さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

栗原寛『Terrarium  テラリウム』

2018年04月21日 | 現代短歌
 第三歌集。巻末の作者紹介をみると、作詞をしている人らしい。そのせいか、言葉の意味の届く範囲についての思い切りが良い。一句についての過剰な思い込みがない。私の場合は、帯に引かれている歌をみて読むつもりになるということが、あまりないので、この歌集の場合は、たぶん全体のレベルが高いのだろうと思って、いそいで最初から読むことにして、予想に違わぬ楽しさを覚えた。ちょっと短歌を読み慣れていない人にはむずかしいかもしれない歌を先に二首引く。

アガパンサスのかたはらすぎてあをき羽根まなうらのくらき空に散らばす

あかるい月が照らしてしまふ抱いても、気づいてさへもならぬこころを

 二首目の「抱いても」は、いだいても、と読む。その内容は、和歌の伝統に作者が通じているように感じさせる。一首目からわかることは、やや耽美に傾く傾向があって、調べが少し細かくうねりすぎるところあるのだが、それこそが作者の個性なのだということである。

 次に、もう少しわかりのいい「ガードレール」という一連から引こう。

目をとぢてよりかかりたる樹の下にいちばんだいじなものあたためる

青年のながき脛やうやくあらはれて渋谷に夏の光溢れる

小説の主人公みたいな恰好でしなだれかかるガードレールに

吊革につかまるきみの袖口にのけぞるけふのうすくらやみは

 「小説の主人公みたいな恰好で」とか、「吊革につかまるきみの袖口に」というような詩語の選び方に何かあぶなげな感じが漂っていて、そこにやや過剰な自意識を自己劇化する傾向が感じられる。1979年生れの作者の年齢からすれば、これを青春の歌として読むことはできないかもしれないが、この作者が感覚として持っているものは、日常の情緒的な生活における一種の不安定な青春の情緒につながる要素なのだろうと思う。そこがこの歌集の魅力をなしているのだが、おそらく作者は作詞の部分では、そういう面を十分に解放できないので短歌を選んでいるのではないかと私は考えた。

朝の夢にあらはれてよこたはりゐるわれのからだをわれが見てをり

 今日たまたまめくっていた本にこんな俳句があった。

木枯とわれを去りゆくわれのあり  千代田葛彦   
                 饗庭孝男『文学としての俳句』(1993年)

 俳句の方は、木枯と言った瞬間に、伝統にずいーっと引っ張られてしまっているのに対して、短歌は「朝の夢」が現在の突端の孤独のなかに放り出されているということだ。その不安にたえながら、今後も歌を作っていってほしい作者である。私の好みを言えば、もう少し固有名詞に代表される事柄・事象に就くところがあってもいいかなとは思うけれども、これは師の外塚氏もきっと言っておられるにちがいない。これは若い人の歌の全体的な傾向である。これは、古い所に帰れと言うのでは決してない。

うつろなるこころうつして洞のある楽器ゆゑきみの抱けるギター

特急の席に食みをりBLТサンドのLはLoveにあらねど

 どれも切れのある相聞歌で楽しめる。



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