さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

山上たつひこのこと 雑記改題

2017年04月12日 | 日記
 少しでも身の回りの整理をしないでいると、だんだん封筒の切れ端のようなものが積み重なって行って、山のようになってしまう。セルフ・ネグレクトの生活、とでも言ったらいいか。いそがしいと、ついそうなる。それを片付けはじめると、半日はあっと言う間だ。みすみす休日の貴重な時間が奪われていく。せっかくの休日を空費して、気付いた時にはもう夕方の四時頃だ。

―八丈島の、きょん。

…なんて言っても、若い人は、わからないか。苦しい現実を破壊的で不条理なギャグでごまかそうとする、必死のユーモアが、「八丈島の、きょん」だったので、「猫パンチ」というのもあったかな。(山上たつひこの漫画です。)

猫パンチをくれてみたいのが、あのことだ。誰も命令をくだしていないのに大きな建物が建ったり、検査数値が百倍になったりならなかったり、もう何でもありの無責任体制。これを戯画とみて笑っている場合ではない。己の写し絵なわけだから。今後の日本社会の先行きを占うためにも、ここはけじめをつけておかなければならない。鉄面皮の代表のようなナンバーツーには、詰め腹を切らせたい。大将には、もう一度唐紙を破る勇気を起こして記憶を取り戻し、「男らしく」謝罪してもらいたいものである。

それにしても、空気を読むのに敏感なひとたちの右往左往する姿はどうだろう。こういう連中が、戦時中は先頭に立って旗を振ったのである。バスに乗り遅れるな、というやつである。だから、まったく信用ならない。と言うより、こういうドミノ倒しの「ドミノの駒」を信用してはならないのである。他人のふんどしで相撲をとるというのは、こういうひとたちのことを言う。

―八丈島の、きょん。

※追記 山上たつひこの『大阪弁の犬』という本が「フリースタイル」という出版元から2017.11.25日付で出た。藤沢のジュンク堂で漫画のコーナーに置いてあった。はじめわからなくて店員に訊ねてしまった。これは文藝棚にも置いてほしいと思う。格調の高い文章が集められたエッセイ集なのである。

いま、ふっと心づいたのだけれども、この本で語られている、山上たつひこの初期の自らの漫画の描法への違和感というのは、要するにナルシシズムへの警戒ということなのだろうと思う。

 『光る風』が学園紛争時代に政治的なメッセージをこめた漫画として世代的に支持されてしまうということがあって、それをあえて捨てて顧みない、絵のタッチまで変えないと気が済まなかった、というところに、自分の表現衝動に正直であろうとする作者の独特のこだわりがあったのだろうと思う。

 学園紛争自体が、端的に言うと若者たちのナルシシズムの爆発のようなところがあった。私は、長崎という人が、当時「造反無理」という落書があったことを報告している文章を読んだことがある。それはとてもみっともないことだから、あなたは(ぼくらは)こんなにみっともないんだよ、はずかしいんだよ、という漫画を、作者としては意地でも描く必要があったのだ。そこのところで諧謔のセンスがピカイチだったから、いまだに山上たつひこの名前と作品は忘れられないのである。
 
 ついでに書いておくと、私には企画の才能があるので書いてみると、ビートたけしの週刊誌連載の毒舌漫談は、全集にして、立派なキンキラキンの本にして刊行すべきである。一冊ごとに表紙は、一流のアーティストのデザインにして、表紙カバーの裏側は、多様な人物の顔写真やヌード写真などであるべきだ。そういう楽しい本を手にしたい。




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