さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

西藤定『蓮池譜』

2022年01月29日 | 現代短歌
 最近の若い歌人たちは、鎧を着て本音を幾重にも包まないと言いにくいみたいな感じになっているのかなあ、と思いつつⅠ章を読み終えた。それから長い間置いたままにしてあったが、何となく自分の中で書く気持が熟した気がするので書いてみることにする。私は難解歌はきらいではないが、この作者の場合、平易な歌だけで勝負してもやっていけるのではないかと思ったのだ。

  間が悪く手で押し返す自動ドアその手ごたえで「やれます」という

これはたぶん職場で少し無理やりな感じに仕事を頼まれた感じを表現しているのだろう。「手で押し返す自動ドアみたい」なイエスというのは、本当は引き受けたくないのだろう。でも、仕事というのは、だいたい否応なくさせられてしまうものだ。

 研修のたびに寝返り打つごとく小さくうごくわれらの順位

 いまのところ禁句ではない頑張れでお互いの土鍋が焦げていく

これもわかる。土鍋は研修会場のホテルの食事で銘々盛りで火をつけられた小型コンロの上に載っているのだろう。

 人間はややマシな猿ややマシなひとに二本の畝を預ける

これも仕事の歌だが、一読して「日本の畝」が何のことかと思う。上句は一種のシニシズムなんだろう。「ややマシな」ひとも、どうせ同じ「人間」だし、というのは、今の日本やアメリカのトップも同じだろう。と書いてみてから、ん? 「二本」はニホンか。そうすると、これはそういう意味にも読んでいい歌かもしれない。

 河底のつぶてをひとつ攫っては小さく鬨をあげる海鳴り

 砂防林よるは冷たき森となり眠らぬ鳥を匿っている

惜しげなく地元と言えば氷雨降るなぎさになおもサーファーがうく

この一連は実景を詠んでいるのだが、「惜しげなく」というのは、「地元だからネ」と言って冬もサーファーが海に浸かっているというような事なのだろう。すぐ火に当たったり湯に浸かったりする条件がないとできないことだから。少しわかりにくいか。

「おい、じじい」ときみは呼びくる銀色のUSBを差し出しながら

 この「じじい」というのは、年齢の割に老け顔というか、老成した顔つきの作者に対する仲間からの少しイジリも入った挨拶なのだろう。職場か研究所のような場所での若者同士の軽いやりとりである。軽いけれど、おもしろい歌である。こういう少しだけ自分をカリカチュアライズしている歌が全体に軽妙な雰囲気を醸し出している。集中の友人と会って酒をのんだりしているらしい歌は、どれもみな好感を持って読める。

  あの笑い声は英語の笑い声 冬の薔薇園とろとろ歩む

  北向きの入り江は冷えて夕もやにしんと安らうロナルド・レーガン

 一首目は、文句なくいい歌と思う。こういうさらっと掬った感じの写生が生きているのを作者のために喜びたい。芭蕉の軽みみたいなものだ。二首目の歌は、詞書に「2015.10.1 横須賀入港」とある。だからこれは空母のことである。続いて出てくる「1946.7.25 ビキニ環礁」という詞書のある次の歌は、何ごとかを示唆している。何となく一緒にいるのが女性ではないかと思うのだが、そういう相聞的な要素は、意識してか意識せずしてなのか、Ⅲ章にさりげなく置かれる歌に行きつくまで排除されている。一冊を通じたトーンが甘くないのである。

  環礁のただ碧ければ声もなく長門とサラトガのノーサイド

 あとは先に書いてしまうと、後の方の祖父の歌がいいなあ。

  がんに慣れがんに馴れずに吐く祖父へかたち無きまでなすを煮るのみ

  大学を帰れば磯臭い駅にまたしゃがみこむ祖父を見つけた

 挽歌の一連だが深刻にしない。そうして一連のおわりに次の歌を置く。私はそれでいいと思う。カナブンが飛び立ちやすいように拾っておいたのかもしれないし、同時に西方浄土だから「ただしい」方角なのだという含みもある。

  かなぶんを拾う ただしい向きに置く 出窓の西は雨雲である

三つの散文的なセンテンス。それにしても現代の短歌ははっきり文体が変わりつつあるということが、この歌を見てもわかる。加藤克巳の文体がさんざんバッシングを受けた時代は、とうの昔に過ぎ去ったのだ。これでも定型感がするということが重要で、この作者にはそういう資質が備わっている。

 相模湾かくも小さくまるく閉じヨットの白き列もだえたり

こういう作者自身がよく知っている世界、そういう風景を詠んだ歌はよくわかる。Ⅱ章はあとがきによれば夏の歌を集めてある。直近の「未来」に載った書評文(『迦楼羅の翼』について ※御執筆ありがとうございます!)をみると、「私」性についての考え方がかなり自由な作者だということがわかるのだが、私がこの歌集で感心するのは、こういう日常嘱目の歌の方が多いから、この人はあんまり時代の意匠に寄らなくてもいいのではないかなあ、とは思う。まあ、自分の好きな事をやっていれば、それでいいのだけれど。

 売れるとは馬に蹴られるようなこと胡椒に嵌めるポアソン分布

Ⅲ章の仕事の歌の一連から。何か予測ソフトのようなものを作って売っているマーケティング関連の会社で働いている感じがわかる。売れたからと言って素直に喜べるものではないということがわかる。仕事がどかんと増えることかもしれないし、難しい仕事がさらに先に積み上げられるというような意味のことなのかもしれない。

「Ⅲ章にさりげなく置かれる歌」と書いた。次に引いてみることにするが、ここで言えたのは、告白の言葉?

 馬鹿だからゆっくり言って、言えたんだ 嗄れ声の吹き通る辻

 「馬鹿だからゆっくり言って」と言ったのは、相手の方だと私は解釈するが、「おい、じじい」みたいな色気のない歌を歌集の前の方に持って来るあたり、恥ずかしがりの作者の性格が何となくわかって、楽しい。付けられているおまけの三人の栞は読まないままにこれを書いた。第一歌集おめでとう。

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