日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-2--NO3

2007-10-08 23:23:02 | 鶴の友について

20057_029 「それなら、お父さんが書いたらいいじゃないか」-----中一の息子のこの言葉がこのブログを書くきっかけになりました。                    

この言葉は、私がインターネットで日本酒関係のHPを見ながら「ぴんとこないなぁ」、「なかなか無いなぁ」と”独り言”を言っているときに息子から出たのです。私の息子は赤ん坊のころから、日本酒には縁がありました。毎年7月にはアパートのドアの前に、”普通の家庭”としては考えられないほどの多くの酒が置かれ、12月には甘い香りが強く漂う大量の酒粕まで追加される生活を生まれたときから送っています。彼にとって、今は自分が飲むことはできなくても、日本酒は常に身近な存在なのです。

かつて一度だけ、息子と一緒に新潟へ行きました。自分がいつも目にしている酒の銘柄が造られている現場を直接見られ、話をよく聞かされている、父親の敬愛する大先輩の店にも行き、どちらでも大変可愛がっていただいたので、新潟は息子にとっても非常に良いところだそうです。

淡麗辛口をその”原動力”として、”日本酒ルネッサンス”と言うべき動きに、成功の兆しが見え始めた昭和50年代前半に、思わぬことから私は新潟淡麗辛口の蔵に縁を持ちました。 私のアパートに集金その他で来られる”酒飲み”が、「何でこの酒がこんな所にこんなにあるんだ」と驚かれる、有名な蔵もその当時はまだ”マイナー”な時代で、マイナーなだけに”商売”のからんでくるウエイトは少なく、”家業を嫌っていた酒販店の三代目”の私でも強く惹かれる”人間関係”がそこにはあったのです。 売れるとか売れないはまったく考えず、扱ってみたいと強く思ったのは、酒そのものの魅力ももちろんありますが、それ以上に”酒を造る人”に強く惹かれたからです。 私はどちらかと言うと”酒に酔う”のではなく、”酒に関わる人”に酔って年月を重ねてきたような気がします。 私にとって”酒”とは”人”なのです-----いつも”人”を通して”酒”を感じてきました。 しかし、それゆえ平成の初めまで続く”悪戦苦闘”の日々を送ることになります。

酒は恐ろしいほど、酒を造る人の”心の置き所”を反映します。 そして、その”反映する心”は、技術者である杜氏ももちろんですが、それ以上に”蔵元の心”が反映します。  誤解を恐れずに言うと、酒を造ること自体は酒蔵にとって、それほど難しいことではありませんが、酒造りのすべてにおいて手を抜かずに酒を造ることは、きわめて困難な作業と言わざるを得ません。 当時は嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)と早福岩男さん(早福酒食品店会長)を中心に、五つの蔵がお互いに切磋琢磨しながら、困難な作業を実行していました。 まったく同じ”哲学”を共有し、自分達の進む道に何の疑問も持たず、ただ前に進むだけ------今思うと、”黄金の日々”だったのかもしれません。 そうゆう”哲学”とそれを”体現”している人々に、私は強く惹きつけられ続けさらに”深み”にはまっていくことになります。

五つの蔵のうち、三つの蔵と私は取引させていただき、一つの蔵とは取引は無かったものの”人間関係”がありました。 私が意図的に関係を持たなかった五つの最後の蔵が越乃寒梅です。 なぜなら、越乃寒梅は、蔵元の意思とは関係なく当時すでに”メジャー”だったので、”マイナー”な私が入り込むのは失礼だと感じていましたし、”マイナー”な私の”居場所”もあると思えなかったからです。  そのころは、”新潟の酒の神様” 嶋悌司先生と直接お会いする機会はまったくありませんでしたが、お付き合いをさせていただいた蔵を通して、嶋悌司先生の存在の大きさは十分に感じとることができました。 その後、久保田の展開に最初から参加するなかで、嶋悌司先生にも個人的にも大変お世話なることになるのですが、そのころには五つの蔵の”黄金の日々”は終わりを告げ始めていました。

その数年後、思わぬことで私は”業界”を離れることになります。 それから、もう13年がたっているのですが、相変わらず私は酒から離れることができていません。 酒とはまったく関係の無い業界の会社員として13年を過ごしてきたのですが、なぜか私の周囲には”庶民の酒飲みの日本酒ファン”が増えてしまいます。 仕事上の付き合いの方でも、何気なく酒の話になると、私にとってごく”普通”の話をしているだけなのですが、相手が”庶民の酒飲み”の場合は興味が尽きないようで、そして必ずと言ってよいほど、「Nさんと話してると酒が飲みたくなりますね」と言われます。 そして、それ以上に”本人の自覚”無しに拡大させてしまったのが、”酒粕のファン”かもしれません。

私にとって”酒粕”とは、果物のような甘い香りのする、やわらかくて厚みがあり、切るのに苦労するもので、水にもすぐ溶けるものですが、現実に”酒粕好き”が手にしていたものは、まったく違っていたようです。 軽い気持ちで、今も人間関係が続いている三つの蔵の”酒粕”を周囲の方に差し上げ始めたのですが、その反響は予想を超えるもので、13年前は40㎏だったものが現在は300㎏を超えています。  ”酒粕”といえども300㎏を超えてしまう量になると、”サラリーマンのボランティア活動”としてはけして荷が軽くはなく、ここのところ暮れが近ずくたびに、今年は止めようかと思うのですが、差し上げた酒粕の”お裾分け”、”お裾分けのお裾分け”で本人が思っている以上にその範囲と人数が拡大しており、毎年その人達が楽しみに待っている------そう聞かされると、その人達の”幸せ”を奪うことはできかねます。  また、酒粕は、酒そのもの以上に酒質のレベルの違いを分かり易く語って、”庶民の楽しみ”である日本酒の素晴らしさを示していると実感している以上、私には止めることができないのです。

私が、”庶民の酒飲み”や”庶民の酒粕好き”に貢献できるのは、今も続く三つの蔵との”人間関係”のおかげです。 二つの蔵は、”黄金の日々”が思い出ではなく、そのときの気持ちを持ち続けており、一つの蔵は、十分な成功を収め酒飲みの間で有名でありながら、”黄金の日々”の面影を色濃く残しています。

これは、2005年の8月に書いた、”日本酒エリアN”の最初の記事「長いブログのスタートです」の最初の部分です。冗談ではなく、本人も呆れるほど本当に”長い”のですが、”長いのに”へこたれない方は、”耐久レース”への参加をお願いいたします。

http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html

上記のような ”動機”で、新潟淡麗辛口に縁を持った私が、最初に樋木尚一郎社長にお会いしたとき、”何を”見たのか。

鶴の友について-2--NO2の冒頭の ”羊さん”の文章どうりの ”鶴の友の姿”と、情けない自分の姿でした。今ほど、”その姿”が見えていたわけではありませんが、自分の内側に ”批判の目”が向くのには十分でした。

”ノブレス・オブリージの一環”として、内野を中心とした新潟市の地元の ”庶民の酒飲みの幸せ”のために、物心両面で犠牲を払って造ってきた鶴の友を、その鶴の友を売って利益を得たいので取引して下さい------思い上がりと勘違いに気付くことなく、臆面もなく申し上げたのですから。 ”一刀両断”に切り捨てられてもしょうがなかった状況でしたが、私のあまりに低いレベルと、”極楽トンボ”と嶋悌司先生に言われた私の能天気ぶりに呆れられたのか、まるで逆の申し訳ないような対応を樋木尚一郎社長はとってくださいました。

鶴の友が、コストに合わない造りをしているのは、私も聞いていました。しかし、実際に見るのと伝聞で聞くのとは大違いなのです。 内野の駅前の土地を駐車場に無料開放していたり、敷地内の弓道場兼将棋の部屋も、近隣の”同好の士”どうしでスケジュールを調整し、自由に使わせてもらっている姿も、直接目にしました。そのことを樋木尚一郎社長にお尋ねすると、「雨が降りそうだから傘を用意した」、「雪が降りそうなので、スタッドレスタイヤを用意した」------のような自然でごくふつうのことであるかのような、淡々とした ”答”が帰ってきました。私が味わったことない ”空気”とゆったりとした ”時間の流れ方”の中で、樋木尚一郎社長の ”当たり前ではない”お話を伺っているうちに、いつのまにか私もそれが ”ふつうの話”であるかのような ”相づち”を打ち始めていました。

自分の意識上では ”封鎖”を続けていたつもりでしたが、上記のとうりの ”動機”で新潟淡麗辛口に縁を持った私ですので、それまで出会ったことのないタイプの樋木社長に、強く惹きつけられるのはある意味で必然だったかもしれません。 故郷の塩沢町に帰り就職した、学生時代の友人Nの縁で八海山に行ったことから、”新潟の酒”に入り込んだ私は、このとき ”酒を売る立場の人間”としてきわめて大きな ”分水嶺”の上に立っていることに、気がついておりませんでした。

 鶴の友について-2--NO4に続く