また更新が滞って来てしまって申し訳ない。以下は2016年の読書会のレジュメだけれども、出してみることにする。この文章はどこかに一度出したものかもしれないが、検索をかけてもヒットしなかったので、たぶんどこかに印刷する予定で手直ししたままお蔵入りになっていたものだ。
※ こう書いてアップした翌日に念のためチェックしたら、やはり一度アップしていた。でも消すのはよけい混乱を招くので、そのままにしておきます。一度読んでおられた方、ごめんなさい。でも、微妙に細部がちがうようです。
江戸雪歌集『昼の夢の終わり』 横浜短歌勉強会レジュメ
江戸雪さんの歌集は、自分などには読みやすいと思っていたのだが、巻頭の一連から読み始めると歌の内容がちっとも頭に入って来ない。それで真ん中あたりを拡げて読み出したら、すらすらとおしまいまで読んでしまった。これは、冒頭の一連といまの自分の波長が合わないせいだろう。巻頭の二首。
すでに春 陽は水飴のように射しデイジーデイジー白や黄色の
きっぱりと一直線に飛んでゆく燕は空を愛しているか
一首目は、結句の言いさした終わり方が私の趣味ではない。二首目は、わかりやすすぎるのが、これも私の好みではないのである。我ながら気難しい読者だ。
八首目、
身体が朽ちていくのがこわいのだ川面のつよいつよい光よ
十首目、
生きるとはゆるされること梔子の枯れゆくようにわれは病みたり
※ルビ「くちなし」
両方ともわるくない歌だ。これは、「あとがき」に大病をしてあぶなかったと書いたとあるから、そういう了解もあって読む。分析してみると、どちらも先に「身体が朽ちていくのがこわいのだ」とか、「生きるとはゆるされること」という感慨を示す句が先に来ている。その直感から語り出して、それに眼前の事物を合わせるという作り方がされている。
続く二つ目の章をみると、実にすんなりと歌が頭に入ってきた。冒頭の一連は、次の一連を言うための導入として置かれていたようだ。こんなふうに波長が合わない時は通り過ぎればいいのだ。歌集を読む時は、こういうことがしばしば起きる。二つ目の章から。
どの春もいまは遠いよさえずりをあびてあなたと川の辺にいる
川の辺を群れ咲くはなの水仙を見ている眸、春の秀となる
※「眸」に「ひとみ」、「秀」に「ほ」とルビ。
川べりの雲が引きはがされていくそれをかなしむひともいなくて
なぜ涙流れたのだろうながすたび咽喉にとろりとやさしさがきて
平易でしかも深みが感じられる。これを読む時は、やはり「あとがき」の情報はあった方がいい。こちらは、先に引いたものよりも大きな丸をつけた。二つ目の章から四首引いたうちの一首目と二首目を分析してみると、先に感慨句が来る点では、「身体が朽ちて」、「生きるとは」という歌と共通である。でも「どの春もいまは遠いよ」とか、「なぜ涙流れたのだろう」という句は、内言のかたちをとって、より客観的になっている。直接的ではあるが、先に引いた歌の「身体が朽ちていくのがこわいのだ」の「こわいのだ」という判断や、「生きるとはゆるされること」というやや抽象的な概念的な断定とは、構造を異にする。(短歌の英訳をするような人は、ここの区別が勘所だろうと思う。)
どうも私は、通俗的な句と、詩的な発見の境を見分けることに対して過剰に注意がはたらくようだ。「生きるとはゆるされること」という感慨を支えるのに、「梔子の枯れゆくようにわれは病みたり」と合わせる叙法だけでは物足りないのだ。
しかし、四つ目の章あたりから、だんだん興が深まって来て、実にいい歌集だな、と思いながら読んだ。特に関西弁が入ってくる歌がおもしろい。中盤以降はそれが顕著である。
悪いこと起こった日にはテディベアの置き場所かえてほなまたあした
たぶん歌集のカバーの写真は、この歌のイメージを元にしているのだろう。「ほなまたあした」と言ったときに余裕が生まれて、切羽詰まった感じがまぎれる。五つ目の章から。
炎昼はおおきな翼ほしくなり風吹きぬける橋をわたった
この歌が文語だったらいいのに、と今思った。口語だと「炎昼は」が主題の提示のような雰囲気をどうしても持ってしまう。初句が強く響きすぎるのだ。結句も「わたった」という言い切りが決意表明のような語気を持ってしまう。文語なら助動詞の「む」を使ってやんわりと言うところだ。もっとも話し合っているうちに、これは逆なのではないかという意見が出た。歌によっては、最初に文語で作ってあって、それを口語に直しているのではないか、と。他にもそういう雰囲気の歌がある、と。関西弁の秀歌をいくつかまとめて引いてみる。
いいひとになりたいのんか渡されたクリアファイルが腕にはりつく
葦はらに鳥はもぐれりくやしくてかなしいときは笑っときなはれ
ざぶとんになろうあなたが疲れたらあほやなあって膨らむような
こういう歌がアクセントになっている。江戸さんの歌は、思ったことをすぱっすばっと言うところに良さの一つがある。関西弁で「あほやなあ」と言われても腹が立たない。関西弁や東北弁などの方言が使える歌人は、二種類の口語を持っているわけだ。うらやましい。やっぱり歌集の半ば以降の方が、私には読みやすい。そこから引いてみたい。
後ろからきたる驟雨ににおいたつ鉄を運べり軽トラックは
台所にセロリはありぬ天をゆくアキレス腱のようにひかりて
くびすじへとどく陽射しよひとづまのわが恋歌は夏雲のよう
横にいるわたしはあなたのかなしみの一部となりて川鵜みている
やさしさがさびしいだけの時があり鳥よひかりのごとくはばたけ
プラタナス「ほなまたね」って別れたりそしてざわっと動きだす川
この歌の下句の「そしてざわっと動きだす川」は、詩の一回性の輝きを持ったかけがえのない表現ではないだろうか、というところで居合わせた三人の意見が一致した。
蒼き水を淀川と呼ぶうれしさよすべてをゆるしすべてを摑む
川が吐くひかりはときに青くなりやはり「今」しか生きられなくて
いわばしる箕面ビールの瓶が鳴る春のまひるにハンドルきるとき
曇天とわれのあいだに垂れている藤の花ぶさあるいは闇が
川や橋の歌にいいものがたくさんあって、「時間と淀川」の章がいい。「鉄工所の嫁」の章もいい。中盤からも少し引こう。
からだだけ運ばれてゆくような日はホタルブクロや雲と出会うよ
想像する遠景それは水門であなたの後ろすがたもありぬ
打合せ終えて初夏しばらくはひかる堂島川を眺める
栴檀木橋うつくしそれゆえに渡ることなく時はすぎたり
※「栴檀木橋」に「せんだんのきばし」とルビ。
漆黒のぶどうひとつぶ口に入れ敗れつづける決心をする
空、これが嘘だとしてもいつの日かわたしは身体をうしなっていく
ブラインドひりひりと鳴り昼すぎの思考をふかく胸にしずめる
秋ふかく風はときどき向きを変えなにわ筋いまはげしく黄金
私は作者とは、十年以上前に一度だけ短歌のイベントで会って少し話をしたことがある。その時に、思ったことをお互いに述べあって間然する所がない、という印象を持った。自分と同類の、率直に感覚をさらけ出しながら生きている人間の匂いがして、うれしかった。江戸雪さんの歌には、大阪の川面をわたる風の匂いがする。空の色が言葉に映り込んでいるのだ。
嵯峨直樹さんいわく、この「台所にセロリはありぬ天をゆくアキレス腱のようにひかりて」という技巧的に完成された一首と、「プラタナス「ほなまたね」って別れたりそしてざわっと動きだす川」という歌の振幅の大きさが、江戸さんという歌人の力量を証し立てている、と。嵯峨さんの了解を得てここに記しておく。
※ こう書いてアップした翌日に念のためチェックしたら、やはり一度アップしていた。でも消すのはよけい混乱を招くので、そのままにしておきます。一度読んでおられた方、ごめんなさい。でも、微妙に細部がちがうようです。
江戸雪歌集『昼の夢の終わり』 横浜短歌勉強会レジュメ
江戸雪さんの歌集は、自分などには読みやすいと思っていたのだが、巻頭の一連から読み始めると歌の内容がちっとも頭に入って来ない。それで真ん中あたりを拡げて読み出したら、すらすらとおしまいまで読んでしまった。これは、冒頭の一連といまの自分の波長が合わないせいだろう。巻頭の二首。
すでに春 陽は水飴のように射しデイジーデイジー白や黄色の
きっぱりと一直線に飛んでゆく燕は空を愛しているか
一首目は、結句の言いさした終わり方が私の趣味ではない。二首目は、わかりやすすぎるのが、これも私の好みではないのである。我ながら気難しい読者だ。
八首目、
身体が朽ちていくのがこわいのだ川面のつよいつよい光よ
十首目、
生きるとはゆるされること梔子の枯れゆくようにわれは病みたり
※ルビ「くちなし」
両方ともわるくない歌だ。これは、「あとがき」に大病をしてあぶなかったと書いたとあるから、そういう了解もあって読む。分析してみると、どちらも先に「身体が朽ちていくのがこわいのだ」とか、「生きるとはゆるされること」という感慨を示す句が先に来ている。その直感から語り出して、それに眼前の事物を合わせるという作り方がされている。
続く二つ目の章をみると、実にすんなりと歌が頭に入ってきた。冒頭の一連は、次の一連を言うための導入として置かれていたようだ。こんなふうに波長が合わない時は通り過ぎればいいのだ。歌集を読む時は、こういうことがしばしば起きる。二つ目の章から。
どの春もいまは遠いよさえずりをあびてあなたと川の辺にいる
川の辺を群れ咲くはなの水仙を見ている眸、春の秀となる
※「眸」に「ひとみ」、「秀」に「ほ」とルビ。
川べりの雲が引きはがされていくそれをかなしむひともいなくて
なぜ涙流れたのだろうながすたび咽喉にとろりとやさしさがきて
平易でしかも深みが感じられる。これを読む時は、やはり「あとがき」の情報はあった方がいい。こちらは、先に引いたものよりも大きな丸をつけた。二つ目の章から四首引いたうちの一首目と二首目を分析してみると、先に感慨句が来る点では、「身体が朽ちて」、「生きるとは」という歌と共通である。でも「どの春もいまは遠いよ」とか、「なぜ涙流れたのだろう」という句は、内言のかたちをとって、より客観的になっている。直接的ではあるが、先に引いた歌の「身体が朽ちていくのがこわいのだ」の「こわいのだ」という判断や、「生きるとはゆるされること」というやや抽象的な概念的な断定とは、構造を異にする。(短歌の英訳をするような人は、ここの区別が勘所だろうと思う。)
どうも私は、通俗的な句と、詩的な発見の境を見分けることに対して過剰に注意がはたらくようだ。「生きるとはゆるされること」という感慨を支えるのに、「梔子の枯れゆくようにわれは病みたり」と合わせる叙法だけでは物足りないのだ。
しかし、四つ目の章あたりから、だんだん興が深まって来て、実にいい歌集だな、と思いながら読んだ。特に関西弁が入ってくる歌がおもしろい。中盤以降はそれが顕著である。
悪いこと起こった日にはテディベアの置き場所かえてほなまたあした
たぶん歌集のカバーの写真は、この歌のイメージを元にしているのだろう。「ほなまたあした」と言ったときに余裕が生まれて、切羽詰まった感じがまぎれる。五つ目の章から。
炎昼はおおきな翼ほしくなり風吹きぬける橋をわたった
この歌が文語だったらいいのに、と今思った。口語だと「炎昼は」が主題の提示のような雰囲気をどうしても持ってしまう。初句が強く響きすぎるのだ。結句も「わたった」という言い切りが決意表明のような語気を持ってしまう。文語なら助動詞の「む」を使ってやんわりと言うところだ。もっとも話し合っているうちに、これは逆なのではないかという意見が出た。歌によっては、最初に文語で作ってあって、それを口語に直しているのではないか、と。他にもそういう雰囲気の歌がある、と。関西弁の秀歌をいくつかまとめて引いてみる。
いいひとになりたいのんか渡されたクリアファイルが腕にはりつく
葦はらに鳥はもぐれりくやしくてかなしいときは笑っときなはれ
ざぶとんになろうあなたが疲れたらあほやなあって膨らむような
こういう歌がアクセントになっている。江戸さんの歌は、思ったことをすぱっすばっと言うところに良さの一つがある。関西弁で「あほやなあ」と言われても腹が立たない。関西弁や東北弁などの方言が使える歌人は、二種類の口語を持っているわけだ。うらやましい。やっぱり歌集の半ば以降の方が、私には読みやすい。そこから引いてみたい。
後ろからきたる驟雨ににおいたつ鉄を運べり軽トラックは
台所にセロリはありぬ天をゆくアキレス腱のようにひかりて
くびすじへとどく陽射しよひとづまのわが恋歌は夏雲のよう
横にいるわたしはあなたのかなしみの一部となりて川鵜みている
やさしさがさびしいだけの時があり鳥よひかりのごとくはばたけ
プラタナス「ほなまたね」って別れたりそしてざわっと動きだす川
この歌の下句の「そしてざわっと動きだす川」は、詩の一回性の輝きを持ったかけがえのない表現ではないだろうか、というところで居合わせた三人の意見が一致した。
蒼き水を淀川と呼ぶうれしさよすべてをゆるしすべてを摑む
川が吐くひかりはときに青くなりやはり「今」しか生きられなくて
いわばしる箕面ビールの瓶が鳴る春のまひるにハンドルきるとき
曇天とわれのあいだに垂れている藤の花ぶさあるいは闇が
川や橋の歌にいいものがたくさんあって、「時間と淀川」の章がいい。「鉄工所の嫁」の章もいい。中盤からも少し引こう。
からだだけ運ばれてゆくような日はホタルブクロや雲と出会うよ
想像する遠景それは水門であなたの後ろすがたもありぬ
打合せ終えて初夏しばらくはひかる堂島川を眺める
栴檀木橋うつくしそれゆえに渡ることなく時はすぎたり
※「栴檀木橋」に「せんだんのきばし」とルビ。
漆黒のぶどうひとつぶ口に入れ敗れつづける決心をする
空、これが嘘だとしてもいつの日かわたしは身体をうしなっていく
ブラインドひりひりと鳴り昼すぎの思考をふかく胸にしずめる
秋ふかく風はときどき向きを変えなにわ筋いまはげしく黄金
私は作者とは、十年以上前に一度だけ短歌のイベントで会って少し話をしたことがある。その時に、思ったことをお互いに述べあって間然する所がない、という印象を持った。自分と同類の、率直に感覚をさらけ出しながら生きている人間の匂いがして、うれしかった。江戸雪さんの歌には、大阪の川面をわたる風の匂いがする。空の色が言葉に映り込んでいるのだ。
嵯峨直樹さんいわく、この「台所にセロリはありぬ天をゆくアキレス腱のようにひかりて」という技巧的に完成された一首と、「プラタナス「ほなまたね」って別れたりそしてざわっと動きだす川」という歌の振幅の大きさが、江戸さんという歌人の力量を証し立てている、と。嵯峨さんの了解を得てここに記しておく。
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