鶴の友は、「酒は庶民の楽しみ」、「酒は日本人にとって、欠かすことのできない面白さと楽しさにあふれているもの」-----肌の感覚でそのことを私に納得させてくれた蔵です。
私が現役の酒販店時代に取引はありませんでしたが、”商売”以外のご縁から二十数年前におじゃまして以来、現在に至るまで ”人間関係”が続いています。
鶴の友はその根幹はまったく変わることなく、樋木尚一郎社長の眼は原点から逸れることなく 、また遠くをも見通しています。 ”業界”にいたときの私が、古い仲間から ”予言者扱い”されるほど、”予想”を的中させることができたのは、樋木社長のおかげでした。
頑ななまでに原則を変えず、他の四つの蔵がこの三十年で2~8倍にまでその販売量を増やしたにもかかわらず、逆に半分強に減っています。
鶴の友は、新潟市周辺のごく一部でしか販売されておらず、県外はおろか新潟市周辺以外では手に入れることが、きわめて難しい酒です。 それは”庶民の酒飲み”に顔を向けてないからではなく、逆に100%向けているからです。
鶴の友は、本来の ”地酒”に徹しています。 地元の酒飲みに喜んでもらうために犠牲を払って造っているのであって、それゆえ、県外、特に大都市圏に売るつもりがまったくと言っていいほどないのです。
業界を離れてからの13年、私は樋木社長と接する機会が増えました。 1~2年に1回はおじゃまさせていただき、電話でしょちゅうお話を伺っています。
その年月の中で、以前から自分では分かっていたつもりの樋木社長の”原則”をようやく肌の感覚で理解することができ、それを自分の”原則”とすることができたように思えます。
「酒は庶民の楽しみである以上、酒を造る者も売る者も庶民の立場でなければならない」-----飲む人間に対する強い気持ちがその”原則”なのです。 樋木社長ほど”飲む人間”、そして”弱い立場”の人間に愛情を持つ人を、私は知りません。
私が周囲の”恵まれない酒飲み”に対する”ボランティア活動”を始めたのも、数年前地元の小さな蔵に”ボランティア”で関わったことも、樋木社長の”愛情と応援”があって可能になったことです。また、つぼに入った超有名な”幻”扱いされている焼酎も樋木社長がいなければ、存在することはありえなかったのです。
十数年前、その開発者といわれ今は”焼酎の神様”扱いをされている、K酒店のK店主に焼酎をかめで仕込んでつぼに入れて売ることを朝の5時まで樋木社長がアドバイスし続ける現場に、私も立ち会っていました。
K店主には、このとき一度しか私は会ってないのですが、新潟の酒の件でうまくいかなかったのか、前夜にはあまり元気とは思えなかったその朝のK店主のふっ切れた表情を、今でもよく覚えています。 数年前新潟県醸造試験場に講演の講師として招かれたK店主は、あの焼酎の原点は樋木社長にあると聴衆の前で言い切ったそうです。
樋木社長にとって、私やK店主にアドバイスしたり応援することは何のプラスもなく、マイナスでしかありえません。損だ、得だだということはまったく存在せず、純粋に”弱い立場”の人間への愛情と親切心だけでした。 しかもそれは、私達だけにかぎられないのです。
この”普通ではない心の置き所”を反映する鶴の友が、”普通”ではないことはむしろ自然といえます。
”素晴らしくかつ不思議な酒”といわれる鶴の友は、平均年齢80歳の”超高年齢軍団”によって3年前まで造られていました。
含んだ瞬間やわらかく、しかししっかりとした”米の旨み”としか言いようのない味が口の中に広がり、それでいて他の淡麗辛口を上回る、喉ごしの良さと切れの良さを持っていました。 鶴の友の場合は、”切れる”というより後味が”消えてなくなる”といったほうが適切かもしれません。 きちんと造った淡麗辛口は、人間の身体にやさしく翌日に残ることはないのですが、鶴の友は適量だった場合、その日のうちに醒めてしまうのです。 さらに不思議なのは、淡白な白身魚の刺身の味もじゃまをせず包みこみ、あんこう鍋のような強い味にも負けない”強さ”を同時に持っていることです。
それは、例えてみると、サーキットでめちゃくちゃ速いレーシングカーが、グラベル(未舗装路)のラリーのSS(スペシャルステージ)でもめちゃくちゃ速い-----普通なら絶対ありえないことなのです。
この”ありえない味”を造り続けて来たこの蔵に、2年前に”危機”が訪れました。 物心両面での負担のきわめて大きい造りを続けるこの蔵が、いつかは無くなる日が来ることを頭では理解していたつもりでしたが実際に直面したとき、私は呆然と立ち尽くすことしかできませんでした。 幸いこの蔵の造りは、30歳の杜氏を軸にした”若手軍団”に受け継がれ造られています。 わずかな混乱はあるものの”超ベテラン軍団”の味の骨格は受け継がれ、数年後にはそれに”若さ”を加えた酒質を造り出すのではと私は期待しています。 しかし、また”危機”が訪れる可能性は残念ながら残っています。 私が現役の酒販店のころ、蔵元の”思い”を知るがゆえに取引させていただくことはあきらめました。 鶴の友は新潟市民の”宝”であって、他の地域の人間がかすめとるべきではないと思ったからです。しかし、今の私は結果として新潟市民からかすめとることになったとしても、自分にできるあらゆることをしてでも残って欲しいと強く願っています。 自分の息子にもこの酒からしかもらうことのできない”幸せ”をどうしても味あわせてあげたいからです-----。
http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html
上記は2005年8月に書いた、自分が感じてきた ”鶴の友の姿”です。
私は、最初に樋木社長をお訪ねして以来、その後も八海山、〆張鶴、千代の光を回って新潟市にたどり着き、早福さんそして樋木社長のお話を伺うことを、年間3~4回続けました。 その動機は ”商売”のためでもなく ”酒の勉強”のためでもありません。 子供のころから嫌ってきた「酒販店の後継ぎ」という ”自分の日常”への反抗、そして短期の ”日常からの脱出”がその目的でした。 ”極楽トンボ”という嶋悌司先生の私へのお言葉は、恐ろしいほどまったくそのとうりだったのです。
今思えば昭和50年代の後半は、酒販店にとっても酒蔵にとっても ”のどかな時代”でした。 もちろん ”変化の流れ”は確実に近づいていたのですが、その ”足音”はまだ遠くでしか聞こえず、”何か”にゆっくり取り組む時間の余裕がまだ残っていた時代でした。 この時期に、自分もその流れの中で ”ささやかな一翼”と言うか ”情けないような一翼”を担っていた新潟淡麗辛口の前進と拡大を、八海山、〆張鶴、千代の光の各蔵元と早福さんをとうして、直接見続ける機会を与えられた私はきわめて幸運でした。 そして同時に、自分の立場を危うくしないように ”封鎖”をしながらにせよ、自分の目に映った ”景色”が 樋木社長にはどのように見えるのかを、鶴の友の蔵の中で樋木社長に伺える ”縁”を与えられたことも、本当に幸運なことでした。
”黄金の日々”が、ゆっくりとしかし確実に ”終わり”へ向かっているこの時期に、皮肉なことに、「鶴の友は、なぜ鶴の友なのか」、「〆張鶴の、〆張鶴たるゆえんは何んなのか」、「千代の光は、なぜ千代の光でありえるのか」、そして「八海山が、八海山たりえた理由」がほんの少しずつですが ”極楽トンボ”の私にも見え始めていました。 この時期は、”怖くて凄い”との評判の嶋悌司先生との面識はなく ”話で聞く”だけでしたし、 早福岩男さんも、”能天気”な私が「オーバーヒートで走れなくなる」ようなレベルの話は、後輩に優しい方ですので、慎重に避けて下さっていました。 それゆえ ”日本酒ルネッサンス”とも言うべき動きの中で、「監督やプロデュサーの役割」を果たされたお二人から直接伺う機会はありませんでしたが、”蔵の動きを通して”それもおぼろげながら見え始めていような気がします。
昭和が終わるころ、”新潟淡麗辛口”へのドアを私に開いてくれた南雲浩さんが ”ある事情”で八海山を離れられたとき、五つの蔵がすべてそろっての ”黄金の日々”が終わったのかもしれません。
南雲浩さんが離脱された後、私が行かせていただいていた四つの蔵の間で ゆるやかではありましたが一致していた ”価値観”の優先順位のずれが、造っても造っても酒が足りない ”新潟淡麗辛口のブーム”の中で目立ち始めていました。しかし、それが誰の目にもはっきり映ったのは、朝日酒造の久保田が発売されたころからでした。
嶋悌司先生がご自分の ”最後の仕事”として、新潟県醸造試験場長を定年前に退職され朝日酒造に移られたのは、「朝日酒造の新たな創業」-------”久保田プロジェクト”のためでした。 久保田の発売の半年前、当時地方銘酒(地酒)を扱う酒販店の有力なグループのひとつであったTマーケテングのM会の例会に、嶋悌司先生が講演のため参加されました。このとき私は、初めて嶋先生にお会いすることになったのです。 例会での嶋先生のお話は、当然久保田が中心になりました。
M会は池袋のK酒店K店主を中心に、昭和五十年代の初めから地酒にかかわってきた人が多く、新潟の五つの蔵のどれかと関係を持っていました。ちなみに、「私の親友のような酒販店だから」と私にK店主を紹介してくれたのは、南雲浩さんでした。
嶋悌司先生のお話は、”M会の落ちこぼれ”の私でも理解でき分かる内容でもあったのですが、私も含むM会のほとんどの人がある種の”違和感”を感じていました。
それは、「なぜ今、朝日山なのか」------という疑問でした。 ”新潟県のナショナルブランド”で、県内で月桂冠よりNBとしての存在感のある朝日山がいまさらなぜ越乃寒梅や八海山のような ”売り方”をしようとするのか、そしてそれをなぜ嶋悌司先生が担うのか------ということに得心がいかなかったのです。
嶋悌司先生への尊敬の気持ちからか、あるいは何らかの思惑からかM会の人達は、嶋悌司先生にその ”違和感”を表明することを避けていました。
しかし私は、”極楽トンボ”でしたしおそまつなことも自覚しておりましたので、聞くことの ”怖さ”より知らないことを知りたいとの ”気持”のほうが上回り、めったにない嶋先生に直接質問できるチャンスを逃すことはできませんでした。そして、お叱りを承知の上で質問の手を上げたのです。
「 嶋先生、なぜ定年を一年半も残して朝日酒造に移られたのですか。なぜ今朝日山なのですか」------若気の至りとはいえ、今思うと大変失礼な質問であったと反省しております。 私のほうに顔を向けられた嶋悌司先生の眼光の鋭さに、質問をしてしまったことを後悔したのですが、先生のご返答は意外なものでした。
「新潟の酒が評価されるためには、新潟全体のレベルアップが必要だったが、そのためには目標となるべきトップレベルの蔵の存在が必須だった。越乃寒梅を名実ともに追う蔵として、いろいろ考え準備もした上で、鶴の友、八海山、〆張鶴、千代の光の立ち上げをしてきたのだが、いざ立ち上がると酒が足りなくなってしまい、ややもすると土地転がしならぬ ”酒転がし”が横行し、せっかく飲みたいと思ってくれる消費者に迷惑をかけている。 この状況は新潟の酒には良い状況とは言えない。 新潟の酒が、”幻でも幽霊”でもなく手も足もあることを分かっていただくためには、酒質が良いのはもちろんだがその酒質の酒を安定的に消費者に供給するには、従来とは違う ”仕組み”が必要か------と感じていた。 酒質を落とさずに量を拡大していくためには、原料や設備の面で十年くらい先を考えた先行投資が必要だし、最初から新潟県以外の市場に展開するのにも ”資金や人”の面で ”体力”が必要だった。 この”体力”が、新潟県内でありそうなのは朝日酒造だけだったし、平沢亨社長(当時)も ”新たな創業”のつもりで全力で取り組みたい-----そのためにも朝日酒造に来てもらえないかとの話があったので移ったというのがその理由です」
お叱りを受けると思い少々(本音を言うとかなり)びびったのですが、嶋悌司先生の私へのご返答は直球-------それも、ど真ん中のストレートでした。 ”怖い”とお聞きしていた嶋先生でしたが、懇切丁寧な説明をして下さったのです。
これがご縁で、久保田の展開の中で嶋先生に大変お世話になることになるのですが、”怖い”のが分かっていても思わず寄って行ってしまう ”迫力のある面白さと魅力”に嶋先生は満ち溢れていました。そして、”怖い”と同じ分量”優しい”方でした。
この久保田の発売が、新潟淡麗辛口ブームに拍車をかけ激動を生むことになり、”極楽トンボ”の私も ”極楽トンボ”ではいられない状況になっていったのです。
鶴の友について-2--NO5に続く