この歌集は二〇一七年八月刊行なのだが、いまの世の中のことを詠んだといってもおかしくないような歌がたくさんあるのである。たとえば、マスクと豪雨災害の歌。
マスクして時々くもる眼鏡超しに眺むるこの世 山茱萸が咲く
※「山茱萸」に「さんしゅゆ」と振り仮名。
長き長き地球の時間の尖にいて「経験のない大雨」に遭う
※「尖」に「さき」と振り仮名。
さらには、国会の歌。
大声でもの言う人が正しいということもなく国会終る
ためらわず言ってのければ大いなる虚辞もまことになるという嘘
ものを思うな書くな喋るなのっぺりとかぐろき闇が間近にせまる
三首目は隣国の人々の現実であり、そしてわれわれの未来でもある。ということか。
原発と福島のことを詠んだ歌。
超濃度の汚染水をえんえんと垂れ流す国を祖国と呼ばねばならず
こんなにも手荒く汚しし海と陸あらわに照らし月読わたる
※「陸」に「くが」、「月読」に「つくよみ」と振り仮名。
こんなにも百花乱れているものを福島浜通りいずこも無音
遠からずかならず来るべし杞憂という故事が杞憂でなくなるその日
四首目は、食料自給の危機や、遺伝子組み換え食品の表示規制緩和や、種子法廃止や、手遅れになりかけているインフラの老朽化や、山林の荒廃や、漁業の衰退など、安倍政権下ですすめられたグローバリズムの圧力に屈服した施策の結果を思わせると同時に、首都直下型地震や、南海トラフ地震や、富士山噴火や、オリンピック下のコロナ感染など、小から大まで目白押しの心配事と関連させることができる。このなかで政治の手によって抑制・制御可能な事案はけっこう多いのであるが、何しろ「ためらわず言ってのければ大いなる虚辞もまことになる」国だから、未来の世代のことを考えない施策を政治家も官僚も平気で押し進めているのである。
石巻へかの大いなる喪失へ続くレールの上の朝霜
民の目の届かぬところ麦畑に「特例」の黒穂いつしか育つ
濁声に大鴉は鳴けり唱和して二羽また三羽 世界黄昏
※「濁声」に「だみごゑ」、「黄昏」に「こうこん」と振り仮名。
この三首は、「師・加藤克巳長逝」と詞書のある歌のある一連のものである。作者のこのいまの時間を「世界黄昏」としてとらえる気分は、加藤克巳を失った気持ちをベースとして、人類の未来を憂えるところから出ているのであるが、この歌集を手にしたとき私自身はこの言葉に自分を載せたくない感じを受けたものだから、長らくとりあげることもなくしまった。でも今日書庫を引っくり返していたら出てきたので、この機会をのがさないことにした。さて、もう少し作者の歌に踏み込んで読んでみたい。
一景を正して天にそばだてるメタセコイアの今年のみどり
くさはらいちまい席巻したるひるがおの薄きももいろあなどりがたし
飛ぶ鳥を見つつ思えりその腔に運ばれおらん木の実くさの実
木枯し茶の紬が似合う齢となり元気でいれば老いもよきもの
※「紬」に「つむぎ」と振り仮名。
望むべくもなきことながら三十年いな十年まえの無傷の空を
月こそは全き裸身と言いし人ありて今宵の蝕甚あかし
一紙半銭無駄にするなとおおははの声がきこゆる墨磨りおれば
われのみの知る名をつけて目に飼える遠見の梢にいつも来る鳥
納戸色、鐵色、海松色 さびしげな着物ばかりを母は遺せり
※「鐵」に「てつ」、「海松」に「みる」と振り仮名。
自然の中で生きている動植物の力強さから受け取めた感動を、奇をてらわずに簡潔にあらわした歌に好吟が多い。そんなに言葉を尽くして描写してはいないのだが、一首目のように植物の名前と色だけというものでも、歌によってその植物の持つ「勁さ」の要素が印象的にとらえられている。それは作者自身が、そうした「勁さ」を常に肩先から発する気のようなものとして大事にしているせいなので、そういう意味では、やや控えめながら述志のうたを志した歌人の系譜に作者も連なると言ってよいであろう。作者の師の加藤克巳は、「芸術」ということを生涯背負っていたところがあるが、作者の場合は、そこを上手に技芸や趣味といった生活に近いところに落とし込むわざを持っていて、着物の歌にはそれが反映されているように思う。着物の色が心であり、生の表現であるような日本の女性の文化というものが次の歌にも映っている。
この色を好みし姉ももうおらず雨にけぶれる楝むらさき
※「楝」に「おうち」と振り仮名。
マスクして時々くもる眼鏡超しに眺むるこの世 山茱萸が咲く
※「山茱萸」に「さんしゅゆ」と振り仮名。
長き長き地球の時間の尖にいて「経験のない大雨」に遭う
※「尖」に「さき」と振り仮名。
さらには、国会の歌。
大声でもの言う人が正しいということもなく国会終る
ためらわず言ってのければ大いなる虚辞もまことになるという嘘
ものを思うな書くな喋るなのっぺりとかぐろき闇が間近にせまる
三首目は隣国の人々の現実であり、そしてわれわれの未来でもある。ということか。
原発と福島のことを詠んだ歌。
超濃度の汚染水をえんえんと垂れ流す国を祖国と呼ばねばならず
こんなにも手荒く汚しし海と陸あらわに照らし月読わたる
※「陸」に「くが」、「月読」に「つくよみ」と振り仮名。
こんなにも百花乱れているものを福島浜通りいずこも無音
遠からずかならず来るべし杞憂という故事が杞憂でなくなるその日
四首目は、食料自給の危機や、遺伝子組み換え食品の表示規制緩和や、種子法廃止や、手遅れになりかけているインフラの老朽化や、山林の荒廃や、漁業の衰退など、安倍政権下ですすめられたグローバリズムの圧力に屈服した施策の結果を思わせると同時に、首都直下型地震や、南海トラフ地震や、富士山噴火や、オリンピック下のコロナ感染など、小から大まで目白押しの心配事と関連させることができる。このなかで政治の手によって抑制・制御可能な事案はけっこう多いのであるが、何しろ「ためらわず言ってのければ大いなる虚辞もまことになる」国だから、未来の世代のことを考えない施策を政治家も官僚も平気で押し進めているのである。
石巻へかの大いなる喪失へ続くレールの上の朝霜
民の目の届かぬところ麦畑に「特例」の黒穂いつしか育つ
濁声に大鴉は鳴けり唱和して二羽また三羽 世界黄昏
※「濁声」に「だみごゑ」、「黄昏」に「こうこん」と振り仮名。
この三首は、「師・加藤克巳長逝」と詞書のある歌のある一連のものである。作者のこのいまの時間を「世界黄昏」としてとらえる気分は、加藤克巳を失った気持ちをベースとして、人類の未来を憂えるところから出ているのであるが、この歌集を手にしたとき私自身はこの言葉に自分を載せたくない感じを受けたものだから、長らくとりあげることもなくしまった。でも今日書庫を引っくり返していたら出てきたので、この機会をのがさないことにした。さて、もう少し作者の歌に踏み込んで読んでみたい。
一景を正して天にそばだてるメタセコイアの今年のみどり
くさはらいちまい席巻したるひるがおの薄きももいろあなどりがたし
飛ぶ鳥を見つつ思えりその腔に運ばれおらん木の実くさの実
木枯し茶の紬が似合う齢となり元気でいれば老いもよきもの
※「紬」に「つむぎ」と振り仮名。
望むべくもなきことながら三十年いな十年まえの無傷の空を
月こそは全き裸身と言いし人ありて今宵の蝕甚あかし
一紙半銭無駄にするなとおおははの声がきこゆる墨磨りおれば
われのみの知る名をつけて目に飼える遠見の梢にいつも来る鳥
納戸色、鐵色、海松色 さびしげな着物ばかりを母は遺せり
※「鐵」に「てつ」、「海松」に「みる」と振り仮名。
自然の中で生きている動植物の力強さから受け取めた感動を、奇をてらわずに簡潔にあらわした歌に好吟が多い。そんなに言葉を尽くして描写してはいないのだが、一首目のように植物の名前と色だけというものでも、歌によってその植物の持つ「勁さ」の要素が印象的にとらえられている。それは作者自身が、そうした「勁さ」を常に肩先から発する気のようなものとして大事にしているせいなので、そういう意味では、やや控えめながら述志のうたを志した歌人の系譜に作者も連なると言ってよいであろう。作者の師の加藤克巳は、「芸術」ということを生涯背負っていたところがあるが、作者の場合は、そこを上手に技芸や趣味といった生活に近いところに落とし込むわざを持っていて、着物の歌にはそれが反映されているように思う。着物の色が心であり、生の表現であるような日本の女性の文化というものが次の歌にも映っている。
この色を好みし姉ももうおらず雨にけぶれる楝むらさき
※「楝」に「おうち」と振り仮名。
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