以下は、「美志」十八号(2016.5)に掲載したものである。
今回は、宮柊二の歌集『山西省』の昭和十七年の部分を見てみたいと思います。この歌集は、昭和十五年一月から昭和十八年十二月までの作品を中心として、戦後の昭和二四年四月に刊行されたものです。最初に次の歌を取り上げます。歌集『山西省』の昭和十七年の章の最後に掲載されているものです。
耳を切りしヴアン・ゴツホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず
この歌は、戦後間もない昭和二一年一二月刊の「多摩」に掲載されたもので、そちらを見ると、すぐあとにニューギニヤで自決した米川稔を思う歌が続いて出て来ます。それは「ニューギニヤに妻恋の歌なしけむは如何なる折ぞ亡き君よ哀し」というものです。だから、これは自分が戦地にいる時に米川稔から本を送ってもらったりした思い出と結びついている歌なのでしょう。昭和二一年の初出では、四句めが「個人と戦争をおもひて」となっています(『宮柊二集5』)。確かに「戦争と個人をおもひて」の方が、力が感じられます。
ここで右の歌の背後にあった宮柊二の個人的なドラマを紹介したいと思います。それを知ることによって、右の歌の「個人と戦争」という言葉の持っている意味が、明らかになって来るのではないかと思うからです。「宮柊二集」の別巻に「戦中書簡」が収められています。
その中から後の宮英子さん、当時は滝口英子さん宛の手紙を何通か読んでみたいと思います。四月七日付の手紙をみると、当時の滝口さんは、前年に師範学校を卒業して、新しく教職についていたことがわかります。この人は大正六年(一九一七年)生まれ。東京女高師(現お茶の水女子大)卒。昭和十二年「多摩」入会。そこで作者と知り合いました。宮柊二は、軍隊に召集される少し前まで北原白秋の秘書をしていて、昭和一〇年から毎日白秋の家に通っていました。
「4月7日の手紙より」 ※引用にあたり、旧仮名を新仮名にあらためた。
「(略)一生懸命で自分の周囲を見たいと思います。只今私の居りますここらは何度もお手許に書いても差上げたかと思いますが、荒涼な、地味やせ、物産少く、そしてかたよった地域で、支那という言葉によって統合される一つの国の歴史からも文学からも経済からも文化からも遠く切り離されて、そして参与もしなかった地域です。だからと言って迂(う)かつには見たくないと思うのです。矢張り土を愛し、家を守り、親をいとおしみ、日本人の想像を絶つにたる低い生活の中にあるとはいえ、その生活に拠る支那の民衆達が居り、そして私自身が国家の感情と個人の個(ママ)情につながりながら、只今居りますところです。自分の生き方の上に、――大衆から孤立した存在ではない大衆の中の一人である宮という人間の生き方の上に矢張り何かまずしくとも付け加えてゆきたいと思います。
どう考えたらいいのでしょうか。考える範囲を自分が兵隊であるという中にとどめたらいいか、あるいは御奉公の微力叶って生還を許され社会人となるであろう日までも加えていいか。ごく自然にあり得る戦死ということを考えますといつもそこにつまずきますけけれど。只今は兵隊も人間であり、そしてひとしく日本という国家の国民であるという考えで居ります。こうした考えは実は正直申上げるとたどりついたという感じです。お笑いになるでしょうが、私としてはたどりついたという感深いものがあります。もっともっと「兵隊」であるということと「出征しているのだ」ということを意味つよく、考えつめて見ようと思っています。たどりついた考え方の上に立って更に初めからあゆみ直して。(略)」
戦地から自分が愛する人にむけて、たぶん、ほとんどいつ遺書になってもいいようなつもりで、手紙を書いています。決死の戦いとなった〈中原作戦〉の直前の手紙です。むろん下級の兵士である宮柊二にこのあと日本軍の大きい作戦があるだろうなどということは、直前まで知らされません。でも、このあとの4月10日の手紙は、明確に作戦のことも知ったうえで、遺書のつもりで書かれています。
「4月10日の手紙より」
「いよいよに日が近く、兵隊というものの最後の美しく勇しくそして人間としても立派だったという自らの安心を追憶として持ちたいと希うこころを瞬間であるとは云え持たれるであろう日に向って出発つ日が近くなって居ります。何かしらにものさびしく又かすめるように悲しみがきざす時もありますがそれは過去が立派でなかったという自分への例えば罪を洗うようなさみしいこころでありましょうか。それでも只今の私は夜夜を熟睡してそして激しく外面に現わさないでは居られないというようの種類の喜びではありませんが、こころ知ってくれる人達へだけは必ず告げたいと思うほどの喜びをずっと涵(たた)えて居ります。」
宮柊二はこの戦争で立派に戦って死にたかったのだろうと思います。「喜び」をまで感ずるという、死に向かって澄み切った心境で、ここには嘘はないと思います。
戦地にあって、死に直面しながら、自分は何のためにここで戦っているのか、ということは、当時徴兵された日本人が等しく考えたところだろうと思います。先に引いた歌とかかわらせて言うなら、「耳を切りしヴアン・ゴツホを思ひ孤独を思ひ」という、芸術家としての絶対的な追究の果ての孤独というものが、彼方の理想として一方にある。芸術の高み、芸術のための崇高なまでの自己犠牲的な生き方。それに比して、今ここで日本国家の意志のもとに兵隊として、死に向かって運命づけられている自分にも、孤独なもの思いというものはある。死の意味というものは、いずれにせよ一人で考えなくてはならないものです。同じ孤独にしても、その境遇は、彼我の間でかけ離れたものだと言えます。
この歌は、宮柊二の代表歌の一つで、島田修二の『宮柊二の歌』にも取り上げられています。一読して、よく意味はわからないのだけれども、何か強烈に印象づけられるものがあります。それは現代のわれわれが読むと、国家というものの持つ理不尽さへの全身からの抗議の気持ちのようなものとして感受されます。そういうところに自分が追い込まれていることへの叫びのような思いとして感じ取れます。でも、そういう一種の抵抗のニュアンスを感じ取って読むことは、もしかしたら誤読なのではないかという気が、私はします。この歌は、右の手紙の言葉にあるような、理不尽な現実を理不尽なまま受容して、国家のために個人である宮柊二が死ぬことを受け入れる覚悟、そのための眠れない思考の堂々巡りを歌にしていると読むべきです。己の絶望的な状況を、あるがままに観照するという精神的な姿勢。でも、その死を決して無駄だとは思っていない作者がいます。戦争と国家の目的自体を疑っているわけではありません。さらには国家そのものを否定する思想に立脚して、この歌を歌ったわけではありません。そうだったら右に引いたような手紙の言葉は書けません。
ただ、読者である私たち、戦後の読者は、否定すべきものとしての戦前の軍事国家、帝国主義国家というものの真相が明らかになったあとでこれを読んでいます。この作品が手帳に書きつけられた時と、発表された時、さらにその後の時代との間には、大きな社会情勢の変化がありました。作者はそこに気がついていなかっでしょうか。むろん気がついていたと思います。だから、やはりこの歌集は、戦後の歌集なのです。昭和二一年一二月刊「多摩」掲載、昭和二四年四月刊行の『山西省』に編集して発表。製作当時は、そのまま発表することにはばかりがありました。「個人」という言葉は、自由主義的なニュアンスの強い言葉で、そういう誤解を受ける可能性が大きかったわけです。それで戦後になって発表されたということがあるでしょう。でも、それだけではなくて、歌集にまとめられる際には、時代の状況の変化によって、結果的にこの後作者が生きていく上での意思表明に近い意味も付与されることになった、ということではないでしょうか。この歌が昭和十七年の戦闘の歌の章の末尾に置かれた意味は、そういうことだろうと思います。
歌集『山西省』の昭和十七年の章には、昭和十六年の五月から六月にかけて行われた〈中原作戦〉に参加した折の経験を詠んだ一連が含まれています。〈中原作戦〉は、華北平原の向こうに広がる広大な黄土地帯で戦われたもので、大行山脈南部に拠点を置いている国民党軍を包囲して、その真ん中に一気に日本軍の部隊を投入して、内側と外側から攻撃をかけて敵軍を殲滅することをねらった作戦で、結果は日本軍の大勝利となったものです。でも、国民党軍が出て行ったあとにゲリラ戦を行う共産党軍が入って来て、長い目で見た時には、あまり得策ではなかったと言われています。
この〈中原作戦〉に従軍した折の経験をもとにして、「北陲」という著名な一連が作られました。この一連には、詞書が付いています。「部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つなと命にあり。」この一連の中に、宮柊二の歌としては、あまりにも有名になってしまった、敵兵を刺殺する歌が出て来ます。
身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪(たに)下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ
磧(かはら)より夜をまぎれ来(こ)し敵兵の三人(みたり)までを抑へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺(さ)ししかば声も立てなくくづをれて伏す
この歌は歴史家の鹿野政直をはじめとして(『兵士であること 動員と従軍の精神史』朝日新聞社)、近年の歴史関係の本にも繰り返し引かれるようになっていて(笠原十九司『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』岩波書店など)、あたかもこれが史実であるかのような扱いを受けています。中にはあまりにも疑いなしの素朴な引用(太田治子『石の花―林芙美子の真実』など )も見受けられるので、私はその点について危惧しています。この歌が事実であるか、フィクションであるか、ということについては、同じ中国の戦線に行っていた中山礼治が、指揮班の兵隊が直接敵を刺さなければならないほど現場は混乱して居なかったはずだ、だからそれはあり得ないことだろうと書いています(『山西省の世界』)。あとは、弟子の島田修二がずっと疑義を呈して来ていたという経緯があります。
これとは逆の意見として、「短歌研究」二〇一二年八月号で篠弘が、梯久美子との対談の中で、宮柊二のお弟子さんたちは、自分の先生が人を殺したということは認めたくないんだ、というように意見を述べています。島田修二の見解については、私も同様な印象を持っていますが、中山礼二の著書については、どう考えたらいいのでしょうか。宮柊二が、戦争中を通じて人を殺したか、殺さなかったか、それは私にもわかりません。しかし、問題の右の一連の作品を根拠として、作者は敵を刺したのだと言うことはできないと、私は思います。
私はこの歌に関しては、以前「短歌往来」掲載の評論に書いたことがありますが、三人の敵兵を銃剣で殺したのは、その時いっしょにいた軍の兵隊たちだと思います。一人の兵士が一晩のうちに三人の敵を暗闇にまぎれて次々と刺すなどということは、ハリウッド映画でもなければとうていあり得ない状況だと考えるからです。
問題は、三人のうちの一人を刺したのがやっぱり作者ではないだろうか、ということです。しかし、これについて私は別の見解を用意しています。先行の『支那事変歌集』に、この歌と非常によく似たシチュエーションの歌があり、その歌では人間でなくて軍馬が「声も立てなく」倒れるのです。この高名な一首は、その歌の表現を摂取して作られたものではないか、というのが私の意見です。両方をよく見比べてみてください。
銃弾のつらぬく音し暗闇(くらやみ)に軍馬斃るるは聲もたてなく 中支 藤原哲夫
『アララギ年刊歌集別篇 支那事変歌集』(昭和十五年十月刊)
この件は以前書いたのでここまでにします。この問題の一連の作品は、昭和十七年の五月二日付の滝口英子への書簡に書きつけられています。その日付から、前年の十二月末から翌年の五月二一日まで一時入院加療していた期間に戦闘の経験を思い起こして創作されたものだということがわかります。だから、この一連は、いっしょにいた仲間たちの勇戦をたたえるために完全に事後に書かれたものなのです。その場にいた、という意味での戦場における兵士としての共同意識・戦友意識に立脚して、いかに困難な戦いを自分たちは戦ったか、ということを、当時の言い方で言えば、銃後の読者に向かって訴えたという性格のものです。そういう意味では、まさしく作者も一緒に「刺した」のであろうし、戦友とともに「殺した」のでもあるわけです。そうしなければ自分たちが死ぬからです。そのリアリティ(真実性)は揺るぎのないものがあります。そうしてこの一連は、柳田新太郎編『大東亜戰争歌集 将兵篇』(天理時報社刊)に発表されました。それは、この歌を作った時の作者の意図・意思に適うものであったと私は思います。
「宮柊二集5」を見ると、初出が昭和十七年七月「日本文芸」となっています。右の一連は、「日本文芸」に最初に発表されたものということになります。そうしてこの一連は、『大東亜戦争歌集 将兵篇』(昭和十八年二月刊)の中に、昭和十七年中の他の作家の作品といっしょに収録されているのですが、この事について作品の初出を丁寧に収録している『宮柊二集5 短歌初出』に特に言及はなく、また別巻の相当に詳細な著作年表からもこの記録は抜け落ちています。二次的な利用だから初出ではない、と言われればそれまでですが、『山西省』の作品の初出との異同については、小高賢の『宮柊二とその時代』に丁寧な論考がありますが、小高はなぜかこの合同歌集については参照していません。しかし、同時代の多くの読者は、この本によって宮柊二の作品をはじめて知っただろうと思います。
私はこう考えます。いかにも戦争協力的な色彩の濃いアンソロジーへの参加ですから、これは編者が意識的に排除したのです。明確な戦争協力の印象を与える情報をひとつ消してしまったわけです。そこに「戦後」という時代のひとつの性格が刻印されていると私は思います。見落としは考えられません。こういう微妙な情報操作が、これだけ資料のそろった著作集のある宮柊二の場合でもあるのだということに、私は驚きを覚えます。それは、「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば」という歌を、事実かどうかも判明ではないままに作者の実体験として神話化してしまった歴史意識と裏表の関係にあります。反戦、または厭戦の気持におもねるような、見えない記憶の改変の操作、そこに戦後の公的な思想が持つ人間的な弱さと虚偽が、端的にあらわれている例の一つであると私は思います。ただし私は全集にかかわった人たち、特に宮英子の意思をここで難じているわけではありません。アンソロジーにあるものは載せないという編集方針だったかもしれませんし、あるいは本当に失念したのかもしれません。しかし、単独の著書がある小高賢すら触れない、それほどに『大東亜戦争歌集 将兵篇』は研究されていないということを、この一事が証明していると思います。以下に『大東亜戦争歌集 将兵篇』の一連をすべて示します。
※このほかにも宮柊二の歌を収録している合同の聖戦歌集は存在するが、収録歌数はこの本ほど多くない。
『大東亜戦争歌集 将兵篇』(天理時報社刊 別に同『愛国篇』昭和十八年二月刊も存在する)は、昭和十八年二月刊行で、その作品募集と編集の時間は、ちょうど昭和十七年の宮柊二作品が発表された時期に重なっている。一連の下に『宮柊二集5』短歌初出の誌名を示した。一部の旧活字は、新活字に改めた。資料なので誤植はそのままにしてある。
机一つの距離ある壁に貼られある戰歿者氏名の分(わ)き難(がた)き夕べ
昭和十七年一月「多磨」
晝ながら灯(とも)せる蠟に降りしきり春荒るるなる黄塵暗し
必ずは死なむこころを誌(しる)したる手紙書き了へぬ亢奮(たかぶり)もなし
彌生三日に未だ日のあり雪おける山西の地に届きしひひな
戰ひゆ生きて歸れりあな羞(やさ)し言葉少なにわれは居りつつ
静かなる悲しみ盈ちぬ石庭(いしには)に冷(ひ)やき五月の光射しつつ
亡骸(なきがら)に火がまはらずて噎せたりと互に語る思ひ出でてあはれ
晉察冀邊區。八月二日出動、十月十五日に至る。
滹沱(こ×じ)河(がは)の水の響の空を打ち秋は來にけり大き石(いは)の影
一萬尺の山の頂に堀りなして掩蔽壕と防空壕とがあり
ふとして息深く衝くあはれさを繰返すかな重傷兵君が
左(ひだり)前頸部左顳顬部(ひだりせつじゅぶ)穿(せん)透性(とうせい)貫通銃創と既に意識なき君がこと誌す
石多き畑匍ひをれば身に添ひて跳弾の音しきりにすがふ
省境を幾たび越ゆる棉の實の白さをあはれつくづく法師鳴けり
山西省五臺縣砲泉廠の高地に戰ひて激しかりき雨中(うちう)に三日(みつか)
夏(なつ)衣(い)袴(こ)も靴も帽子も形なし簓(ささら)となりて阜平へ迫る
稲靑き水田見ゆとふささやきが潮(うしほ)となりて後尾(こうび)へ傳ふ
母よりの便り貰ふと兵隊がいたく優しき眼差(まなざ)しを見す
目の下の磧右岸に林あり或る時は雨降り或る時は沒陽射す
胡麻畑を踏みゆく若き戰(と)友(も)が云ふあはれ白胡麻は内地にて高しと
敵襲のあらぬ夜はなし斥けつつ五日に及べ月繊(ほそ)くなりぬ
手榴弾戰を演じし夜(よる)の朝(あした)にて青葦叢(むら)に向ひ佇(た)ちゐつ
護送途次ややによろしと傳へきて死亡を伝ふ二時間の後(のち)
女(め)童(わらは)を幸枝と言ふと羞(やさ)しみて告げけり若き父親にして
岩の面(も)に秋そよぐなる草の影おもほえば遠く来てぞ戰ふ
落ち方の素(す)赤(あか)き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者殘さじ
棗の葉しみみに照れば雨過ぎて驢馬と庭鳥と一所(ひとつど)に遊ぶ
柿の葉のここだく騒ぐ雨もよひ機関銃小隊は眠りをるらし
十二月二十六日入院
虔(つつし)みて吾等あれこそみんなみにいくさ戰ふときを病みつつ
昭和十七年三月「多磨」
病床(やみどこ)に臥(ふ)しつつ読むにあな羨(とも)しマニラへ迫る皇軍(みいくさ)のさま
再びをいくさにたたむ希(ねが)ひをばこもごも語る夜々集(よよつど)ひては
牀上小歌
もの悲しく小鼓(せうこ)と鉦を打つきこゆ病院よりいづれの方角ならむ
昭和十七年四月「短歌研究」
あかつきの検温了へて又寝(い)につくならはしを定めて日々過(すご)すかな
山西省の土にならむといふ言葉たひらぎのこころに繰返しをり
右頰を貫きし弾丸(たま)鋭くて口よりいでて行方(ゆくへ)わかずとふ
宵よりぞ二重の窻をしむるゆゑさむききさらぎの月も仰がず
みんなみの空に陸地(くがち)に猛(たけ)靡く炎なしつつたたかふ戰友(とも)よ
貫かむ国の雄ごころ一つにてジョホールバハルに突き入りし兵よ
中原會戰
死(しに)すればやすき生命と戰友は云ふわれもしかおもふ兵は安しも
昭和十七年四月「多磨」
敵中に楔を入れて三日二夜戰ひ疾(はし)りて朱家庄に迫る
泥濘に小休止する一隊がすでに生きものの感じにあらず
この一線抜き取れとこそ命下る第一線中隊第二中隊永久隊
麥の秀(ほ)を射ち薙ぎて弾丸(たま)の来るがゆゑ汗ながしつつ我等匐ひゆく
麥の秀の照りかがやかしおもむろに息衝きて腹に笑(ゑま)ひこみあぐ
次々に銃さし上げて敵前を渡河するが見ゆ生も死もなし
死角より走り入りつつ河渉る一隊に集る敵の弾丸(たま)はや
強行渡河成功したる一隊が赤崕に沿ひつつ右に移動す
中條山脈
登攀路が落下しつづくる砲弾に幾分ならずして跡形もなし 昭和十七年五月「多磨」
あなやといふ間さへなし兵を斃し掃射音が鋭く右に過ぎたり
啼きゐたる仏法僧が聲やめて山鳩が啼くしづけきかな
銃剣が月のひかりに照らるるを土に伏しつつ兵叱るこゑ
信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵 昭和十七年六月「多磨」
あけがたのひかりは風をおくり来て敵の喇叭の音をし傳ふ
チヤルメラに似たりとおもふ支那軍の悲しき喇叭の音起りつつ
数知れぬ弾丸(たま)をし裹(つつ)む空間が火を呼ぶごとくひきしまり来つ
汗あへてわれら瞻りをり向ひ峯トーチカに迫る友軍あるを
三萬の敵追ひつめぬ直接に七千は山に我と対峙す
伝令のわれ追ひかくる戰友(とも)のこゑ熱田(にぎた)も神(じん)もこときれしとふ
今日一日(ひとひ)暇(いとま)賜ひて麥畑に戰友(とも)らの屍(かばね)焼くと土掘る
昭和十七年七月「多磨」
限りなき悲しみといふも戰ひに起き伏し経れば次第にうすし
はつはつに棘(とげ)の木萌(めぐ)むうるはしさかかるなごみを驚き瞠(みは)る
とらへたる牛喰ひつきてひもじさよ笑ひを言ひて慰むとすも
北陲。部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つな、と命にあり。 昭和十七年七月「日本文芸」
うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か
馬家圪朶(ばか×きだ)鞍部(あんぶ)に狂ひうばたまの峪に堕ちゆきし馬五六頭
身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ
磧より夜(よ)をまぎれ来る敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
息つめて闇に伏すとき雨あとの峪踏む敵の跫音(あおと)を傳ふ
闇の中に火を吹きやまぬ敵壘を衝くべしと決まり手を握りあふ
一角の壘奪(と)りしとき夜放(よるはな)れ薬莢と血汐と朝かげのなか
俯伏して塹に果てしは衣(い)に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵
銃剣が陽に光るのみ朝かげの中なる友軍白兵を望む
一齊に進入せり弾雨下を後続衛生輜重通信部隊
戰死馬の髪(かみ)を秘めつつ戰ひに面變(おもがは)りせる若き汝(なれ)はや
陣中日誌に不便すべしと失ひし時計を捜す屍体の間(あひだ)に
秋
いさましくかへり見ざりし亡骸(なきがら)を秋草花にまもりし二夜(ふたよ)
山くだるこころさびしさ肩寒く互(かたみ)に二丁の銃かつぐなり
見返れば風に揺れつつ吾木香(われもこう)ある莖は折れて空を刺したり
戰死者をいたむ心理を議論して涙ながせし君も死にたり
この頃。一室の療友十人なり。
鉢薔薇に夕べの青き光差し癒えねばならぬ體ぞわれは
夕ぐれの光抑へて降る沙に懸聲ひびく體操すらし
戰ひを語るもせなく白き衣(い)に病(やみ)いたはりて睦ぶはさびし
かがなべて寂しさ深し戰ひにおのれらあるを劬りあひて
右の一連の初出の「多磨」「短歌研究」「日本文芸」などの歌数は、計一二四首である。それに対して合同歌集掲載歌は八二首。全体が勇壮な兵の歌で占められているとは言いながら、「死すればやすき生命と戰友は云ふわれもしかおもふ兵は安しも」というような厭戦的ともとられかねない歌が、よく発表できたものだと私は思う。見ての通り、歌集『山西省』の中の重要な作品は、ほぼここに出ている。こうして書き写しながら、私はしーんとした厳粛な気持ちに満たされた。『山西省』の一首をめぐる問題は、「事実」と作品の真実性、「歴史」的認識と作品の真実性の問題とが微妙に絡み合いながら、戦争の記憶の継承をめぐる問題を提起し続けているのである。
今回は、宮柊二の歌集『山西省』の昭和十七年の部分を見てみたいと思います。この歌集は、昭和十五年一月から昭和十八年十二月までの作品を中心として、戦後の昭和二四年四月に刊行されたものです。最初に次の歌を取り上げます。歌集『山西省』の昭和十七年の章の最後に掲載されているものです。
耳を切りしヴアン・ゴツホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず
この歌は、戦後間もない昭和二一年一二月刊の「多摩」に掲載されたもので、そちらを見ると、すぐあとにニューギニヤで自決した米川稔を思う歌が続いて出て来ます。それは「ニューギニヤに妻恋の歌なしけむは如何なる折ぞ亡き君よ哀し」というものです。だから、これは自分が戦地にいる時に米川稔から本を送ってもらったりした思い出と結びついている歌なのでしょう。昭和二一年の初出では、四句めが「個人と戦争をおもひて」となっています(『宮柊二集5』)。確かに「戦争と個人をおもひて」の方が、力が感じられます。
ここで右の歌の背後にあった宮柊二の個人的なドラマを紹介したいと思います。それを知ることによって、右の歌の「個人と戦争」という言葉の持っている意味が、明らかになって来るのではないかと思うからです。「宮柊二集」の別巻に「戦中書簡」が収められています。
その中から後の宮英子さん、当時は滝口英子さん宛の手紙を何通か読んでみたいと思います。四月七日付の手紙をみると、当時の滝口さんは、前年に師範学校を卒業して、新しく教職についていたことがわかります。この人は大正六年(一九一七年)生まれ。東京女高師(現お茶の水女子大)卒。昭和十二年「多摩」入会。そこで作者と知り合いました。宮柊二は、軍隊に召集される少し前まで北原白秋の秘書をしていて、昭和一〇年から毎日白秋の家に通っていました。
「4月7日の手紙より」 ※引用にあたり、旧仮名を新仮名にあらためた。
「(略)一生懸命で自分の周囲を見たいと思います。只今私の居りますここらは何度もお手許に書いても差上げたかと思いますが、荒涼な、地味やせ、物産少く、そしてかたよった地域で、支那という言葉によって統合される一つの国の歴史からも文学からも経済からも文化からも遠く切り離されて、そして参与もしなかった地域です。だからと言って迂(う)かつには見たくないと思うのです。矢張り土を愛し、家を守り、親をいとおしみ、日本人の想像を絶つにたる低い生活の中にあるとはいえ、その生活に拠る支那の民衆達が居り、そして私自身が国家の感情と個人の個(ママ)情につながりながら、只今居りますところです。自分の生き方の上に、――大衆から孤立した存在ではない大衆の中の一人である宮という人間の生き方の上に矢張り何かまずしくとも付け加えてゆきたいと思います。
どう考えたらいいのでしょうか。考える範囲を自分が兵隊であるという中にとどめたらいいか、あるいは御奉公の微力叶って生還を許され社会人となるであろう日までも加えていいか。ごく自然にあり得る戦死ということを考えますといつもそこにつまずきますけけれど。只今は兵隊も人間であり、そしてひとしく日本という国家の国民であるという考えで居ります。こうした考えは実は正直申上げるとたどりついたという感じです。お笑いになるでしょうが、私としてはたどりついたという感深いものがあります。もっともっと「兵隊」であるということと「出征しているのだ」ということを意味つよく、考えつめて見ようと思っています。たどりついた考え方の上に立って更に初めからあゆみ直して。(略)」
戦地から自分が愛する人にむけて、たぶん、ほとんどいつ遺書になってもいいようなつもりで、手紙を書いています。決死の戦いとなった〈中原作戦〉の直前の手紙です。むろん下級の兵士である宮柊二にこのあと日本軍の大きい作戦があるだろうなどということは、直前まで知らされません。でも、このあとの4月10日の手紙は、明確に作戦のことも知ったうえで、遺書のつもりで書かれています。
「4月10日の手紙より」
「いよいよに日が近く、兵隊というものの最後の美しく勇しくそして人間としても立派だったという自らの安心を追憶として持ちたいと希うこころを瞬間であるとは云え持たれるであろう日に向って出発つ日が近くなって居ります。何かしらにものさびしく又かすめるように悲しみがきざす時もありますがそれは過去が立派でなかったという自分への例えば罪を洗うようなさみしいこころでありましょうか。それでも只今の私は夜夜を熟睡してそして激しく外面に現わさないでは居られないというようの種類の喜びではありませんが、こころ知ってくれる人達へだけは必ず告げたいと思うほどの喜びをずっと涵(たた)えて居ります。」
宮柊二はこの戦争で立派に戦って死にたかったのだろうと思います。「喜び」をまで感ずるという、死に向かって澄み切った心境で、ここには嘘はないと思います。
戦地にあって、死に直面しながら、自分は何のためにここで戦っているのか、ということは、当時徴兵された日本人が等しく考えたところだろうと思います。先に引いた歌とかかわらせて言うなら、「耳を切りしヴアン・ゴツホを思ひ孤独を思ひ」という、芸術家としての絶対的な追究の果ての孤独というものが、彼方の理想として一方にある。芸術の高み、芸術のための崇高なまでの自己犠牲的な生き方。それに比して、今ここで日本国家の意志のもとに兵隊として、死に向かって運命づけられている自分にも、孤独なもの思いというものはある。死の意味というものは、いずれにせよ一人で考えなくてはならないものです。同じ孤独にしても、その境遇は、彼我の間でかけ離れたものだと言えます。
この歌は、宮柊二の代表歌の一つで、島田修二の『宮柊二の歌』にも取り上げられています。一読して、よく意味はわからないのだけれども、何か強烈に印象づけられるものがあります。それは現代のわれわれが読むと、国家というものの持つ理不尽さへの全身からの抗議の気持ちのようなものとして感受されます。そういうところに自分が追い込まれていることへの叫びのような思いとして感じ取れます。でも、そういう一種の抵抗のニュアンスを感じ取って読むことは、もしかしたら誤読なのではないかという気が、私はします。この歌は、右の手紙の言葉にあるような、理不尽な現実を理不尽なまま受容して、国家のために個人である宮柊二が死ぬことを受け入れる覚悟、そのための眠れない思考の堂々巡りを歌にしていると読むべきです。己の絶望的な状況を、あるがままに観照するという精神的な姿勢。でも、その死を決して無駄だとは思っていない作者がいます。戦争と国家の目的自体を疑っているわけではありません。さらには国家そのものを否定する思想に立脚して、この歌を歌ったわけではありません。そうだったら右に引いたような手紙の言葉は書けません。
ただ、読者である私たち、戦後の読者は、否定すべきものとしての戦前の軍事国家、帝国主義国家というものの真相が明らかになったあとでこれを読んでいます。この作品が手帳に書きつけられた時と、発表された時、さらにその後の時代との間には、大きな社会情勢の変化がありました。作者はそこに気がついていなかっでしょうか。むろん気がついていたと思います。だから、やはりこの歌集は、戦後の歌集なのです。昭和二一年一二月刊「多摩」掲載、昭和二四年四月刊行の『山西省』に編集して発表。製作当時は、そのまま発表することにはばかりがありました。「個人」という言葉は、自由主義的なニュアンスの強い言葉で、そういう誤解を受ける可能性が大きかったわけです。それで戦後になって発表されたということがあるでしょう。でも、それだけではなくて、歌集にまとめられる際には、時代の状況の変化によって、結果的にこの後作者が生きていく上での意思表明に近い意味も付与されることになった、ということではないでしょうか。この歌が昭和十七年の戦闘の歌の章の末尾に置かれた意味は、そういうことだろうと思います。
歌集『山西省』の昭和十七年の章には、昭和十六年の五月から六月にかけて行われた〈中原作戦〉に参加した折の経験を詠んだ一連が含まれています。〈中原作戦〉は、華北平原の向こうに広がる広大な黄土地帯で戦われたもので、大行山脈南部に拠点を置いている国民党軍を包囲して、その真ん中に一気に日本軍の部隊を投入して、内側と外側から攻撃をかけて敵軍を殲滅することをねらった作戦で、結果は日本軍の大勝利となったものです。でも、国民党軍が出て行ったあとにゲリラ戦を行う共産党軍が入って来て、長い目で見た時には、あまり得策ではなかったと言われています。
この〈中原作戦〉に従軍した折の経験をもとにして、「北陲」という著名な一連が作られました。この一連には、詞書が付いています。「部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つなと命にあり。」この一連の中に、宮柊二の歌としては、あまりにも有名になってしまった、敵兵を刺殺する歌が出て来ます。
身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪(たに)下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ
磧(かはら)より夜をまぎれ来(こ)し敵兵の三人(みたり)までを抑へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺(さ)ししかば声も立てなくくづをれて伏す
この歌は歴史家の鹿野政直をはじめとして(『兵士であること 動員と従軍の精神史』朝日新聞社)、近年の歴史関係の本にも繰り返し引かれるようになっていて(笠原十九司『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』岩波書店など)、あたかもこれが史実であるかのような扱いを受けています。中にはあまりにも疑いなしの素朴な引用(太田治子『石の花―林芙美子の真実』など )も見受けられるので、私はその点について危惧しています。この歌が事実であるか、フィクションであるか、ということについては、同じ中国の戦線に行っていた中山礼治が、指揮班の兵隊が直接敵を刺さなければならないほど現場は混乱して居なかったはずだ、だからそれはあり得ないことだろうと書いています(『山西省の世界』)。あとは、弟子の島田修二がずっと疑義を呈して来ていたという経緯があります。
これとは逆の意見として、「短歌研究」二〇一二年八月号で篠弘が、梯久美子との対談の中で、宮柊二のお弟子さんたちは、自分の先生が人を殺したということは認めたくないんだ、というように意見を述べています。島田修二の見解については、私も同様な印象を持っていますが、中山礼二の著書については、どう考えたらいいのでしょうか。宮柊二が、戦争中を通じて人を殺したか、殺さなかったか、それは私にもわかりません。しかし、問題の右の一連の作品を根拠として、作者は敵を刺したのだと言うことはできないと、私は思います。
私はこの歌に関しては、以前「短歌往来」掲載の評論に書いたことがありますが、三人の敵兵を銃剣で殺したのは、その時いっしょにいた軍の兵隊たちだと思います。一人の兵士が一晩のうちに三人の敵を暗闇にまぎれて次々と刺すなどということは、ハリウッド映画でもなければとうていあり得ない状況だと考えるからです。
問題は、三人のうちの一人を刺したのがやっぱり作者ではないだろうか、ということです。しかし、これについて私は別の見解を用意しています。先行の『支那事変歌集』に、この歌と非常によく似たシチュエーションの歌があり、その歌では人間でなくて軍馬が「声も立てなく」倒れるのです。この高名な一首は、その歌の表現を摂取して作られたものではないか、というのが私の意見です。両方をよく見比べてみてください。
銃弾のつらぬく音し暗闇(くらやみ)に軍馬斃るるは聲もたてなく 中支 藤原哲夫
『アララギ年刊歌集別篇 支那事変歌集』(昭和十五年十月刊)
この件は以前書いたのでここまでにします。この問題の一連の作品は、昭和十七年の五月二日付の滝口英子への書簡に書きつけられています。その日付から、前年の十二月末から翌年の五月二一日まで一時入院加療していた期間に戦闘の経験を思い起こして創作されたものだということがわかります。だから、この一連は、いっしょにいた仲間たちの勇戦をたたえるために完全に事後に書かれたものなのです。その場にいた、という意味での戦場における兵士としての共同意識・戦友意識に立脚して、いかに困難な戦いを自分たちは戦ったか、ということを、当時の言い方で言えば、銃後の読者に向かって訴えたという性格のものです。そういう意味では、まさしく作者も一緒に「刺した」のであろうし、戦友とともに「殺した」のでもあるわけです。そうしなければ自分たちが死ぬからです。そのリアリティ(真実性)は揺るぎのないものがあります。そうしてこの一連は、柳田新太郎編『大東亜戰争歌集 将兵篇』(天理時報社刊)に発表されました。それは、この歌を作った時の作者の意図・意思に適うものであったと私は思います。
「宮柊二集5」を見ると、初出が昭和十七年七月「日本文芸」となっています。右の一連は、「日本文芸」に最初に発表されたものということになります。そうしてこの一連は、『大東亜戦争歌集 将兵篇』(昭和十八年二月刊)の中に、昭和十七年中の他の作家の作品といっしょに収録されているのですが、この事について作品の初出を丁寧に収録している『宮柊二集5 短歌初出』に特に言及はなく、また別巻の相当に詳細な著作年表からもこの記録は抜け落ちています。二次的な利用だから初出ではない、と言われればそれまでですが、『山西省』の作品の初出との異同については、小高賢の『宮柊二とその時代』に丁寧な論考がありますが、小高はなぜかこの合同歌集については参照していません。しかし、同時代の多くの読者は、この本によって宮柊二の作品をはじめて知っただろうと思います。
私はこう考えます。いかにも戦争協力的な色彩の濃いアンソロジーへの参加ですから、これは編者が意識的に排除したのです。明確な戦争協力の印象を与える情報をひとつ消してしまったわけです。そこに「戦後」という時代のひとつの性格が刻印されていると私は思います。見落としは考えられません。こういう微妙な情報操作が、これだけ資料のそろった著作集のある宮柊二の場合でもあるのだということに、私は驚きを覚えます。それは、「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば」という歌を、事実かどうかも判明ではないままに作者の実体験として神話化してしまった歴史意識と裏表の関係にあります。反戦、または厭戦の気持におもねるような、見えない記憶の改変の操作、そこに戦後の公的な思想が持つ人間的な弱さと虚偽が、端的にあらわれている例の一つであると私は思います。ただし私は全集にかかわった人たち、特に宮英子の意思をここで難じているわけではありません。アンソロジーにあるものは載せないという編集方針だったかもしれませんし、あるいは本当に失念したのかもしれません。しかし、単独の著書がある小高賢すら触れない、それほどに『大東亜戦争歌集 将兵篇』は研究されていないということを、この一事が証明していると思います。以下に『大東亜戦争歌集 将兵篇』の一連をすべて示します。
※このほかにも宮柊二の歌を収録している合同の聖戦歌集は存在するが、収録歌数はこの本ほど多くない。
『大東亜戦争歌集 将兵篇』(天理時報社刊 別に同『愛国篇』昭和十八年二月刊も存在する)は、昭和十八年二月刊行で、その作品募集と編集の時間は、ちょうど昭和十七年の宮柊二作品が発表された時期に重なっている。一連の下に『宮柊二集5』短歌初出の誌名を示した。一部の旧活字は、新活字に改めた。資料なので誤植はそのままにしてある。
机一つの距離ある壁に貼られある戰歿者氏名の分(わ)き難(がた)き夕べ
昭和十七年一月「多磨」
晝ながら灯(とも)せる蠟に降りしきり春荒るるなる黄塵暗し
必ずは死なむこころを誌(しる)したる手紙書き了へぬ亢奮(たかぶり)もなし
彌生三日に未だ日のあり雪おける山西の地に届きしひひな
戰ひゆ生きて歸れりあな羞(やさ)し言葉少なにわれは居りつつ
静かなる悲しみ盈ちぬ石庭(いしには)に冷(ひ)やき五月の光射しつつ
亡骸(なきがら)に火がまはらずて噎せたりと互に語る思ひ出でてあはれ
晉察冀邊區。八月二日出動、十月十五日に至る。
滹沱(こ×じ)河(がは)の水の響の空を打ち秋は來にけり大き石(いは)の影
一萬尺の山の頂に堀りなして掩蔽壕と防空壕とがあり
ふとして息深く衝くあはれさを繰返すかな重傷兵君が
左(ひだり)前頸部左顳顬部(ひだりせつじゅぶ)穿(せん)透性(とうせい)貫通銃創と既に意識なき君がこと誌す
石多き畑匍ひをれば身に添ひて跳弾の音しきりにすがふ
省境を幾たび越ゆる棉の實の白さをあはれつくづく法師鳴けり
山西省五臺縣砲泉廠の高地に戰ひて激しかりき雨中(うちう)に三日(みつか)
夏(なつ)衣(い)袴(こ)も靴も帽子も形なし簓(ささら)となりて阜平へ迫る
稲靑き水田見ゆとふささやきが潮(うしほ)となりて後尾(こうび)へ傳ふ
母よりの便り貰ふと兵隊がいたく優しき眼差(まなざ)しを見す
目の下の磧右岸に林あり或る時は雨降り或る時は沒陽射す
胡麻畑を踏みゆく若き戰(と)友(も)が云ふあはれ白胡麻は内地にて高しと
敵襲のあらぬ夜はなし斥けつつ五日に及べ月繊(ほそ)くなりぬ
手榴弾戰を演じし夜(よる)の朝(あした)にて青葦叢(むら)に向ひ佇(た)ちゐつ
護送途次ややによろしと傳へきて死亡を伝ふ二時間の後(のち)
女(め)童(わらは)を幸枝と言ふと羞(やさ)しみて告げけり若き父親にして
岩の面(も)に秋そよぐなる草の影おもほえば遠く来てぞ戰ふ
落ち方の素(す)赤(あか)き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者殘さじ
棗の葉しみみに照れば雨過ぎて驢馬と庭鳥と一所(ひとつど)に遊ぶ
柿の葉のここだく騒ぐ雨もよひ機関銃小隊は眠りをるらし
十二月二十六日入院
虔(つつし)みて吾等あれこそみんなみにいくさ戰ふときを病みつつ
昭和十七年三月「多磨」
病床(やみどこ)に臥(ふ)しつつ読むにあな羨(とも)しマニラへ迫る皇軍(みいくさ)のさま
再びをいくさにたたむ希(ねが)ひをばこもごも語る夜々集(よよつど)ひては
牀上小歌
もの悲しく小鼓(せうこ)と鉦を打つきこゆ病院よりいづれの方角ならむ
昭和十七年四月「短歌研究」
あかつきの検温了へて又寝(い)につくならはしを定めて日々過(すご)すかな
山西省の土にならむといふ言葉たひらぎのこころに繰返しをり
右頰を貫きし弾丸(たま)鋭くて口よりいでて行方(ゆくへ)わかずとふ
宵よりぞ二重の窻をしむるゆゑさむききさらぎの月も仰がず
みんなみの空に陸地(くがち)に猛(たけ)靡く炎なしつつたたかふ戰友(とも)よ
貫かむ国の雄ごころ一つにてジョホールバハルに突き入りし兵よ
中原會戰
死(しに)すればやすき生命と戰友は云ふわれもしかおもふ兵は安しも
昭和十七年四月「多磨」
敵中に楔を入れて三日二夜戰ひ疾(はし)りて朱家庄に迫る
泥濘に小休止する一隊がすでに生きものの感じにあらず
この一線抜き取れとこそ命下る第一線中隊第二中隊永久隊
麥の秀(ほ)を射ち薙ぎて弾丸(たま)の来るがゆゑ汗ながしつつ我等匐ひゆく
麥の秀の照りかがやかしおもむろに息衝きて腹に笑(ゑま)ひこみあぐ
次々に銃さし上げて敵前を渡河するが見ゆ生も死もなし
死角より走り入りつつ河渉る一隊に集る敵の弾丸(たま)はや
強行渡河成功したる一隊が赤崕に沿ひつつ右に移動す
中條山脈
登攀路が落下しつづくる砲弾に幾分ならずして跡形もなし 昭和十七年五月「多磨」
あなやといふ間さへなし兵を斃し掃射音が鋭く右に過ぎたり
啼きゐたる仏法僧が聲やめて山鳩が啼くしづけきかな
銃剣が月のひかりに照らるるを土に伏しつつ兵叱るこゑ
信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵 昭和十七年六月「多磨」
あけがたのひかりは風をおくり来て敵の喇叭の音をし傳ふ
チヤルメラに似たりとおもふ支那軍の悲しき喇叭の音起りつつ
数知れぬ弾丸(たま)をし裹(つつ)む空間が火を呼ぶごとくひきしまり来つ
汗あへてわれら瞻りをり向ひ峯トーチカに迫る友軍あるを
三萬の敵追ひつめぬ直接に七千は山に我と対峙す
伝令のわれ追ひかくる戰友(とも)のこゑ熱田(にぎた)も神(じん)もこときれしとふ
今日一日(ひとひ)暇(いとま)賜ひて麥畑に戰友(とも)らの屍(かばね)焼くと土掘る
昭和十七年七月「多磨」
限りなき悲しみといふも戰ひに起き伏し経れば次第にうすし
はつはつに棘(とげ)の木萌(めぐ)むうるはしさかかるなごみを驚き瞠(みは)る
とらへたる牛喰ひつきてひもじさよ笑ひを言ひて慰むとすも
北陲。部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つな、と命にあり。 昭和十七年七月「日本文芸」
うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か
馬家圪朶(ばか×きだ)鞍部(あんぶ)に狂ひうばたまの峪に堕ちゆきし馬五六頭
身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ
磧より夜(よ)をまぎれ来る敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
息つめて闇に伏すとき雨あとの峪踏む敵の跫音(あおと)を傳ふ
闇の中に火を吹きやまぬ敵壘を衝くべしと決まり手を握りあふ
一角の壘奪(と)りしとき夜放(よるはな)れ薬莢と血汐と朝かげのなか
俯伏して塹に果てしは衣(い)に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵
銃剣が陽に光るのみ朝かげの中なる友軍白兵を望む
一齊に進入せり弾雨下を後続衛生輜重通信部隊
戰死馬の髪(かみ)を秘めつつ戰ひに面變(おもがは)りせる若き汝(なれ)はや
陣中日誌に不便すべしと失ひし時計を捜す屍体の間(あひだ)に
秋
いさましくかへり見ざりし亡骸(なきがら)を秋草花にまもりし二夜(ふたよ)
山くだるこころさびしさ肩寒く互(かたみ)に二丁の銃かつぐなり
見返れば風に揺れつつ吾木香(われもこう)ある莖は折れて空を刺したり
戰死者をいたむ心理を議論して涙ながせし君も死にたり
この頃。一室の療友十人なり。
鉢薔薇に夕べの青き光差し癒えねばならぬ體ぞわれは
夕ぐれの光抑へて降る沙に懸聲ひびく體操すらし
戰ひを語るもせなく白き衣(い)に病(やみ)いたはりて睦ぶはさびし
かがなべて寂しさ深し戰ひにおのれらあるを劬りあひて
右の一連の初出の「多磨」「短歌研究」「日本文芸」などの歌数は、計一二四首である。それに対して合同歌集掲載歌は八二首。全体が勇壮な兵の歌で占められているとは言いながら、「死すればやすき生命と戰友は云ふわれもしかおもふ兵は安しも」というような厭戦的ともとられかねない歌が、よく発表できたものだと私は思う。見ての通り、歌集『山西省』の中の重要な作品は、ほぼここに出ている。こうして書き写しながら、私はしーんとした厳粛な気持ちに満たされた。『山西省』の一首をめぐる問題は、「事実」と作品の真実性、「歴史」的認識と作品の真実性の問題とが微妙に絡み合いながら、戦争の記憶の継承をめぐる問題を提起し続けているのである。
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