古書で、しかも安価だから何となく買った、というような本が手元にたくさんあって、それが身辺に溢れ出してとっても邪魔なのだけれども、拡げてみると結構おもしろかったりするものだから、また元に戻したりなんかして、一向に本の山が片付かない。それがだんだん寝る場所にまで迫って来たので、仕方がないから年末に思いきって四〇リットルのビニール袋に入れて、それを十袋ほどを引きずるようにして車の後部座席に積み入れておいた。年が明けてから紙袋をたくさん買って来てそれを整理し直し、その半分を倉庫に持って行き、残りの本は元の部屋に戻した。それでもまだ手元に転がっている雑書のタイトルを以下に書きだしながら、何か書いてみたい。
・遠藤知子編『吉行淳之介 心に残る言葉』(1997年 ネスコ/文藝春秋刊)
その「編者あとがき」より引く。
「吉行淳之介が嫌ったのは、なによりも重々しいこと。好んだのは、繊細な機知、批判精神と一体になったユーモア。軽薄さをすすめているエッセイも多い。今、日本には重々しさはどこにもなくなったといってよい。笑いも豊富である。しかし、吉行淳之介の考えていた鋭い軽さとは、なんと違うことか。」
・永野健二『バブル』(2016年 新潮社刊)
この本の「はじめに」の二ページ目に次のような一文がある。
「40年刊経済記者として市場経済を見続けてきた私の信念は、『市場は(長期的には)コントロール出来ない』ということである。」
昨日今日の株高を報ずるニュースを聞いていると、この人の警告の言葉を今こそ読み返した方がいいのではないかと私には思われる。著者によればグローバルな資本主義は10年周期で危機を繰り返す。2013年の安倍政権の発足が著者の言う新たなバブルの開始時点とすると、そろそろ十年を過ぎるころなのである。
・芳賀徹『文明としての徳川日本』(2017年 筑摩書房刊)
日本の人口が江戸時代レベルまで減ったとしても、その気になれば豊かな文化を維持創造することは可能である。それを教えてくれるのが、本書に登場する江戸時代の人々である。まずは日常の消費の質を見直すところからはじめるといいだろうと思う。生のたのしみに繊細な工夫をめぐらせるということである。好奇心や関心、インタレストというものを消費一方にだけ誘導しないことが大事なのだ。
・藤田久一『戦争犯罪とは何か』(1995年 岩波新書)
現在の世界情勢のなかでプーチンとネタニヤフを同列のものとして論ずることはできない。それが同じように見えてしまうのは、彼らの軍隊が、民間人、とりわけ子供達とその母親の多くを容赦なく巻き込んで殺しているからである。でも、それを「戦争犯罪」と認定できるかどうかは、抽象度の高い「議論」となる。彼らの残虐な行動をどういう根拠に基づいてわれわれは「戦争犯罪」と呼ぶことができるのか。外交や戦争を論ずるということは、なかなかたいへんなのだ。
・加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(平成二十八年 新潮文庫)
・平井啓之『テキストと実存』(1992年 講談社学術文庫)
・真保裕一『栄光なき凱旋 上・下』(2009年 新潮文庫)
・喜多昭夫『青の本懐』
簡素で読みやすい本のつくりに感心。二首引く。
若き友よりの手紙の一節に「小さな物欲を供養する」とあり
折鶴を黄金の紙にもどしつつ願ひをひとつ帳消しにせり
二首目の歌の「黄金」には「こがね」とルビがある。北陸は浄土真宗がつよい地帯だけれども、真宗では、欲というものは抱いてもかまわない、そのかわりにすぐわすれなさい、と説く。喜多さんの歌にあらわれている倫理的なもののなかに、そういうものがあるように私には感じられる。喜多さんの歌が持っている機知的な要素は、自分も含めた世間のひとびとの心の内側に生ずる認識のまちがいや勘違いのようなものに気付かせるために、あえて今在るものをそのものの安んじてある位置から動かそうとするものだ。そのため多少臍が曲がっているところがあるが、別にふざけているわけではない。これは吉行淳之介の説く軽薄さに近いものだ。
道のべに赤茄子の轢死体を見て作中主体は歩み去りにき
※「作中主体」に「さいとうもきち」と振り仮名あり。
〇別の話を。
湘南海岸公園駅の近くに画廊が在った。今日三岸節子のリトグラフをそこでまとめて見た。三岸のリトグラフは、写真やネットで見たことがあるものの実物をこれだけたくさんまとめて見たのは、これが初めてだ。どれも状態がいいので感心した。この画廊とは関係のないところで、たまたま大磯でも展示があるらしい。行ってみるかな。
・遠藤知子編『吉行淳之介 心に残る言葉』(1997年 ネスコ/文藝春秋刊)
その「編者あとがき」より引く。
「吉行淳之介が嫌ったのは、なによりも重々しいこと。好んだのは、繊細な機知、批判精神と一体になったユーモア。軽薄さをすすめているエッセイも多い。今、日本には重々しさはどこにもなくなったといってよい。笑いも豊富である。しかし、吉行淳之介の考えていた鋭い軽さとは、なんと違うことか。」
・永野健二『バブル』(2016年 新潮社刊)
この本の「はじめに」の二ページ目に次のような一文がある。
「40年刊経済記者として市場経済を見続けてきた私の信念は、『市場は(長期的には)コントロール出来ない』ということである。」
昨日今日の株高を報ずるニュースを聞いていると、この人の警告の言葉を今こそ読み返した方がいいのではないかと私には思われる。著者によればグローバルな資本主義は10年周期で危機を繰り返す。2013年の安倍政権の発足が著者の言う新たなバブルの開始時点とすると、そろそろ十年を過ぎるころなのである。
・芳賀徹『文明としての徳川日本』(2017年 筑摩書房刊)
日本の人口が江戸時代レベルまで減ったとしても、その気になれば豊かな文化を維持創造することは可能である。それを教えてくれるのが、本書に登場する江戸時代の人々である。まずは日常の消費の質を見直すところからはじめるといいだろうと思う。生のたのしみに繊細な工夫をめぐらせるということである。好奇心や関心、インタレストというものを消費一方にだけ誘導しないことが大事なのだ。
・藤田久一『戦争犯罪とは何か』(1995年 岩波新書)
現在の世界情勢のなかでプーチンとネタニヤフを同列のものとして論ずることはできない。それが同じように見えてしまうのは、彼らの軍隊が、民間人、とりわけ子供達とその母親の多くを容赦なく巻き込んで殺しているからである。でも、それを「戦争犯罪」と認定できるかどうかは、抽象度の高い「議論」となる。彼らの残虐な行動をどういう根拠に基づいてわれわれは「戦争犯罪」と呼ぶことができるのか。外交や戦争を論ずるということは、なかなかたいへんなのだ。
・加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(平成二十八年 新潮文庫)
・平井啓之『テキストと実存』(1992年 講談社学術文庫)
・真保裕一『栄光なき凱旋 上・下』(2009年 新潮文庫)
・喜多昭夫『青の本懐』
簡素で読みやすい本のつくりに感心。二首引く。
若き友よりの手紙の一節に「小さな物欲を供養する」とあり
折鶴を黄金の紙にもどしつつ願ひをひとつ帳消しにせり
二首目の歌の「黄金」には「こがね」とルビがある。北陸は浄土真宗がつよい地帯だけれども、真宗では、欲というものは抱いてもかまわない、そのかわりにすぐわすれなさい、と説く。喜多さんの歌にあらわれている倫理的なもののなかに、そういうものがあるように私には感じられる。喜多さんの歌が持っている機知的な要素は、自分も含めた世間のひとびとの心の内側に生ずる認識のまちがいや勘違いのようなものに気付かせるために、あえて今在るものをそのものの安んじてある位置から動かそうとするものだ。そのため多少臍が曲がっているところがあるが、別にふざけているわけではない。これは吉行淳之介の説く軽薄さに近いものだ。
道のべに赤茄子の轢死体を見て作中主体は歩み去りにき
※「作中主体」に「さいとうもきち」と振り仮名あり。
〇別の話を。
湘南海岸公園駅の近くに画廊が在った。今日三岸節子のリトグラフをそこでまとめて見た。三岸のリトグラフは、写真やネットで見たことがあるものの実物をこれだけたくさんまとめて見たのは、これが初めてだ。どれも状態がいいので感心した。この画廊とは関係のないところで、たまたま大磯でも展示があるらしい。行ってみるかな。
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