さいかち亭雑記

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富岡多恵子『行為と芸術 十三人の作家』

2016年05月21日 | 現代短歌 文学 文化
 この本の表紙は暗黒舞踏をする土方巽の戦慄的な写真である。美術出版社刊1970年初版で第四版は1974年刊。充実した内容でカバーの見返しには若かりし頃の著者の目を伏せた笑顔の写真がある。白黒の印刷だが図版と写真も各章に四ページずつ入れられていて、これがおもしろい。むろん古書で手にした。知らなかったなあ、富岡多恵子がこんな仕事をしていたなんて。

「十三人の作家」は、横尾忠則、磯崎新、唐十郎、粟津潔、土方巽、一柳慧、高松次郎、杉浦康平、武満徹、和田勉、山口勝弘、大島渚、東松照明と、当代の最高のアーティスト、表現者ばかりが選ばれている。しかも凡百の新聞記者の書く文章とはちがうのだ。自分の感性を相手の仕事のなかに投げ込みながら、対話のなかで理解し切り取ったものを的確な言葉で定着している。1968年、69年は、戦後の前衛的な精神が一斉に開花した時代だったのだということが、この十三人の名前を見てもわかる。いまの時代の前衛的なものはその孫か曾孫世代にあたり、だいたいがその二番煎じ三番煎じになっているから、先端にあるものが見えにくい。われわれは富岡多恵子がつかんだものを学び直して、前衛の初心に戻れたらいい。

「つまり、このひとりの写真家は、写真のもつ記録性、表現力、伝達力、とことごとく対立しているのである。自分の主観、考え方、世界の見方が入りこむ口をはじめからこのひとは自分でできるだけせばめているのである。自分がとった何千枚かの沖縄の写真の中から幾枚かを選び出すことで、これがオキナワだというのは、沖縄に申しわけないことである。ただ、このひとの写真集にたいへんな主観的な見方、或は独自な見方、を写真を眺めるひとが感じとるとしても、それは写真家のこういう自己へのストイシズムが表現(傍点)されたのではなく、自己の行為への最初の対立と懐疑が、その行為たる写真をたんにナニカの表現に終らせなかったのだと見るべきであろう。(略)

だから東松照明という写真家が沖縄という島へ行ってとってきた写真が、沖縄の現実かというとそうではないのかもしれない。それは沖縄の現実ということになっている状態なのかもしれないのである。(略)(その他の百人の写真家と)もし東松照明というひとの写真がちがうとすれば、その感受性やものの見方がちがう以上に、かれらの目の前にある現実の質がちがうのではないのだろうか。これこそが現実だという認識と、これは現実だという認識のちがいではなかったのだろうか。」       (東松照明)

これだけではわかりにくいかもしれないが、「とりあえず現実ということになっているそこにある状態にカメラを向けるより仕方ないのではないか」というように、東松照明の写真を富岡多恵子は見た。そこから読者の私に観取できるものがある。インターネットというものは、ここでいう「とりあえず現実」を限りなく強化してしまう道具なので、時々こういう文章や東松照明の作品なりに目をさらして、自分の感覚を洗っておかなければならないのだ、というようなことを、いま唐突に思ったのだった。十三人の作家は、いわゆる芸術とか、いわゆる建築とか、いわゆるナニナニという制度に巻き込まれていなかった人たちである。はだかで自分だけの力で突出していたのだ。それは感動的な光景である。



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