私が本格的に短歌に取り組みはじめた三十代の頃に、前川佐美雄の『植物祭』を読んで感動した覚えがある。愛唱歌が多くあって、またそれについての文章も書いた。昭和初期の短歌というと、まずあがる名前は前川佐美雄、それから石川信夫なのだろうと思う。どちらも「芸術派」と言われた系譜の歌人だ。これと並行して「プロレタリア短歌」と呼ばれた系譜の作者たちがいた。
戦前の口語短歌とプロレタリア短歌は、権力による思想弾圧、前田夕暮を先頭にした昭和十六年の定型回帰、敗戦という経緯を経て大きく混迷し屈折した。戦後も長く活動したのは、一八九四年生れの渡辺順三、一九〇六年生れの坪野哲久、一九〇八年生れの岡部文夫といった人達、これに一九一〇年生れの香川進や一九一一年生れの中野菊夫の世代が続く。
もう一人代表的な名前をあげるとするなら、最晩年に顕彰されたことが印象に残っている一九一二年生れの宮崎信義がいる。その宮崎に近いところにいた光本恵子によって書かれたのが、近刊の『口語自由律短歌の人々』である。二八八ページ、全五一章の断章をもって構成される本書は、多くの章が私の知らない一次資料からの引用によって書かれている。これは困難な時代に自由な心の表現をもとめて戦ったひとたちへの敬意に満ちた歴史的発掘の仕事である。
光本があえて「口語自由律短歌」と呼称する系譜の短歌は、大きく言うと戦争の時代に一度挫折している。これに加えて、戦前は実に多くの文学者、若者が貧困と結核、戦争によって倒れた。だから、その歴史を語ることは、死屍累々と言っていいようなその頃の二十代、三十代の人たちの挫折と屈服の経験に触れることにほかならないのである。中途で折られた革新的な試みや、一時のきらめきを発した後に消えていった人達への哀惜の念があって、本書は書かれたのだろう。興味深いので章題をすべて転記してみることにする。
西出朝風の口語短歌(一)(二)、花岡謙二とその周辺、北海道の口語歌人伊東音次郎、鳴海要吉の横顔、川窪艸太と石原純、鳥取県の歌誌「廣野」と稲村謙一、稲村謙一の児童詩と口語短歌、児山敬一について(一) 神への敬語、児山敬一について(二) 短歌と哲学、津軽照子の聡明、首里城最後のお姫様、一九三三年版『詩歌年刊歌集』と宮崎信義の改作、清水信歌集『朝刊』とその仕事、『短歌と方法』と新短歌の方法論、太田静子の「短歌と方法」時代、森谷定吉と逗子の町、原三千代の印象、藤井千鶴子歌集『盛京』のことなど、長谷川央歌集『野鴨』のこと、合同歌集『流線車』と平井乙麿、近江のひと津島喜一、柳原一郎の「くうき」、松本みね子との出会い、宮崎信義の逝去、川崎むつをの反骨と漂泊、大槻三好の戦中戦後、中野嘉一の思い出、草飼稔の詩精神、口語自由律歌人 香川進、歌集『湾』と香川進の逡巡、前田夕暮編『詩歌作品』の作者たち、石本隆一のこと、高草小暮風断片(一)(二)、炭光任歌集『旅鴉』と「炭かすの街」、幻の人 佐藤日出夫、松本昌夫の妻の歌、藤本哲郎の試み、大町の口語歌人 傘木次郎、伊藤文市の石の歌、田中収の歌、太田治子と六條篤、吉川眞の人と作品、弦月の歌人 近山伸、逗子八郎と「短歌と方法」(一)(二)、宮崎信義と「短歌と方法」(一)(二)、抄滋郎のこと
太宰治に関心のある人は、この中ではまず太田静子の「短歌と方法」時代、太田治子と六條篤、の章を真っ先に読みたいと思うだろう。
著者がなぜこんなにも口語自由律短歌にまつわる人々にこだわり続けるのかがわかる文章がある。「松本みね子との出会い」の章から引く。
「松本みね子は大正四年九月三十日に京都市上京区、西陣の賃織職業、山田徳次郎の六女として生まれた。商工専修学校を卒業後、昭和三年から京都市役所に勤務した。
(略)
私がはじめて彼女に出会ったのは昭和三十九年の春であった。友人と連れ添って加茂川のほとりの家に訪ねた。白い割烹着のまま玄関に現れ、通されたところは台所。
「私はねえ。短歌があったから生きてこれたんや」といきなり語気を荒げて、こぶしを振りながら語る松本みね子その人に出会ったときは強烈な印象を受けた。世間知らずの田舎から出てきたばかりの私は「何やそのざまは、生きることは奇麗ごとではないよ、大変なんや」と水をかけられたような衝撃を受けた。
掌よ 五本の指の自由さよ 何んにも持たずに死のうでないか
毛虫よ毛虫 その色彩で芙蓉と競え おなじいのちを生きているのだ
さんとして春がかがやき 白い手袋が方向を教える 朝の十字路
この様に人の心も熟れたいと 晴れた日の 朝の苺に云いました
不思議と魂をくいちぎられてもいきています そこは 美しい人間の街です
ああ人生を完走せよと 私の残るいのちに火をつけた 重放火犯ビキラ・アベべ
(一二六ページより)」
おしまいの歌の「ビキラ・アベべ」は、前回東京オリンピックで優勝したエチオピアのマラソン走者の名前である。「重放火犯」というのは、私の心に放火した犯人ということで、素朴だが強烈な修辞である。引用された歌の一首目も二首目も、ストレートで力強い。松本みね子は、「わたしはわたしの新短歌を抱いて川をじゃぶじゃぶわたります」と病床で言って亡くなったそうである。壮烈な生き方だ。
著者の著作活動には、生活派、プロレタリア短歌の系譜の最後のバトンを渡された者としての使命感が感じられる。それは原点にこういう人との出会いがあったからだということを右の文章から深く得心する。
私個人においては、やはり前田夕暮、石本隆一、香川進などに触れた章に目が行くけれども、著者が言及した無名の作者たちの作品にこめられた切実な思いを、後世のわれわれがありありと感じ直し受け止めることが大事なのだろう。そのようにも短歌は感情を盛ることができる器である。
戦前の口語短歌とプロレタリア短歌は、権力による思想弾圧、前田夕暮を先頭にした昭和十六年の定型回帰、敗戦という経緯を経て大きく混迷し屈折した。戦後も長く活動したのは、一八九四年生れの渡辺順三、一九〇六年生れの坪野哲久、一九〇八年生れの岡部文夫といった人達、これに一九一〇年生れの香川進や一九一一年生れの中野菊夫の世代が続く。
もう一人代表的な名前をあげるとするなら、最晩年に顕彰されたことが印象に残っている一九一二年生れの宮崎信義がいる。その宮崎に近いところにいた光本恵子によって書かれたのが、近刊の『口語自由律短歌の人々』である。二八八ページ、全五一章の断章をもって構成される本書は、多くの章が私の知らない一次資料からの引用によって書かれている。これは困難な時代に自由な心の表現をもとめて戦ったひとたちへの敬意に満ちた歴史的発掘の仕事である。
光本があえて「口語自由律短歌」と呼称する系譜の短歌は、大きく言うと戦争の時代に一度挫折している。これに加えて、戦前は実に多くの文学者、若者が貧困と結核、戦争によって倒れた。だから、その歴史を語ることは、死屍累々と言っていいようなその頃の二十代、三十代の人たちの挫折と屈服の経験に触れることにほかならないのである。中途で折られた革新的な試みや、一時のきらめきを発した後に消えていった人達への哀惜の念があって、本書は書かれたのだろう。興味深いので章題をすべて転記してみることにする。
西出朝風の口語短歌(一)(二)、花岡謙二とその周辺、北海道の口語歌人伊東音次郎、鳴海要吉の横顔、川窪艸太と石原純、鳥取県の歌誌「廣野」と稲村謙一、稲村謙一の児童詩と口語短歌、児山敬一について(一) 神への敬語、児山敬一について(二) 短歌と哲学、津軽照子の聡明、首里城最後のお姫様、一九三三年版『詩歌年刊歌集』と宮崎信義の改作、清水信歌集『朝刊』とその仕事、『短歌と方法』と新短歌の方法論、太田静子の「短歌と方法」時代、森谷定吉と逗子の町、原三千代の印象、藤井千鶴子歌集『盛京』のことなど、長谷川央歌集『野鴨』のこと、合同歌集『流線車』と平井乙麿、近江のひと津島喜一、柳原一郎の「くうき」、松本みね子との出会い、宮崎信義の逝去、川崎むつをの反骨と漂泊、大槻三好の戦中戦後、中野嘉一の思い出、草飼稔の詩精神、口語自由律歌人 香川進、歌集『湾』と香川進の逡巡、前田夕暮編『詩歌作品』の作者たち、石本隆一のこと、高草小暮風断片(一)(二)、炭光任歌集『旅鴉』と「炭かすの街」、幻の人 佐藤日出夫、松本昌夫の妻の歌、藤本哲郎の試み、大町の口語歌人 傘木次郎、伊藤文市の石の歌、田中収の歌、太田治子と六條篤、吉川眞の人と作品、弦月の歌人 近山伸、逗子八郎と「短歌と方法」(一)(二)、宮崎信義と「短歌と方法」(一)(二)、抄滋郎のこと
太宰治に関心のある人は、この中ではまず太田静子の「短歌と方法」時代、太田治子と六條篤、の章を真っ先に読みたいと思うだろう。
著者がなぜこんなにも口語自由律短歌にまつわる人々にこだわり続けるのかがわかる文章がある。「松本みね子との出会い」の章から引く。
「松本みね子は大正四年九月三十日に京都市上京区、西陣の賃織職業、山田徳次郎の六女として生まれた。商工専修学校を卒業後、昭和三年から京都市役所に勤務した。
(略)
私がはじめて彼女に出会ったのは昭和三十九年の春であった。友人と連れ添って加茂川のほとりの家に訪ねた。白い割烹着のまま玄関に現れ、通されたところは台所。
「私はねえ。短歌があったから生きてこれたんや」といきなり語気を荒げて、こぶしを振りながら語る松本みね子その人に出会ったときは強烈な印象を受けた。世間知らずの田舎から出てきたばかりの私は「何やそのざまは、生きることは奇麗ごとではないよ、大変なんや」と水をかけられたような衝撃を受けた。
掌よ 五本の指の自由さよ 何んにも持たずに死のうでないか
毛虫よ毛虫 その色彩で芙蓉と競え おなじいのちを生きているのだ
さんとして春がかがやき 白い手袋が方向を教える 朝の十字路
この様に人の心も熟れたいと 晴れた日の 朝の苺に云いました
不思議と魂をくいちぎられてもいきています そこは 美しい人間の街です
ああ人生を完走せよと 私の残るいのちに火をつけた 重放火犯ビキラ・アベべ
(一二六ページより)」
おしまいの歌の「ビキラ・アベべ」は、前回東京オリンピックで優勝したエチオピアのマラソン走者の名前である。「重放火犯」というのは、私の心に放火した犯人ということで、素朴だが強烈な修辞である。引用された歌の一首目も二首目も、ストレートで力強い。松本みね子は、「わたしはわたしの新短歌を抱いて川をじゃぶじゃぶわたります」と病床で言って亡くなったそうである。壮烈な生き方だ。
著者の著作活動には、生活派、プロレタリア短歌の系譜の最後のバトンを渡された者としての使命感が感じられる。それは原点にこういう人との出会いがあったからだということを右の文章から深く得心する。
私個人においては、やはり前田夕暮、石本隆一、香川進などに触れた章に目が行くけれども、著者が言及した無名の作者たちの作品にこめられた切実な思いを、後世のわれわれがありありと感じ直し受け止めることが大事なのだろう。そのようにも短歌は感情を盛ることができる器である。
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