さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

戦場の歌の虚構性について

2017年01月28日 | 現代短歌
以下は、2008年の「短歌往来」に掲載した論文である。

 〇はじめに
 奥村晃作著『戦争の歌 渡辺直己と宮柊二』(北冬舎刊)が出版された。前半が渡辺直己について、後半が宮柊二についての論である。もとは佐藤道雅の個人誌「路上」に連載されたものだ。ここで奥村の近年の仕事について少し書いておくと、先に刊行された『ただごと歌の系譜』では、遅まきながら私も近世歌人の歌のおもしろさに目をひらかされた。そうして玉城徹が一九八八年に出した『近世歌人の思想』の存在を知った。玉城の著書は、正岡子規によって全否定された香川景樹の業績から、人間性についての日本人の自前の思想を掘り起こし、子規以来の近代短歌的な短歌史観の修正をもとめていた。奥村の本は、私がそういうことに目を向けるきっかけとなった。今度の著書も、私にとっては刺激的な文言を含んでいた。以下の話題に触れるのは苦しいことなのだけれども、戦争の表現の継承にかかわることだから、何とか書いてみたい。本文のねらいは、奥村の著書を起点として、改めて歌の読み方について考えることである。

  〇鹿野政直の宮柊二論

 数年前に一ノ関忠人が、評論で歴史学者の鹿野政直の著書
『兵士であること 動員と従軍の精神史』(二〇〇五年朝日新聞社刊)をとりあげた文章を書いていた。私はその一文に刺激されて、すぐに鹿野の本を買い求めたのだった。するとそこには、宮柊二の『山西省』の中の著名な歌がとりあげられており、次のようなことが述べられていたのだ。

  だが兵士としての宮は、もとよりこれらの情景への単なる参加者、その哀悼者には留まらなかった。逆に惨劇の遂行者以外の何者でもなかった。戦場詠の絶唱とされる「ひきよせて」の一首は、そのように兵士であることを追い求めていったとき、避けがたくぶつからざるを得なかった事態を、みずからの責任として引き受ける覚悟を踏まえて詠まれた。

  ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す    宮 柊二

  そこには、わたくしは人を殺した=殺人者だとの心の絶叫がある。同時に、義務として遂行した、せざるを得なかった、しかしやはり殺したとの反芻がある。武勲=手柄をたてたと触れまわるのとは対極の気持がある。ひきよせて寄り添うという愛情表現と、刺すという殺害行為とが鋭い対比をなして、心の葛藤を表現している。声もなくという切りとられた静寂性が、叫喚を連想しやすい戦闘場面の対極に、行為のなまなましさと容赦のなさをより強く印象づける。余分の修飾語や感想がなく、ただ行為とその結果のみが、”表情をなくした顔の秘むる感情“をこめて、もっとも短く表現されている。
  (鹿野政直「『一兵』の覚悟 宮柊二の戦場詠序説」)

 「ひきよせて」の歌の感受のしかたとして、右の鹿野の論には無理のない読み解き方が示されている。思い入れを排して読むならば、「寄り添うという愛情表現と、刺すという殺害行為とが鋭い対比をなして」いるという評釈が、もっとも一般的で妥当な線であろう。そうして、そこに「心の絶叫」を聞き取り、義務として「せざるを得なかった」者の声を聞こうとするのも、当然予想できる感受のしかただと思われる。

 鹿野が右のように読んだのは、(全部は引用しないが)この一連を最初から読んでいくと、このテキストの持っている〈指向性〉が、「ここで刺したのは語り手自身なのだな」という了解を読者に与えるようにできているからである。私もこの歌の真実性を疑わないが、現実の宮柊二が、この歌の敵兵を刺した兵士と同一人物であったかどうかは、わからないと思っている。むしろ私は、この歌を含む一連に、戦場の兵士としての意識の共同性に基づく創作意図を読み取りたいと考えている。端的に言うと、この歌を含む「北陲」の一連十五首が、一部に虚構性を含み持ったものであってもよいと思っている。

 〇誰が刺したのか

この時の敵兵刺殺が、作者自身の行為なのか、隊の仲間の行為なのか、行為者については分からないということは、すでに中山礼二が述べていたことだった。やや長くなるが、以下に中山礼二著『戦場の鶏 『山西省』作品鑑賞』(昭和五一年刊)の「昭和十七年」の章から、その評釈部分を引く。

  いたく静かに歌われている。実際に静かに事は行われたのだし、そのように静かに人間の生命が消えることに、この歌の伝える厳粛さがある。
 人を刺す瞬間を考えれば、そこに粒ほどの介在物があっても、生死がたちまち所を変える緊張関係は、死の恐怖を交えた本能的な興奮を伴なうだろう。(略)しかし、事柄自体は、ここに客観に近く叙述されたとおりに運んだのである。それに〈人を刺す〉と言っても、戦場で兵隊の身である。恐怖心を混えた興奮も、その極点においては、かえ って、兵隊を平素反復訓練したとおりに確実に行為させる。
その場合兵自身の計量選択の加わる余地は少ない。それは〈遂げた〉という感情を伴うはずで、〈人間と人間〉の間のこととしての感情がおこるのは危機が去ってからである。
  この歌は、そういう危機の中における行為を、むしろ正確に表現し得ていると思う。                                  (中山礼二)
中山がここで懸命に説いていることは、兵士として人が人を殺すことの意味である。兵隊となった人間が、「静かに」そのような非情な行動を為す、という表現の持つ真実性を徹底的に検証しようとしている。その透視するようなまなざしをもって『山西省』の作品を検討していると、自ずから見えてきたものがあったようなのだ。中山は、次のような一文を括弧にくくったかたちで、書き加えた。(この歌、必ずしも柊二が直接手を下して刺したととらなくてもよいが、それはどちらでも同じことである。)と。
 さらに中山は、この前後の叙述において、次のように書いていた。

  柊二の個が経験し摂取した戦闘を歌うというより、兵隊平均の眼で戦闘をとらえ歌おうとする意欲が際立って見える。つまり、柊二が兵隊一般の中に埋没する態度が強い。
そこで戦闘の、或いは戦場の、むしろ些事に属する一片をつかみとって、そこから全体を暗示的に浮かばせようとするよりも、戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする方法をとる。それは歌として必ずしも成功を期待できないやり方であるが、どうしてもこれは伝えておきたい、知って欲しいという戦闘の事実が、柊二にそういう方法をとらしめる。戦場の語部であることも歌人冥利であるとの気持が、柊二に動かなかったとは言えない。誰のために語るか。よく戦って死んだ友人のために、またいまも戦場に生きつづけている兵隊たちのためにであり、そしてまた明日は吾を見舞うかもしれぬ運命のためにも。
                    (中山礼二)

 宮柊二の戦場の歌のあるものが、想像力によって再構成されたうえで作られたということの可能性を、私は中山の右の文章から読み取れるのではないかと私は思う。繰り返すが、それは「ひきよせて」という作品の価値を何ら損なうものではない。戦場における一兵士としての意識の共同性に立って、「戦場の語部」として「個が経験し摂取した戦闘を歌うというより、兵隊平均の眼で戦闘をとらえ歌おうと」した時に、歌集『山西省』所収の歌に虚構の要素があったということを、認めるほかはないと思う。

 今度の奥村の書物は、宮柊二が所属していた中隊の隊長永久清の「陣中日記」のコピーに拠りながら、部隊の動きと戦闘の模様を確認しつつ作品を読もうとしている。これを見ると、「北陲」の一連の宮柊二の作品と実際の作戦行動の記録との間には、相当に符合するところがあることがわかる。そうして、部隊の行軍の記録に沿って宮柊二の歌を検証すれば、当然「戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする」連作の意図が、再度確認されるということにもなるのである。「北陲」の連作に限って言えば、これは戦地で入院療養中に回想して作った歌であり、なおさらそうした側面が強くなったことは否めない。言い換えるなら、資料と突き合わせて『山西省』の作品を読んでみても、作品の〈事実性〉が保証されるとは限らないのである。皮肉な言い方になるかもしれないが、そこでは、「戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする方法」(中山礼二)の意図を再確認することになるだけなのだ。むろんそれは大切な作業であり、検証によって渡辺直己の実戦参加前の作品のような、完璧な虚構との違いが際立って来てしまうということはある。しかし、繰り返すが、〈事実性〉そのものとしては、結局のところ、人を刺したのが本人であろうが、同じ部隊の戦友であろうが、「それはどちらでも同じこと」(中山礼二)になるわけなのだ。そうして、なぜそう言えるのかというと、それは宮柊二の従事した戦闘が、真に苛酷なものだったからである。今回の奥村の著書にありありと描き出されているのは、私が今ここに書いていることなど吹き飛ばしてしまうような、実際の戦争の厳しさであり、その中で生き残るということの凄みである。

 右の歌について奥村の本では、あまり詳しく触れられていない。それは、これが著名な一連で、すでにたくさん注解があるからだと思う。ちなみに中山は、その後刊行された増訂版『山西省の世界』(一九九八年)で更に一歩踏み込んで、「『三人迄を抑へて』『寄り添ふごとく刺』したのが、宮柊二御本人とは、私は思わない。指揮班の一人がそれを為すほど事態は混乱していない。」と書いている。

 話を元に戻すと、一般の読者はほとんど鹿野政直と同じように読むはずなのである。文学作品においては、作品・テキストの持つ〈指向性〉が第一に尊重されるべきであり、その意味で鹿野は間違っていない。ただし、心情の歴史の資料として考えるか、〈事実性〉についての資料として考えるかによって、問題の一首のとらえ方は異なるものとなるということだ。この点に最後までこだわっていたのが島田修二であった。これについては、ここでは触れない
*。
 *島田修二著『宮柊二』及び拙著『生まれては死んでゆけ』参照

 〇「声も立てなく」の句について

 私が右のようなことを考えるようになったのは、斎藤茂吉・土屋文明編集の岩波版『支那事変歌集』に次の歌を見つけたからである。

  銃弾のつらぬく音し暗闇に軍馬斃るるは声も立てなく 藤原哲夫

 こちらは昭和十五年十月刊で、宮作品の初出「日本文芸」は十七年の七月号である。問題の一首は、右の藤原作品に摂取して作られたものではないかと私は思う。それは暗夜の不意打ちという両者の場面が単に似通っているからだけではなく、右の歌の結句の「声もたてなく」という万葉調の語法が、「アララギ」由来のなかなか特殊なものだからである。周知のごとく、宮柊二には、卓抜した詩的言語の吸収力があった。白秋は、主に「~なくに」と言うので、「~なく」は数例しかない。斎藤茂吉の選歌集『朝の螢』には、『あらたま』から〈むらぎものゆらぎ怺へてあたたかき飯食みにけりものもいはなく〉という歌が選ばれている。「ものも」と「言はなく」を結んだ言い方は、「物を言う」という散文口調を文語的に変換した茂吉の創意であろう。

 〇渡辺直己の作品

 『戦争の歌』のはじめの方で、奥村は「渡辺直己ひとり、戦意高揚の、国策に沿うスローガン短歌を、制服短歌を、ただの一首も詠まなかった、という事実はもっと知られてよいだろう。」と書いている。筆者が渡辺直己を取り上げた意図は、それでよくわかる。
 しかし、奥村は、戦地に移動して間もない頃の渡辺作品の虚構について、米田利昭の論に拠りながら、歌人としての態度に問題があったと書いている。その内容は、映画『西部戦線異常なし』を見て作った戦争の歌を、あたかも実体験のごとく発表したのはまちがいだったというものである。
 奥村は、渡辺直己作品の虚構が、「結果的に読者を躓かせ、読者を騙したのであった。これはいけないことである。少なくとも、配慮が足りなかった。」と書く。師の土屋文明までが、実戦の歌と思い込んで渡辺のところに葉書を寄せた。また中野重治も『斎藤茂吉ノート』の中で、渡辺の虚構の歌をとりあげてしまったのである、と。問題の渡辺直己の歌を示す。

幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ
                   渡辺直己
  頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ

 私も右の作品に感銘を受けた覚えがある。これが〈実体験〉に基づいたものではなく、想像上のものであったとしても、これらの作品の価値は消えないと思う。また中野重治の論自体が、「無効になってしまった」とも思わない。奥村自身、「自己の体験をもとに作ろうと、他人の話をもとに作ろうと、できあがった作品の価値はそれに左右されるものではない。」と書いているのに、その一方で、読者を「騙した」とまで言うのは、少し言い過ぎではないか。表現の真実性の前では、実際に言葉どおりに刺したか刺さなかったかということ〈事実性〉は、どちらでもいいことだ。そういう認識をもし本当に持ち得たなら、奥村は渡辺についてこのようには書かなかったはずだ。奥村は宮作品には虚構はないと考えているから、このように渡辺の方をきびしく論評できるのではないだろうか。しかし、私はそうは思わないので、対照するために先に『山西省』の一部の作品の虚構性ということについて触れた。

 要するに渡辺直己には想像力と才能があった。凡庸な作者ではなかった。渡辺は、実戦に参加する前、戦地に行くとほぼ同時期に戦闘の歌を作ってしまった。そうして実際に血みどろの戦いも経験し、少なからぬ戦争の歌を残して、昭和十四年、駐屯地における石灰爆発の事故で爆死した。
 では、渡辺直己の虚構と、宮柊二の虚構的な作品との間にどれだけの差があるのか。虚構だったら、その歌の真実性は減少するのだろうか。宮柊二のようなぎりぎりの経験を経たうえでの虚構には、「うそ」の要素が少なく、渡辺の昭和十二年末からしばらくの頃の作品は、ドキュメントを装ったかたちになっていたために、「騙した」とまで言われなくてはならないのか。渡辺も宮も虚構性を含み持った作品を作っていた点では同じではないか、というのが私の意見である。そのことは、彼らの戦場経験と表現の真実性を損なうものではないと私は思っている。

 〇米田利昭の論について

 ここで奥村が依拠している米田の著書に触れると、その研究姿勢は、江藤淳によって戦時中の平野謙の処世が問題にされたことと同質の問題意識に貫かれており、一種のリアリズムの精神の発露したものである。米田は、渡辺直己のことを書いたがために、一部の人々、特に土屋文明の不興を買って、いろいろと難しいことになってしまったそうである。米田はこう述べた。

  渡辺の戦いの歌が実際の体験から生まれたものではないことは呉アララギの仲間にはうすうす分っていて、そこからニュースとして流れてはいた。が、一方それを渡辺の名誉のためにかくすという風潮もあった。事実にあらざれば尊からずという考えで、歌は事実ありのままをよめという土屋文明の教えを金科玉条としたところから来ており、文明自身がありのままを歌っていないこと、どだいありのままなどということが歌においてあり得ないこと、ありのままを写生せよとは大衆を歌にひきこむための方便にすぎぬことを理解できぬ人々の驚きであった。しかし自分の経験からでなくとも、渡辺があのようなイメージを作り出した
ことに十分の意味があると思う。
   米田利昭『渡辺直己の生涯と芸術』第五「動員」


 右のような考え方は、今日多くの歌人に受け入れられているのではないのだろうか。それとも奥村は、前衛短歌以前の狭隘なリアリズム観に再び戻ろうとしているのだろうか。米田が右の書において、中野重治の『斎藤茂吉ノート』から、写生と詩的構想力という二つの問題を取り出して、後者の「構想力」ということについて考えることの重要性を説いていたことを、私はここで思い出しておきたい。

〇歴史に対する複眼

 問題はわれわれが戦争の死者の声を聞く耳を持つことなのである。そうして短歌を読むことと歴史認識を結合することなのである。その意味で、私は奥村が今も戦争の歌を問題にしようとしていることに賛成であるし、今回の著書を後続世代にバトンを渡すための仕事としてみたい。奥村は書いている。

渡辺・宮にかぎらず、そのように平常心(良心・理性・人間性)を失わなかった兵や部隊は他にもたくさんあったはずだ。中国で戦った日本の軍隊はすべてが虐殺行為を行なったのだとする一部著作およびその作者の考え方には大いに疑問を感ずる。
  二つのケースをはっきりと分けて、天津・済南では起こらなかった、あるいは部隊によっては起こらなかった行為が、なぜ南京では起こってしまったのか。そこを考えていくことが大事なポイントなのである。 (奥村晃作)

奥村は、歴史に対する「複眼」を持つことの重要性を説いている。短歌を読みながら、論者は歴史や世界観の問題にわたって行かざるを得ない。それを常に心がけていないと、歌人は短歌だけのことに終始してしまいがちだ。奥村の行き方は正攻法と言ってよいものだ。ただその際に、短歌にあらわれているような微細な心情の表現を、どうやって歴史や事件と媒介させてゆくのかということについて、読みの問題を抜きにしては語れない。そこで私性の部分だけを軸に語ってしまうのは危険だろう、というのが急いで本稿を書くことにした理由である。





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