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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

國権について--NO2

2008-07-09 18:47:35 | 國権について

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平成17酒造年度までの全国新酒鑑評会や南部杜氏鑑評会で、受賞蔵として、月桂冠昭和蔵、杜氏大木幹夫という記事を目にしましたので、現在現役かどうかは分かりませんが、近年まで大木幹夫杜氏は月桂冠で活躍されていたようです。
大木幹夫杜氏とは、短く浅い接触しかありませんでしたが、その後のご活躍は私にとってもうれしいことです。
短く浅い接触でしたが、忘れられない大木幹夫杜氏の言葉が私にはあります。

「伊藤勝次杜氏ですか? 私らとは比較にならない”神様”みたいな存在ですよ。
あれだけの生酛をあれだけの量造れるのは物凄いことで、とうてい私らにできることじゃありませんよ」------もともと伊藤勝次杜氏のいた蔵とは取引があったのですが、この一言が私の興味と関心が生酛と伊藤勝次杜氏の方向に強く向かうきっかけになったからです。

”規格外”の人生が容貌にも現れた独特の魅力が細井泠一社長にはありますが、細井信浩専務は女性に人気が有りそうな、シンプルに”いい男”------そんな印象を私は感じています。
30歳代前半の細井信浩専務はとても爽やかで、たぶん初対面で悪い印象を持つ人はいないと思われます。
東広島から帰ってきた7年前が初対面で、今回が2度目だったのですが細井信浩専務からうける印象はだいぶ変わっていました。

國権について--NO1に書いたように、細井信浩専務は平成19酒造年度の全国新酒鑑評会の、決審の審査員の一人として呼ばれました。もちろん唎酒能力を評価されてのことですが、
それだけではありません。
福島県、仙台国税局、全国-----酒造業界の各段階において細井信浩専務が造り出す鑑評会用の吟醸酒のレベルを評価されていなければ、ありえないことなのです。
事実、鶴の友の樋口杜氏も千代の光の池田哲郎社長も國権の名前はご存知で、國権への評価も低いものではありません。

初対面のときは、テルさんやS髙、O川のG力研究所の研究員の恒例の「國権行き」に私は
”便乗”したのですが、細井信浩専務にとって私は、「親父の知り合い」にしか過ぎないし、新潟淡麗辛口の”信奉者”の一人としか思えなかったのではないかと、感じていました。
私はありがたいことに、今でも、鶴の友の樋木尚一郎社長に電話でよくお話を伺っていますし、〆張鶴の宮尾行男社長、千代の光の池田哲郎社長にもときおりお話を伺っています。
それゆえ、7年前の細井信浩専務がそんな印象を持たれたとしても、理解できないことではありません。

現役の酒販店時代の私は昭和五十年代前半より、〆張鶴、八海山、千代の光を主力銘柄として売っていましたし、久保田も発売当初より主力銘柄としてきました。
その”経歴”からいって、「新潟淡麗辛口だけの信奉者」と受け止められるのが”自然”なのかも知れません。
確かに新潟淡麗辛口は、日本酒を売ろうとしてきた酒販店だった私にとって、”故郷”のようなものでした。
現在と比べると昭和五十年代は、社会全体も”酒業界”もまだのんびりした時代で、「酒の素人」で酒について分からないだらけの私でも、酒造りの現場を毎年見せていただきながら、分からないことはそのつど蔵元や杜氏に質問し教えていただき、ゆっくり「勉強」させていただくことが可能なゆとりが蔵にも酒販店にもあったように思われます。
このタイミングで新潟淡麗辛口の蔵に出会えたのは、今振り返ると、私にとってはきわめて大きな幸運だったと思えます。
この時期の新潟県の一部の蔵の動きは、それまでの業界の常識からすると、明らかに”革新的”な動きでした。
私が最初に出会った日本酒は、この”革新的”な動きの中心にいる蔵のものだったのです。
そして、おそまつで能天気な私が心引かれ懸命に”勉強”しようとした日本酒が、この時期の新潟淡麗辛口だったのです。

学校の”勉強”と違い、新潟淡麗辛口の”勉強”は、私にとって新鮮で楽しいものでした。
それゆえ最初のころ私は、新潟の皆様の”迷惑”を省みず、年間3~4回〆張鶴、八海山、千代の光、そして早福酒食品店に押しかけていました。
そんな日々の中で、伊藤勝次杜氏のいた蔵の営業のSさんから國権の話を聞いたのです。
Sさんの蔵は、福島県の中では大手の蔵であり私の店とは以前からの取引がありました。
しかし(その当時の私の記憶では)、一万石近い販売量と福島県内や私の県のカバー率の高さから、”地酒の蔵”とは私は考えていませんでした。
Sさんは、単体としては販売していないものの速醸酛で造られた市販酒に、その根幹を支えるものとして必ずブレンドされていた「生酛」に強い誇りを持っていました。
このSさんの”話”が、私を國権に導き、その國権の大木幹夫杜氏の”言葉”が、伊藤勝次杜氏の生酛へと私を向かわせることになるのです-------今振り返ると、この”流れ”には複雑な思いもあるのですが、新潟淡麗辛口とは違う方向で”現状打破”を図る國権、時代の流れや周囲の変化があっても杜氏として犠牲を払ってでも生酛を造り続けてきた伊藤勝次杜氏の生酛に出会ったことで、私はほんの少しですが、日本酒の「間口の広さと奥行きの深さ」を、おそまつな私なりに感じられるようになったのです。

違う”方向”の國権や、”対極”にあると言っても過言ではない「生酛」の視点からも、新潟淡麗辛口を見れる機会を与えられたことで、私が最初に出会った日本酒の新潟淡麗辛口がどうゆうものなのかがより理解できるようになった--------新潟淡麗辛口だけしか知らなかったら新潟淡麗辛口自体も、おそまつな私にはまるで理解できず、その”革新性”などほんの少しも分からなかったはずです。
酒を造る現場で、酒を造る人に直接分からないことを聞く--------苦笑されたり、お叱りを受けることもありましたが、どんな小さなことでも私が分かるまで教えていただけたことは、本当にありがたいことでした。
そのおかげで、昭和の終わるころには、おそまつな私なりに、日本酒に対する「基準線」ができたように思われるのです。

平成3年、”家庭の事情”で実家の酒販店を出て会社員になることで、”業界”を離れることにになりました。
今振り返るといろいろな思いもあるのですが、今も私はこの”決断”を後悔しておりません。
ただ、私自身がそれを失ったら自分ではないと思っているかなりの部分が、日本酒に関わる人達のおかげで造られたものだということに、自分自身が気がついていなかったことが”誤算”だったかも知れません。
平成3年から6年にかけてが、新潟淡麗辛口をその中心とした”地酒ブームのピーク”だったと思えるのですが、私はその時期をなるべく日本酒から離れて過ごそうとしていました。
しかし100%消し去るのは、思っていた以上に困難な”作業”でした。
私自身は極力離れるように努めたつもりだったのですが、どうもそれは周囲には”無駄な努力”としか見えなかったようです。
会社員としての生活にようやく慣れてきた平成7年ごろ、ようやく”無駄な努力”であることに自分でも気がつき、「趣味、あるいはボランティア活動」という形で日本酒の世界に”復帰”を果たしました--------その”理由”は鶴の友について--NO4に書いてあります。

違う流通業界に身を置いて数年たった私の目には、それまで慣れ親しんできた”日本酒業界”が違って見え始めていました。エンドユーザーの消費者の一人、庶民の酒飲みの一人としての時間がたてばたつほど、私は「弱くはない違和感」を”日本酒業界”に感じるようになっていきました。

酒販店という家業を嫌っていた私が、偶然の連続から、新潟淡麗辛口と出会ったのは昭和50年代前半でした。
この時期、地方の日本酒にとってはときおり”小春日和”の日があったとしても、季節は”冬”と言えました。
商売という視点で見た場合、北関東の地方都市において〆張鶴や八海山、千代の光を主力として売っていこうとする”チャレンジ”は、「馬鹿かアホウとしか思えない」------と言われてもしょうがない状況にありました。
日本酒全体はこの時期すでに低落傾向にありましたが(それでも全アルコール飲料に占める日本酒のシェアは現在の2倍以上はあったと記憶しています)、月桂冠に代表されるNBの圧倒的な販売力が全国をカバーしていました。
しかし私自身と同世代(20歳代)の人間からは、「日本酒ねぇ、匂いが変だしベタベタするし、おかしな味がいつまでも口に残るし、二日酔いがひどいしあまり飲みたくないなぁ」-------まったくと言っていいほど支持が得られない時代だったのです。
それゆえ私自身もかつては、「日本酒なんてものは21世紀にはなくなる」と思っていたのです。

私が出会った新潟淡麗辛口は、私が思っていた日本酒とはまるで違っていました。
”ふた昔以上前”の缶コーヒーのように、コーヒーなのか”甘味飲料”なのか分からないようなものではなく、喫茶店で飲むレギュラーコーヒーだったのです。
「軽くて切れが良くなければ日本酒じゃない、人間の身体に優しくなければ日本酒じゃない」------同世代の一人でもいいから分かって欲しくてそう言い続ける”長い苦戦の日々”が始まったのです。
当時、全国的にも私の店でも、当然ながら日本酒の数量の多くを占めているのは月桂冠に代表されるNBでしたが、そのNBが若い世代にまったく”足場”を持ててないことを私は痛感していました、このままでは時の流れがNBに味方しないことも-------。
その対極にあり、ライト&ドライ化する食生活の変化に対応し、NBが拾えない”潜在需要”をメインのターゲットにした、「意図的に造り出された酒質」の新潟淡麗辛口なら自分自身がそうであったように、同世代の人間にも受け入れてもらえるのではないか-------同世代の人間に受け入れてもらわないかぎり、日本酒を中心に売ってゆくことなど不可能だという”思い”が、「失敗の連続」であっても日本酒を売り続けることを諦めさせませんでした。
そして、懸命に売ろうとしていく年月の中で、ますます”日本酒の世界”が好きになっている自分に気がついていました。

苦戦しながらも、國権そして生酛へも”活動の範囲”を広げ始めたころ、妙なことから私はテルさんやG力研究所のS髙、O川の研究員と知り合うことになります。
テルさんは鮨店の店主でしたが私のプラス4歳、S髙、O川研究員はプラスマイナス2歳の同世代-------これは私にとって本当に”ラッキー”な出会いでした。
テルさんは、当然ながら”樽酒”も含めて日本酒の知識があったのですが、テルさんご本人の日本酒への評価は”熱燗”しか飲めないという低いものでした。
S髙、O川研究員は、大学院までの学生時代を都会で過ごしたため、これも当然ながら日本酒以外の”知識”は私より有りましたが、G力研究所の先輩研究員に連れてきてもらった、テルさんとテルさんの店の常連が造り出している”東屋の雰囲気”に強い魅力を感じていましたが、日本酒は”その付属品”程度の評価しかなかったはずです。
私はテルさん達に、私自身が強い魅力を感じていた日本酒を見てもらうことから始めました。
軽くて切れがいい八海山、軽過ぎず重くもないバランスの取れた〆張鶴 純、きれいな甘さと切れを持つ千代の光------華やかな香りと”ふなぐち”ならでの厚みのある味がありながらくどく感じさせない國権の春一番、他の酒とは違う魅力を持つ生酛------酒は一本、一本がまるで違う個性と味を持ち、それが日本酒の最大の魅力であることを分かってもらいたかったからです。

テルさんにとっては感慨深いことだったせいか、今でもときおり出てくる昭和50年代後半のそのころの話があります。
「酒にも渋さがあるとお前が言ったとき、酒が渋いなんて馬鹿な話があるもんかと正直思った。しかしお前の言うとうり、〆張鶴の大吟醸を飲んだ直後八海山の特級(当時)を飲むと、普段は”味のついた水”としか思えない八海山の特級が確かに素っ気なく渋く感じた。あれには驚いた。あれ以来”ひやや冷やして飲む日本酒”に本気で関心を持つようになってしまった。熱燗しか飲めなかった俺が、今は、その熱燗をほとんど飲まなくなっているんだから、Nよ、お前は本当に”迷惑な男だ”」-------そう言ってテルさんは笑うのです。

テルさんも30歳代の初め、S髙、O川の両研究員も私も20歳代-------若く元気であり、”遊び”に対してもバイタリティにあふれていたため、どんどん前へ進んでいきました。
國権を皮切りに、〆張鶴、八海山を造りのシーズンに見させていただき、ついには伊藤勝次杜氏が初めて生酛の純米に挑戦したシーズンに、ふつうは絶対に入らせてはもらえない生酛の酒母室の中の数十本並んだ仕込み容器(壷代)の”中身”を見せていただき、生酛純米そのものの醪を目の前にして、故伊藤勝次杜氏(亡くなられて十数年になります)からその醪の良し悪しを懇切丁寧に解説していただく--------そういうところまで”突っ走って”しまったのです。
その一方で、テルさんの義兄でもあり東屋の常連の”重鎮”のG来さんを通じて常連の皆さんとも親しくなり、日本酒という”遊び”に参加していただきましたが、常連の皆さんの”年季の入った遊び”も見せていただき、今までにない”楽しさと面白さ”を私は感じていました。
常連の皆さんは、年令も私より一回り以上の方がほとんどで、その”遊びや遊び方”を見せていただくだけではなく、ときどき諸先輩の”遊びのお供”をして実際に参加させていただく中でだんだん強く感じることがありました。
それは、当たり前と言えば当たり前なのですが、自分が知っていることより知らないことのほうが圧倒的に多いという”単純な事実”でした。
私は、日本酒を”知っている”と思っていましたが、本当に知っているのか?
「酒を売る立場の人間」の中で、その平均レベルよりは”知っている”というだけに過ぎないのではないか。
「お前達売る立場の人間が絶賛する酒であっても、不愉快な相手と飲んだときは”不味い酒”になってしまうし、たとえ〆張鶴の大吟醸といえども、カレーライスを食ってるときにマグカップに入れて出されたらとうてい”美味い”とは思えない。
愉快な飲み仲間、多彩で美味い和食、料理や酒を控えめに引き立てる器、そういう魅力をもつものが渾然一体になってはじめて”楽しくて面白い”と思えるんじゃないか。
そのパートのひとつでしかない、日本酒単体ですべてを判断しようとするお前の考え方に少し無理があるんじゃないか。
俺にとって一番不味い酒は、Nよ、お前のつまらない”講釈”を聞きながら飲まなきゃならないときの酒だ」--------G来吟醸会会長は、豪快に笑いながら私に”大切”なことを教えてくれたのです。

私は、「新潟の人達によって育てられた」と言っても過言ではないほどの強い影響を”新潟の人達”から受けてきましたが、同時にテルさんの鮨店「東屋」のあるH市K浜の人達に育てられたとも思っています。
もしそのどちらかが欠けていたら、私は、今の私とはまったく違うタイプの人間になっていただろうと確信できるのです。

私は、だんだん”専門用語”を使わなくなっていきました。
「日本酒単体で、日本酒の楽しさと面白さのすべてを語ることはできない」-------G来会長の言葉を痛感した私は、店の中や外で「私に何ができるか」を考えるようになったからです。
その結果、「日本酒ねぇ、匂いが変だしベタベタするし、おかしな味がいつまでも口に残るし、二日酔いがひどいしあまり飲みたくないなぁ」と言われる”誤解”を解き、そのレベルも個性の違いもきわめて大きいことが日本酒の最大の魅力であることを少しでも分かってもらうため、”専門用語”を「封印」して私の店に来られるお客様と接するようにしていったのです。

”講釈”を極力ひかえ、ただひたすら”試飲”してもらい、要望がない限り”技術的な話”はしないように努めました。
〆張鶴、八海山、千代の光、國権そして生酛という少ない銘柄しかない私の店であっても、各銘柄の本醸造から大吟醸のフルラインの取り扱いのため、エンドユーザーの消費者に日本酒の違いの大きさを感じられるだけの”幅”はあったと思います。
「日本酒って、こんなに味が違うものなんですね。驚いたななぁ」------そんな日々の中で、私はあることに、事前の想像以上に苦しんでいました。
”違い”の説明を要望されたとき、”専門用語”を使わず”技術的な話”もしないで、要望されたお客様が”納得”される説明をすることは、きわめて困難なことだったからです。
初めのうちは、今思い出すと自分でも笑ってしまうほどの”悪戦苦闘”でした。そんな日々を繰り返すうちに思ったことがあります。
「単純に考えたほうが良いのかも知れない。要するに自分自身がなぜその酒や、その蔵が楽しくて面白いと心引かれるのかを、素直に自分の言葉で話せばいいのではないか」-----ふと、しかし強く、そう感じたのです。
そのおかげで私自身も、少し楽になったような気がします-------慣れない窮屈なスーツとネクタイを脱ぎ捨て、TシャツとGパンの”私本来の姿”に戻れたような気持になったからです。

もともと”差別化”のためではなく、継ぎたくない”酒販店の三代目”という役割を続けるための”必要な道楽”として日本酒を売ろうとしてきた私は、この時期以後、肩の力が抜け「日本酒という遊び」をより楽しい、より面白いと感じるようになっていったのです。
店での接客もその例外ではなく、質問されたことを、苦労しながらも比喩や例えを多用し、ほんの少しでもその答えを納得してもらえることが、楽しくて嬉しいと思うようになっていきました。
今振り返ると、鶴の友の樋木尚一郎社長の、その当時の”業界の常識”の中では「異端」と言われていた、エンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)に対する考え方、対処の仕方にも、私は強い影響を受けていたことを感謝の気持とともに実感しています。

それまでの私は、例えてみると、人気のあまりない「日本酒同好会」の幹事みたいなものでした。「あまり会員もいないし、行くと訳の分からない”講釈”を聞かされ、無理やり会員にされそうだしなぁ」------そう思われても”間違い”と言い切れない”状況”でした。
しかし、”自然体の私”にもどってからは、不思議に訪れる人がすこしづつ増えてきました。
〆張鶴や八海山の”知名度”が上がり、”フォローの風”が吹き始めたこともあり、「日本酒同好会」に私の同世代前後の「会員」も増えてきたため、幹事の私も”忙しく”なってきました。

本で見た八海山を買うつもりで来店された仲がよさそうな30歳くらいのご夫婦が、試飲をした結果まるで好みが違うことが判明し、ちょっとした”夫婦喧嘩”の後でも妥協できず、〆張鶴 純と千代の光のしぼりたて生原酒というまったく”違うタイプ”の酒をお互いに抱えて帰ったりとか、「日本酒が熟成する、枯れるというのはどういうことですかねぇ」との私自身が十分分かっていると”誤解”していた質問に、相手が納得できる説明ができずに絶句し、S髙研究員を介してG力研究所の”化学の専門家”のレクチャーを受けたうえで、理想的な低温で1年貯蔵したものと新酒の〆張鶴のしぼりたて生原酒を用意し、2年がかりで”納得”してしてもらったことなど-------店にいるだけでも楽しませてもらったり、お客様に教えてもらっていたのです。
そんな月日を送っているうちに、「日本酒同好会」もだんだん”人気”がでてきました。
そのうち外出先で、”試飲用の日本酒無しの状況”でも質問がくるようになり、できるだけ普通の言葉を使って話すように努めたのですが、「Nさんと話していると日本酒が飲んでみたくなりますねぇ」と言われることが増えてきました。

私が”業界”を離れた平成3年には、私の店も新潟淡麗辛口を中心にした”地酒業界”にも確実な”成功の兆し”がありましたが、私は強い懸念を感じ始めていました。
昭和60年代に入ったころから、日本酒に強いフォローの風が当たっていました。
私の店でも〆張鶴、八海山は余裕はまるでなく、その供給力不足を久保田で埋めている状況にあったのですが、全体として見ても、トップクラスの新潟淡麗辛口の需要が供給を上回る事態になっていました。
久保田にしても、その”仕掛け”が時期を得ただけではなく”大規模”でもあったため、「棚に置いとけば何もしなくても売れる」という状況になるのは時間の問題でした。
私自身もその気持が分からなくはないのですが、先行きに自信を持った”地酒業界”は蔵も酒販店も、拡大戦略に大きく舵を切ったのです-------拡大戦略自体は私も悪いとは思いませんが、誰のための拡大戦略なのかという点では私は疑問を持たざるを得ない心境にありました。
20歳代の初めに、同世代の自分の友人にすら日本酒にまったく関心を持ってもらえず、長い”悪戦苦闘の時代”を経て、ようやく日本酒の面白さと楽しさを周囲に理解してもらえるようになった30歳代前半の私は、エンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)に認知され評価されることがいかに難しく、いかにありがたいことかを痛感していたからです。

”地酒ブーム”がピークを越えて、下り坂に入っていこうとしていた平成7年ごろ、私は”業界”を離れてエンドユーザーの消費者の立場にあったこともあり、強い懸念が「弱くはない批判的見解」に変わっていました。
”業界”を離れても私は、ありがたいことに、〆張鶴、千代の光、そして鶴の友の各蔵元との交流が続いていましたし、早福岩男さんや一部の酒販店との交流も続いていました。
この方々から入ってくる”情報”で確認できたことや、自分の目で見たり自分の耳で聞いた「エンドユーザーの消費者の視点を欠いた拡大戦略の結果、末端で必然的に起きる弊害」が、エンドユーザーの消費者の「日本酒離れ」を確実に促進させていることに”強い危機感”を感じていたのです。

細井信浩専務と最初に会った平成13~14年ごろには、焼酎の台頭もあり日本酒のシェアは一桁のパーセントにまで低下していました。
そのとき私が細井専務に申し上げたかったことは、「日本酒はエンドユーザーの消費者、特に細井専務と同世代の若い層にまったくと言っていいほど支持されていない。現在日本酒の需要を支えているのは、新潟淡麗辛口によって昭和50年代後半から平成の初めにかけて日本酒のファンになってくれた私と同世代の人間です。しかしこの年代以下には支持層が少ないため、この状況を放置すると年々シェアは低下する。しかも、現在の状況は私自身が体験した昭和50年代の初めの”冬”より”厳しい冬”のように思える。
細井専務と同世代の20歳代、そして30歳代の層に”足場”を築けないともっと厳しいことになりかねない」-------という”危機感”と、
「かつて”既存の日本酒”が拾えなかった若い層の”潜在需要”を、その革新性で拾い、支持を拡大する結果を生んだ、昭和40年代後半~50年代前半の新潟淡麗辛口の”計画された試み”が、”日本酒厳冬の時代”に対処していかざるを得ない細井専務の”参考”になるのではないか」という私個人の”感想”でした。
しかし東広島から帰ってきたばかりの細井専務には、東広島で点火した”燃え盛る火”に水を注されたという思いがあったのかも知れませんし、私の言い方にも、”新潟至上主義者”と誤解されるような面があったのかも知れません。
いづれにせよ私は、将来、細井信浩専務とあまりお会いする機会はないのではないかと感じていました。

ところが、私自身が”縁”というものを感じざるを得ないあることで、昨年の後半、私は細井信浩専務に”お願い”をしました。
その”お願い”は快諾していただいたのですが、電話で話した”印象”は、7年前とはかなり違っていたのです。
細井専務はきわめて忙しく、ほとんど蔵にいないような状況でしたが、何回か電話で話させていただくうちに、もう一度7年前の”話”をさせていただきたいような気持に、私はだんだんなっていったようです。

新潟淡麗辛口の”計画された試み”のポイントは、私個人の知りうる範囲の中で受けた印象では、「規格を押さえたうえでの規格外」だと私自身は感じています。

嶋悌司先生は、酒造技術者、酒造研究者の”世界”で認められる十分な実績があり、
早福岩男さんは酒販店以前の”仕事”で成功していて、”店主”としての実力には十分な評価がありました。
その方々が、”業界の常識”ではなく、”業界外の世間の常識”から日本酒の将来を考えたとき、”業界の常識の範囲”から飛び出た「規格外」に全力を投入せざるを得なかった------それゆえ新潟淡麗辛口は当時のエンドユーザーの消費者の「日本酒に対する先入観」を吹き飛ばし、支持され評価された-------と私個人は思っています。

細井信浩専務が、平成19酒造年度の全国新酒鑑評会の決審の審査員の一人だったという事実は、前述したように、酒造業界や東広島において、國権と細井信浩専務の実績が十分に評価されていることの証明です。
その意味で、現在の細井信浩専務は十分「業界の規格」を満たしていると思えます。
現在の新潟淡麗辛口は、鶴の友、千代の光、〆張鶴などの一部の蔵以外は、残念ながら「業界の規格の範囲」に収まっています。
30年以上前の「革新性」にとって、今もその「革新性」を保つことはきわめて困難なことなのです。
私の個人的見解ですが、今の「革新性」は「業界の規格の範囲内」にはないと思われます。
今の「革新性」は、細井信浩専務と同じように、社会の各々の現場で若手を卒業して中堅になりつつある”業界外の同世代の人達”の中に、そのヒントがあるのではないかと私は感じています。
そして、いろいろな意味で「小さな蔵の大変さ」があっても、5年後か10年後かも分かりませんが、そのヒントを掴み取り”業界外の同世代の人達”の応援も得て、「規格を押さえたうえでの規格外」の、日本酒に関心の無い若い層にも支持される「革新性」を感じさせる國権を細井信浩専務が造り出してくれることを、私は期待しています。

地元の福島県の庶民の酒飲みの皆さんや、県外の國権の取り扱い酒販店に行くことが可能なエンドユーザーの消費者の皆さん、ぜひ國権を飲んで今の”味”を覚えていて下さい。
私の受けた印象では、たぶん私が申し上げた”たわごと”は聞いていただけたとは思えませんが、細井信浩専務は”動こう”としています。”動く”ことによって”酒質”も、たとえゆっくりでも良いほうに動いていきます。
定期的に飲み、ゆっくりと変わってゆく”味”を見続けていくのも、日本酒ならでの楽しさと面白さで、日本酒の”業界”を離れて16年たっても、私が引き付けられている魅力のひとつなのですから---------。


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