さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

吉田恭大『光と私語』

2019年03月26日 | 現代短歌
  恋人がすごくはためく服を着て海へ 海へと向かう 電車で

 何か言おうと思って栞の文をちらっと見てみるが、なんか自分とは入り方がちがうなあ、と思う。あとがきを見てみると、「生まれ育った鳥取を出て、10年経った。 演劇と詩歌の両方に携わりながら、死なない程度に働いている。」とある。演劇、という言葉を思った途端に、ふっとこの歌が入ってきた。私は歌集をはじめから順番に読まない。これは演劇的だ。この歌をもとに一幕の芝居が書けそうだ。

 ぞうがめの甲羅を磨く職人の家系に生まれなかった暮らし

 日雇いの仕事が飛んで平日のあなたと動物園に向かった

 トラのいる檻でボタンを押して鳴るさびしい時のトラの鳴き声

行間に差し込む光のように微笑が生まれてくる、この文体はなんだろう。若者はみんな、空しくてさびしい。それでよい。同じ一連の末尾の歌。

 明日の各地の天気予報がつぎつぎに届いて電話の電池が切れる
 
 百年を経て平日の晴れた日にあなたと亀を見にゆくんだよ

 この二首の間に、デザインによる鼠色がかった茶色の帯の、文字がない一行分の一本線がある。連作として読むのでないと、前の歌は少し淡すぎるし、後の歌もやや言葉がわかりすぎる。ここは私のような読者を相手にしていないのかもしれないが。別の章を読む。

  一年、また老人に近付いて、引いた歌の数ばかり増えて、私のコートは
  赤くないけれど、両手を空に向けて差し出す。

この「引いた歌の数ばかり増えて」というのが、歌人以外の読者に対してひらけていない気がする。この言葉の三ページ前には、次のような言葉がある。

  都電には老人が多い。老人は地下鉄に乗れない。彼らは次、
  地下に潜る時は埋められる時だと信じている。

でもねえ、老人も、きっとさびしいはず。私は昨夜、偶然手に入れた「月刊漫画ガロ」の1975年11月号の唐十郎作、篠原勝之作の「糸姫」を見て仰天していたのだ。何しろインパクトがちがう。そういう時代だったんだなあ、と過去の疾風怒濤の時代を今とひき比べて思いみるうちに、疲れて熟睡してしまった。私は昨日退職の花束をもらったのだった。まだ働くけどね。また別の章を読む。

 祝日のダイヤグラムでわたくしの墓のある村へ行く

こっちは、芝居になりそうだ。故郷への帰還の一連。

 河口から遡っても会えなくて潮の匂いで錆びてゆく腕
 地図を正せばもう消えている場所だろう  こんなにも猫しかいない

これは墓地がみつからないのである。ページの隙間が、心地いい。山本浩貴+h(いぬのせなか座)による装丁がこれはうまくいっている。もう一ヶ所同じ一連から引く。

 海に沿い小さな港 隧道を抜けるたび小さな船を見る
 暦では水母に埋まる海岸を誰かかわりに歩いてほしい
              諸寄、居組、東浜、岩美

これを読んで思う事は、日本語というのは、ごく自然に道行き文になるような生理を持っているのだということだ。地名がそういう記憶の古層を揺さぶるのである。いろいろな創作のためのポケットがありそうな作者だ。


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