掲してみたいと思う。
志賀直哉の小説『和解』に、妻の出産に産婆が間に合わなくて、語り手である夫が一人で立ち会うことになってしまうという場面がある。そこでついにお産が始まってしまい、羊水が「噴水のように」吹き出したという空前絶後の一文があって、私は以前、それを読んだ時に言いようのない感銘を受けた。
匂いの文化について書かれたある本(書名を失念)によると、最近の若い女性の羊水は、シャンプーの香りがするそうだ。さもありなん、という気がするが、かつての羊水は、たぶん、しばらく水が動かなかった潮溜まりのような生臭い匂いがしたのだろう。志賀直哉は、羊水の匂いについては書いていなかったと思う。視覚に集中していたのだ。昔の暮らしは、生活環境がさまざまな匂いに満ちていたので、かえって異臭は当たり前だったのではないかと思われる。
ここで思い出したのは、岡本かの子の『花は勁し』という小説である。そこには、主人公が大切に思う男の体臭を、「傍に居ずとも頭に想うだけで(略)心が和められた」と書いてあった。作者はそれを、「ネルのように柔い干草のように香ばしい体臭」と表現している。同じ描写の続きを引いてみよう。
「桂子は殆ど地球の裏と表とに距たる大西洋を渡る帰朝途上のアメリカ近くの汽船中で彼を嗅ぐことができた。」
すごいなあ。ある本によると、女性は相手の白血球の匂いをかぎ分ける能力を持っているのだそうだ。いつだったかNHKの番組で子供に目隠しをして嗅覚だけでママを当てさせる実験をしていたが、子供たちはみごとに自分の母親を当てていた。女性も子供も、人間の生き物として持っている本源的な能力が高いのだろう。それで女性は、もしかしたら相手の匂いをかいで、その相手と子供を作っていいのかどうかを本能的に見分けて、体が自然に反応するのではないだろうか。だから、男の魅力は外見だけではないとも言える。もっとも、<匂い>というのは、声や外見のイメージによって増幅されるものだから、純粋に匂いだけで女性を魅了する男なんているわけがないという事もできるだろうとは思うが。
さらに話が拡散していくが、「源氏物語」の薫大将や匂宮には、いったいどんな匂いがしたのだろうか。たぶん、練り香の原料である蜂蜜の香をベースにして、幼少の頃からさまざまな香を焚きしめられて育ち、それが体の隅々にまで染み付いて、微生物の作用で発酵した甘い匂いがしたのだろう。だから、それは決して自然の体臭だったのではなく、徹頭徹尾人工的な環境の中で産まれ育った者にのみ可能な洗練された香りだったのである。
さて、川島喜代詩の遺歌集に、階段でたまたますれ違った青年の体臭を樹液の香にたとえた歌があった。他者の体臭について言及することには、どうしてもエロティックな要素が入り込んで来るが、老年の作者にとって、ものの香に感応することは、生命の泉に触れることであったのだろう。それで、匂いを詠んだ歌を川島喜代詩の歌集『消息』から拾ってみよう。
夏の日に苦き香のするペンギンは身の重ければ水にゆくらし 川島喜代詩
きのふけふすさみし風のしづまりてゆふべ躑躅の花の辛き香
手ざはりののこりがたきをものの香にあふことあればうごくこころや
一、二首とも匂いを味覚的な表現でとらえている。最後に引いた歌は、老年の淡い性欲に関わるもののようにも読める。ついでに自作を一首。
炎熱の廊をゆく少女そのあとを少年追ひて汗の香充てり さいかち真
志賀直哉の小説『和解』に、妻の出産に産婆が間に合わなくて、語り手である夫が一人で立ち会うことになってしまうという場面がある。そこでついにお産が始まってしまい、羊水が「噴水のように」吹き出したという空前絶後の一文があって、私は以前、それを読んだ時に言いようのない感銘を受けた。
匂いの文化について書かれたある本(書名を失念)によると、最近の若い女性の羊水は、シャンプーの香りがするそうだ。さもありなん、という気がするが、かつての羊水は、たぶん、しばらく水が動かなかった潮溜まりのような生臭い匂いがしたのだろう。志賀直哉は、羊水の匂いについては書いていなかったと思う。視覚に集中していたのだ。昔の暮らしは、生活環境がさまざまな匂いに満ちていたので、かえって異臭は当たり前だったのではないかと思われる。
ここで思い出したのは、岡本かの子の『花は勁し』という小説である。そこには、主人公が大切に思う男の体臭を、「傍に居ずとも頭に想うだけで(略)心が和められた」と書いてあった。作者はそれを、「ネルのように柔い干草のように香ばしい体臭」と表現している。同じ描写の続きを引いてみよう。
「桂子は殆ど地球の裏と表とに距たる大西洋を渡る帰朝途上のアメリカ近くの汽船中で彼を嗅ぐことができた。」
すごいなあ。ある本によると、女性は相手の白血球の匂いをかぎ分ける能力を持っているのだそうだ。いつだったかNHKの番組で子供に目隠しをして嗅覚だけでママを当てさせる実験をしていたが、子供たちはみごとに自分の母親を当てていた。女性も子供も、人間の生き物として持っている本源的な能力が高いのだろう。それで女性は、もしかしたら相手の匂いをかいで、その相手と子供を作っていいのかどうかを本能的に見分けて、体が自然に反応するのではないだろうか。だから、男の魅力は外見だけではないとも言える。もっとも、<匂い>というのは、声や外見のイメージによって増幅されるものだから、純粋に匂いだけで女性を魅了する男なんているわけがないという事もできるだろうとは思うが。
さらに話が拡散していくが、「源氏物語」の薫大将や匂宮には、いったいどんな匂いがしたのだろうか。たぶん、練り香の原料である蜂蜜の香をベースにして、幼少の頃からさまざまな香を焚きしめられて育ち、それが体の隅々にまで染み付いて、微生物の作用で発酵した甘い匂いがしたのだろう。だから、それは決して自然の体臭だったのではなく、徹頭徹尾人工的な環境の中で産まれ育った者にのみ可能な洗練された香りだったのである。
さて、川島喜代詩の遺歌集に、階段でたまたますれ違った青年の体臭を樹液の香にたとえた歌があった。他者の体臭について言及することには、どうしてもエロティックな要素が入り込んで来るが、老年の作者にとって、ものの香に感応することは、生命の泉に触れることであったのだろう。それで、匂いを詠んだ歌を川島喜代詩の歌集『消息』から拾ってみよう。
夏の日に苦き香のするペンギンは身の重ければ水にゆくらし 川島喜代詩
きのふけふすさみし風のしづまりてゆふべ躑躅の花の辛き香
手ざはりののこりがたきをものの香にあふことあればうごくこころや
一、二首とも匂いを味覚的な表現でとらえている。最後に引いた歌は、老年の淡い性欲に関わるもののようにも読める。ついでに自作を一首。
炎熱の廊をゆく少女そのあとを少年追ひて汗の香充てり さいかち真
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