作品集の末尾の通常「あとがき」が来る位置に置かれている短編小説は、全体を読み解く鍵を与えてくれるものだ。思うに、作品の冒頭の雑誌の表紙の女も、電車の中で出会った若い女も、とりわけ謎めいた「ラ・プチット・ビジュー」も、<作者>の分身なのにちがいない。N個の<私>とでも言っておこうか。
「ラ・プチット・ビジューの悲しみは、決して私の悲しみではない。
どれだけ私がそうなるように望んでも、決してその感情を私の悲しみにすることはできないのだ。」
ここでの「私」と「ラ・プチット・ビジュー」との関係は、<多重人格者>の二人である。そうしてその「私」に性的な多重性・複数性があるとしたら、問題はさらに込み入ったものとなるにちがいないと思う。
水星の性倒錯にやさしさが苦しくもない世界の次第で
硝子にうつる強弱をまとった瞳がまた水星だけに味方していく
作者は「水星」を受け入れていないし、そのまま認めたくないのだと思う。「性倒錯」としてあらわれているのは、作者でなくて作者の「恋人」・「配偶者」の「詩」である可能性もある。または、多重人格のもう一人の「詩」である可能性もある。「性倒錯」というのは、多重化した「私」をメタ化する装置として存在するのだろう。そうすると多重人格(この言葉は筆者が書いているのであって、作者は使っていない)もメタ化の装置である可能性はある。そのようにして現実の<作者>はテキストから析出されない。そのように読むのが筋である。そういう意味では、この作品集は従来の短歌的なものからまったく切れている。
あとがきの位置に置かれた短編小説で、「私」と外で吐いている「あなた」は、重なりつつ二人に分かれているけれども、「あなた」が現実の男性だとすると、「あなた」は<性倒錯>の語り手である「私」の「夫」か「恋人」であったりするのかもしれない。ここで<性倒錯>を持ち出したのは、現実の<作者>がそうであるということではなくて、たとえばそのような性的な不如意の感覚や、よじれた欲求を持っていなければ、これらの作品は書かれなかったのではないかと思うからである。これは鋭敏な生き方をしている人なら普遍的に抱く生の不如意の感覚のことである。エクリチュールを根底から支えている生の実感、「わたしは無罪で死刑になりたい」という言葉を作者に吐かせる根本的な理由のようなもの、それを想像しながら読むと、この作品集は痛切でむごたらしく、激しい苦悩を表現しているように読めるのである。これはまったくの誤読かもしれないが、そのように読んだ方が、言葉がこちらの胸に突き刺さる感じに見合っている。
あとずさり百合の模様に織り込まれまだ国際的ないただきとなる
この「いただき」はドゥルーズの「プラトー」ではないかと思う。そうして作者はかなり濃いドゥルーズの読者ではないかと思う。
C級の瞳と電気の神話にふりむかないエンドロールを破壊したまま
きみならば首を吊るだろう夕焼けに音楽ははじめに馴染んでく
こんなにも絶望的であとがない情念の言葉を、連続的に吐き出し続ける感覚というのは、書くことによって死をまぬがれるという書き方を「詩」が要請するからだ。これは戦後詩ではむしろ常套的なあり方だったが、最近はあまり見なかった。このこと自体は、むしろ懐かしい既視感のようなものを覚えさせるものであるが、現在の文化状況、詩歌の置かれている状況のもとにこれを行うのは、このように断固として行うことは、言表の世界におけるひとつの抵抗である。この一冊は、言表が多様な<切断>であるような不可能事への不遜な賭けであると言ってもよい。そういう猛々しさは、ある。そのことに私は感動を覚えた。
「ラ・プチット・ビジューの悲しみは、決して私の悲しみではない。
どれだけ私がそうなるように望んでも、決してその感情を私の悲しみにすることはできないのだ。」
ここでの「私」と「ラ・プチット・ビジュー」との関係は、<多重人格者>の二人である。そうしてその「私」に性的な多重性・複数性があるとしたら、問題はさらに込み入ったものとなるにちがいないと思う。
水星の性倒錯にやさしさが苦しくもない世界の次第で
硝子にうつる強弱をまとった瞳がまた水星だけに味方していく
作者は「水星」を受け入れていないし、そのまま認めたくないのだと思う。「性倒錯」としてあらわれているのは、作者でなくて作者の「恋人」・「配偶者」の「詩」である可能性もある。または、多重人格のもう一人の「詩」である可能性もある。「性倒錯」というのは、多重化した「私」をメタ化する装置として存在するのだろう。そうすると多重人格(この言葉は筆者が書いているのであって、作者は使っていない)もメタ化の装置である可能性はある。そのようにして現実の<作者>はテキストから析出されない。そのように読むのが筋である。そういう意味では、この作品集は従来の短歌的なものからまったく切れている。
あとがきの位置に置かれた短編小説で、「私」と外で吐いている「あなた」は、重なりつつ二人に分かれているけれども、「あなた」が現実の男性だとすると、「あなた」は<性倒錯>の語り手である「私」の「夫」か「恋人」であったりするのかもしれない。ここで<性倒錯>を持ち出したのは、現実の<作者>がそうであるということではなくて、たとえばそのような性的な不如意の感覚や、よじれた欲求を持っていなければ、これらの作品は書かれなかったのではないかと思うからである。これは鋭敏な生き方をしている人なら普遍的に抱く生の不如意の感覚のことである。エクリチュールを根底から支えている生の実感、「わたしは無罪で死刑になりたい」という言葉を作者に吐かせる根本的な理由のようなもの、それを想像しながら読むと、この作品集は痛切でむごたらしく、激しい苦悩を表現しているように読めるのである。これはまったくの誤読かもしれないが、そのように読んだ方が、言葉がこちらの胸に突き刺さる感じに見合っている。
あとずさり百合の模様に織り込まれまだ国際的ないただきとなる
この「いただき」はドゥルーズの「プラトー」ではないかと思う。そうして作者はかなり濃いドゥルーズの読者ではないかと思う。
C級の瞳と電気の神話にふりむかないエンドロールを破壊したまま
きみならば首を吊るだろう夕焼けに音楽ははじめに馴染んでく
こんなにも絶望的であとがない情念の言葉を、連続的に吐き出し続ける感覚というのは、書くことによって死をまぬがれるという書き方を「詩」が要請するからだ。これは戦後詩ではむしろ常套的なあり方だったが、最近はあまり見なかった。このこと自体は、むしろ懐かしい既視感のようなものを覚えさせるものであるが、現在の文化状況、詩歌の置かれている状況のもとにこれを行うのは、このように断固として行うことは、言表の世界におけるひとつの抵抗である。この一冊は、言表が多様な<切断>であるような不可能事への不遜な賭けであると言ってもよい。そういう猛々しさは、ある。そのことに私は感動を覚えた。
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