日本酒エリアNを書き始めたのは2005年の8月ですが、記事の題名としては、”〆張鶴について”はごく最近「〆張鶴について--NO1」まで書くことはありませんでしたが、今まで書いた記事(長いブログのスタートです、鶴の友についてシリーズ、日本酒雑感シリーズ、國権についてシリーズ)のほとんどで〆張鶴・宮尾酒造と宮尾行男社長のことを書かせていただいています。
私自身の”日本酒の関わりと体験の『歴史』”を振り返ったとき、鶴の友・樋木尚一郎社長と早福岩男早福酒食品店会長そして〆張鶴・宮尾行男社長を結んだ線が私の”基準線”ゆえに、鶴の友について書いても早福さんについて書いても、必然的に〆張鶴・宮尾酒造のことも書くことになってしまうのです。
そしてこの”基準線”は、現在も私の中の”基準線”として存在しています。
樋木尚一郎社長にも早福岩男さんにも、残念ながらもう7~8年お会いする機会(私が新潟に行けてないため)がないのですが、電話でお話を伺う機会は少なくないため、完全では無いのですがある程度は「自分が知りたいことの”アップデイト”はリアルタイムで出来ている」と言えるのですが、年に数回FAXや手紙を送らせて頂いてはいますが10年以上直接お会いする機会も無く、酒造業界以外のことも含めて大変にお忙しい状況を私自身も十二分に承知している宮尾行男社長の貴重なお時間を浪費し煩わさせることにも、さすがにおそまつで能天気な私にも”遠慮”があり、電話でお話を伺うこともきわめて少ないため「アップデイトがあまりされていない状況下にあり」、”〆張鶴について”という題名の記事は書きにくい状態にありました。
鶴の友について(2006年6月~8月)、鶴の友について-2(2007年9月~2008年2月)を書き終えたとき、本当にしばらくぶりになるのですが村上にお邪魔し”リアルタイムの〆張鶴・宮尾酒造”を見させて頂いた上で、”〆張鶴について”を書こうと思っていたのですが諸事情のため新潟県に行く機会が訪れずに、現在に至っています。
その私が、〆張鶴について--NO1を書いたのは、(副題の純米酒雑感が示しているように)私自身の純米酒に対する「”感じ方や考え方”という私個人の主観」を書いてみようと思ったからです。
純米酒雑感となれば私自身にとっては、〆張鶴 純 についての話が中心にならざるを得ない状況にあり、〆張鶴 純 の話が中心となればその記事の題名は”〆張鶴について--NO1”になるのが私の中では”自然”だったのです。
そういう”事情”で書くことになった〆張鶴について--NO1は、単に”長い作文”なだけではなく純米酒に焦点を絞ったためそれ以外の部分の〆張鶴についてはあまり書かれていないため、日本酒エリアNの他のシリーズを見ていない方には、少し分かりにくかったかも知れません。
(もっとも記事を全部読んでいる人は、私の直接の知り合いでもごく少数しかいませんが-----)
「アップデイトされた〆張鶴について」は、村上を実際に訪れることが出来た後に書くつもりでいますが、ここでは〆張鶴についての私のとりとめのない感想、思いつくままの感想-----「雑感」を過去に書いた記事の引用を含めて書いていきたいと考えています。
〆張鶴雑感(昭和五十年代初めより~)
書画、骨董でも”初心者”に対するアドバイスとして、
「知識や理屈に頼らず、本物を見ることから始めたほうが良い。良いものを長く見続けていると本物と違うものを見たとき、何が違うのかが分からなくても、”何か”が違うという”違和感”を感じるようになる。その”違和感”を解明しようとするときに知識や理屈が”ツール”として必要になってくるだけなのだから-------」と、教えられると聞いたことがあります。
結果として、”酒”においては私は、このアドバイスどうりの”道”を歩いてきたように思うのです。
私が最初に出会った蔵は、八海山でした。
当時の八海山は、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)の徹底した指導の下、越乃寒梅で育った高浜春男杜氏が全力投入し八海山の”酒質ピーク”へ向かって前進し続けていた時期で現在とはだいぶ”雰囲気”の違う、本物を本気で目指していた蔵でした。
前述したように、その八海山の南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)の紹介で、ほとんど同時というタイミングで〆張鶴と出会っていました。
その最初から私は、〆張鶴と八海山を”同時並行”で比べられる”環境”に恵まれたのです。
知識も能力も無い20歳代前半で、今よりはるかにおそまつで能天気だった私が頼りにできたのは、新潟の蔵を隅々まで知る早福岩男さんの”客観的判断”と、自分自身が感じる”肌の感覚”だけでした。新潟の蔵に出会った私は、最初の数年、多いときには年間6回少ないときでも4回は新潟に出かけていました。
そんな時間の中で、私は八海山より〆張鶴に強い興味と愛着を感じ始めていたような気がします。そして”酒”や蔵を自分なりに判断する際に、無意識のうちに〆張鶴と比べていたようにも思えるのです。村上市にある〆張鶴、宮尾酒造を訪ねる回数が多くなるにつれ”酒の素人”である私も少しずつ慣れてきて、以前には見えなかったものがほんの少しずつ見えてきました。
蔵には存在していたのに私には見えていなかったものが見え始めた------という意味での”発見”が数多くあり、それが私には楽しくて堪らなかったのだと思われます。「醪の温度をジャケット式タンクや、タンクにプレートコイルを巻いて冷却水を通して0.5度の単位で調節しようとしているのに、蔵の中の温度が4度も5度も変化したのでは正確が期せないと思うので空調をかけていますが、灘の大手のように三期醸造や造りの期間を延ばすのが目的の空調設備ではありません」
この言葉は、私の住む北関東の県より冬場の低温に”恵まれ”、朝晩の温度変化もはるかに少ないと思うのになぜ空調設備が必要なのでしょうか-----という私の”質問”に対する宮尾行男専務(現社長)の回答でした。
またこの時期〆張鶴は約3500石(一升瓶換算35万本)でその需要に対して”パンク状態”にあり、酒質に影響を及ぼさないようにゆっくりと時間をかけながら5000石前後をめどに設備や機械を更新したり導入し、増産余力の向上を計っていました。
そのせいもあり〆張鶴に行くたびに蔵の姿が微妙に変わっていて、私の興味を捉えて離さなかったのです。
しかもこの時期〆張鶴の酒質は、向上はあっても後退を感じることなどまるで無かったのです。陸上の100mに例えて言うと、初めて見た選手が10秒00の”厚い壁”を突き抜けた9秒台のレースをする選手で、なぜ”厚い壁”を突破できるのかをその選手の日常やトレーニングの姿をできるだけ見ることで、(知識や理屈を持っていなかったので)自分自身が感じる”肌の感覚”を積み重ね”帰納法的”に探ろうとしていたのかも知れません。
そんな数年が、おそまつな私なりの、100mのレースを計る”ものさし(メジャー)”を造ってくれたのかも知れません。
〆張鶴という”ものさし”を手にした私は、基本的には共通の”基盤”を持ちながらも、10秒00の”厚い壁”を突き破る”方法と個性”に違いのある、千代の光、そして鶴の友を知ることになります。
〆張鶴という”ものさし”のおかげで、何の先入観念も予断も無く9秒台のレースをする千代の光、そして鶴の友の”凄さ”が、素直に実感できたからです。
そして私は、千代の光、鶴の友においても、「見て分からないことは、どんなに初歩的なことでも聞く」ことで”肌の感覚”を積み重ねていくことに終始したのです。
その結果、少しですが”ものさし”の精度も向上し、〆張鶴という”ものさし”への私自身の理解も進んだような気がします。
〆張鶴という”ものさし”の根幹にあるものは、派手さやけれん味とはかけ離れた「真面目さ」であり、それが〆張鶴を〆張鶴たらしめている------私はそう感じるようになっていったのです。
そしてその「真面目さ」は、状況が許す限り”変えてはいけないものは変えない”ということにつながる「真面目さ」だったのです。
これは私が2008年9月に書いた日本酒雑感--NO5の一部の引用です。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20080917)
私個人は、地酒の蔵であり続けようとしている蔵は、”形のうえ”では鶴の友と〆張鶴の間にそのすべてが入っているような気がしています。
”企業”としての自然で当然の利益を毀損してまでも”地酒の蔵”であることを優先する鶴の友、”形のうえ”では酒蔵の中でも最も成功した”企業”のひとつでありながら状況が許す範囲で”拡大のスパイラル”に抵抗し、地酒の蔵であることの部分をできるだけ残そうとしている〆張鶴-------対極にあると思えるこの鶴の友と〆張鶴の間には、当然ながら”差異”もありますが似ていると言うか”共通”の部分もあるのです。有名銘柄を含む新潟淡麗辛口は昭和五十年代前半と現在では、残念ながらその姿を変えています。蔵の大きさ、知名度だけではなくその酒質が昭和五十年代とまるで”別物”になってしまった蔵が少なくない中で、鶴の友と〆張鶴(千代の光もそうですが)はそのころの酒質を維持して30年以上に渡って変わらぬ酒質をエンドユーザーの消費者に提供し続けてくれています。
30年以上前の半分強にまで販売数量を落としながら、強い”信念”で地酒の蔵としてその酒質を守り続けた鶴の友は本当に稀有の蔵で、そのご苦労のごく一部しか知らない私ですら造り続けていだだいているのは、やや大袈裟に言うと”奇跡”だとしか思えないのです。
一方、30年前に比べ3倍前後の販売数量があり、”企業”としても成功を収めた〆張鶴が僅かに醸造石数の増大の影響を受けながらも、変わらぬ酒質を維持し提供し続けてくれていることも通常では”ありえない”ことだと私個人は感じてきました。
そしてそれが、他の超有名な新潟淡麗辛口の複数の銘醸蔵と〆張鶴との”違い”だとも感じてきたのです。一万石級の製造石数とその抜群の知名度、ひとつの都道府県あたりの正規取扱店の数がきわめて少ないにせよほとんど全国をカバーしている販売網--------これらを知る業界関係者や日本酒のファンにとって、「〆張鶴は、村上市あるいは新潟県下越地方の地酒の蔵として存在している」と言われたら抵抗を感じたり異論を持つ方は少なくないと思われます。
しかし宮尾行男社長始め宮尾酒造の皆様の意識の中では、そのように感じておられるのではないかと私は長年に亘って想像してきました。そう感じる私なりの理由は、
- 昭和五十年代前半より宮尾行男専務(現社長)、故宮尾隆吉社長の”考え方”を直接伺える機会に恵まれただけはなく、現在ほど有名ではなかった時期に正規取扱店の一人として、その”考え方”がどのように醸造の現場や販売方針に反映していたかを私自身の実体験の中で知る機会があったこと。
- 私が業界を離れた平成3年以降、〆張鶴も日本酒ブームの中で拡大し続けていきましたが、エンドユーザーの消費者の一人として現在まで(ありがたいことに)お付き合いさせていただいている私には、”企業”として自然で当然な成長を拒んではいないが同時に出来得る限り醸造方針も販売方針も変えないという”意志”も感じられたこと。
- そして何より私の周囲にいる30年以上〆張鶴 純 を飲み続けている「吟醸会」の仲間達が、「〆張鶴は変わっていないし飲み飽きもしない」と言っていることです。
- 上記の3の事実は簡単のように思えて実はきわめて難しく稀なことであることを、私や「吟醸会」の仲間達は30年の時間の経過のおかげで実感しているからです。
かつて”業界”の人間だった私にとって、初めて出会った日本酒であり”本籍地”とも言える新潟淡麗辛口も30年もの時間が経過すると、その姿も認識も変わるほうが自然と言えます。
むしろ変わらないほうが”不自然”なのです。
変わらないためには”不自然さ”、言い換えれば”強い意志”が必要なのです。3500石が一万石級に増えても僅かの変化はあるにしても”変わらない”ことは、鶴の友が”変わらない”ことと質や形は違うものの、実は稀で困難なことなのです。
〆張鶴の数量拡大は、4~5年ではなく、30年に亘って少しずつ慎重に計画され着実に実行されたものだ------私はそういう印象を持っています。
基本的に地元、県外を問わず〆張鶴の営業方針は「酒販小売店との直接取引」に限定されます。
新規取引には、私が取引をさせていただいた昭和五十年代前半からきわめて慎重で、
「取引する以上ただ扱っているということではなく、小売店にも蔵にもメリットのある数量でなければ取り扱いの意味がないのではないか」-------という”考え方”がその背景にあると私は感じてきました。
〆張鶴が”店の飾り”で良い場合以外は、酒販店側も、売れば売るほど数量の拡大が必要になってきます。
しかし急激な醸造数量の拡大は、酒質の向上とは”相性が悪い”ため、酒質の維持が可能な範囲での(設備の改善や設備の新規投入をして)数量拡大しかできず、その結果私が取引させていただいた最初の年から需要期(10月~3月)は割り当て、昭和五十年代後半には
「全体の醸造数量が昨年の110%になりますので、今年のNさんのお店の年間割り当て数量は同じく110%になります。月別に数を記入してありますが、月別の数量の変更はできるだけご要望にそえるようにします」-------という状況になっていました。
(事実、私の店の販売状況に合わせた頑なではない対応を、〆張鶴・宮尾酒造の皆様は可能な範囲でして下さいました)
しかし昭和六十年代に入ると、最初からこの状況を予測し「売る本数より投げる本数のほうが多くても実績を積み上げてきた」、エンドユーザーの消費者に”普通に販売していたため”店の規模の割にはかなり多いと言えた”実績”を持つ私の店でも、〆張鶴は”逼迫”するようになっていて、残念ながら新規のお客様に買っていただく1本を捻出するのに苦労する状態になっていました。この時期私も他の酒販店の方々と同じように、〆張鶴や八海山の”需要と供給のギャップ”を埋めるため久保田の積極的販売に出ざるを得なかったのですが、この”状況”は私だけではなく、昭和五十年代初めから新潟淡麗辛口の販売を始めて先行していた酒販店のほとんどもこの”状況”に置かれていたことが、久保田の異例とも言える”大成功”の原因のひとつだと私は実感しています。
そしてこの久保田の”大成功”が、新潟淡麗辛口の先行した有名銘柄に大きな影響を与え大幅な数量拡大へと舵を切らせるのですが、〆張鶴・宮尾酒造はその方向には向かわず自分の”ペース”を守ったのです--------そしてそれが現在の新潟淡麗辛口の他の有名銘柄と、〆張鶴・宮尾酒造との「決定的な違い」となったのです。毎年5%づつ製造する数量を増やすとすると、22年で約3倍の数量になります。
そう考えると、30年以上かかって3倍前後の石数になった〆張鶴・宮尾酒造は、拡大を自ら強い意欲を持って意図した”企業”とは、私自身は、とうてい思えません。
〆張鶴・宮尾酒造が”成功した企業”であり、地酒の蔵と言うには桁が違う販売数量を持っていることは私も十分に承知していますが、しかしその事実が必ずしも〆張鶴・宮尾酒造が「地酒であり続けることに強いこだわりを持つ蔵であること」を否定する証拠にはならない--------私はそう感じています。〆張鶴・宮尾酒造に、批判的な見解を持つ人達の批評のすべてが間違っているとは私も思っていませんが、口の悪い人達に”新潟ナショナルブランド”と言われる他の新潟淡麗辛口の有名銘柄に対するのと”同じ観点での批評”は少し的外れのような気が私はしています。
社員の生活に責任を持つ”企業”である以上は、数量拡大による利益の拡大の追求は自然なことです-------しかしそれを最優先したとするなら、不可思議と言うか整合性に欠けると言うかそれとも矛盾とでも言うべき”非合理性、非効率”が〆張鶴・宮尾酒造に存在していると私は感じているからです。
その”非合理性、非効率”は〆張鶴の数量が増えれば増えるほど、まるでバランスを取るかのように印象が強くなってきたように思うのです。
言い換えれば”非合理性、非効率”は、宮尾行男社長始め宮尾酒造の方々が「〆張鶴がそれを失ったら自分達の〆張鶴ではなくなる」と思われている部分--------〆張鶴はファクトリーではなく”酒蔵である”ことへの強いこだわりだと私は思うのです。
〆張鶴・宮尾酒造はこの30年、その酒質の特徴と同じように、”企業”としての成功と酒蔵であり続けることのバランスを取ることに”苦心”し続けてきたように私には感じられます。その”バランスを取ること”を支えた方法は特に珍しいものでも目新しいものではありませんでした。
- 〆張鶴の酒質向上、酒質維持を最優先する。
- そのためには酒質を毀損しない範囲での慎重で計画的な増石しかできない。
- そうすると必然的に販売も計画的販売方針を採らざるを得なくなる。
- 計画的販売方針を採るためには、〆張鶴の”考え方”を理解してくれる酒販店(小売店)との直接取引が必須になる。
- 具体的には、村上市を中心にした地元の従来の需要を大事にしながらも、昭和五十年代前半にすでに〆張鶴の”代名詞”になっていた〆張鶴 純 や特定名称酒を増石の中心にして、その時点でも〆張鶴 純 や特定名称酒に強い需要のあった関東を軸にした新潟県外の酒販店(100%直接取引で増石の範囲内で対応できる限られた軒数ですが)販売していくが、増石そのものに限界があるため「年間割り当て」にならざるを得なかった。
〆張鶴・宮尾酒造の採った方法は、上記のように、他の新潟淡麗辛口の有名銘柄とさして変わったものではありませんでした。
しかし〆張鶴・宮尾酒造はどんな局面でもこの”方法”から逸脱することなく、きわめて強い増産圧力にさらされた時期も守り続けてきたのです。
鶴の友・樋木酒造の”頑固さ”とは質的にもタイプ的にもその”違い”は大きいのですが、
〆張鶴の梃子でも動かない”頑固さ”も私は感じ続けてきたのです。鶴の友らしさを守るため30年前の約半分強まで醸造石数を減らした、鶴の友・樋木酒造は「有り得ない”企業”」ですが、〆張鶴・宮尾酒造も酒造業界の中では「きわめて稀な”企業”」だと私個人は痛感しているのです。
そして日本酒業界にとって、ある意味で必然的と思える危機の中で「地酒らしい地酒」として生き残っていく酒蔵は、対極にあるように見えるが共通の部分をも持つ鶴の友・樋木酒造的な部分か、〆張鶴・宮尾酒造的部分を持つ必要がある--------鶴の友と〆張鶴の”考え方”の間に”考え方のベース”を置かないと生き残れないのではないか、と私個人には思われてならないのです。
かなり長い引用になってしまいましたが、これは私が」2009年4月に書いた國権について--NO4の一部です。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090404)
〆張鶴は、「21世紀には日本酒なんてものは無くなる」------30数年前のまだ学生であった私の”不埒な感想”を衝撃を伴って覆してくれた、私にとっての『最初の基準点であり、現在も変わらぬ”ものさし”』です。
現在から振り返ると、八海山と同時に私が最初に出会った日本酒の蔵が〆張鶴だったことに、きわめて大きかった”運の良さ”を感じてそのことに大きな感謝をするしかないという心境になります。
もし私が初めて訪れた蔵である、八海山の南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)が「私が電話しておくからNさん、明日村上に行って〆張鶴・宮尾酒造の宮尾行男専務(現社長)の話を聞いてきなさい」------と言ってくれなかったら私は現在とはかなり違う、日本酒に対する”感じ方、考え方”を持っていただろうことを確信できるからです---------。
現在の私の”感じ方、考え方”が、鶴の友・樋木尚一郎社長の強い影響を受けていることを私自身も否定しませんが、〆張鶴という”ものさし”が無ければ鶴の友の『稀有の凄さ』に私自身が気付くことなど、ほんの少しさえ有りえないことだったのです。
〆張鶴という私にとって原点でもあり最初の基準点の存在が、千代の光、鶴の友、そして新潟淡麗辛口以外の南会津の國権、伊藤勝次杜氏の生酛に向かう方向を決定づけたのではないか-------今振り返ると私はそう思えてならないのです。
〆張鶴と出会うと同時に私は、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)というもうひとつ基準点にも出会っていました。
”町の酒屋”としてどう日本酒を売っていくのか-------おそまつで能天気な私には”もったいないような教え”を昭和五十年代初めより直接伺う機会に恵まれていたのにも関わらず、
長い間「馬の耳に念仏」のような状態でしたが、たぶん”牛の歩み”よりさらに遅いスピードだったと思われるのですが、早福岩男さんという基準点としての”大きさと重さ”を私は少しづつではあっても分かるようになっていったのです。
そして昭和五十年代半ばに、鶴の友・樋木尚一郎社長という最後の基準点に出会い、
その後の私がその”線”から極力ぶれないように努めることになる「基準線」が完成することになったのです。
もし〆張鶴・宮尾酒造という”最初の基準点”に出会わなかったら、おそらく私は、早福岩男さんにも鶴の友・樋木尚一郎社長にも「基準点になるような出会い方」をすることは無かったと思われます。
そして〆張鶴・宮尾酒造に出会うのがもし数年遅れたら、「基準線」が完成することは無かったとも思われるのです---------その意味でも〆張鶴・宮尾酒造は私にとっては原点であり、ありがたい”最初の基準点”の日本酒の蔵なのです。
昭和50年代前半、新潟に行き始めた頃と記憶しているのですが、今でも忘れられないことがあります。
仕込みの時期に村上市上片町にある〆張鶴を”見学”させていただいたときのことです。
私は、故宮尾隆吉前社長自らのご案内で蔵の中を見せていただいておりました。
時期的に、出品吟醸酒の造りがピークに差し掛かったころだったと覚えているのですが、
蔵の中に藤井正継杜氏を見つけられた宮尾隆吉社長は、
「まだいたのか。すぐに帰りなさい、杜氏がいない間は皆んなでカバーするから安心して帰ってきなさい」と、声を掛けられました。
藤井杜氏は、その当時の私には”ちんぷんかんぷん”の、吟醸酒造りの”ある工程”が終わったら帰らせてもらいます-------と答えられたのですが、その返答をお聞きになった宮尾隆吉社長は、本当に”困った”ような表情を見せられました。故宮尾隆吉前社長には、八海山におられた南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)に紹介していただき、最初に宮尾酒造に行かせていただいたときから、親切な”対応”をしていただいておりました。
以前にも書かせていただいたように、私の酒販店としての”素養の無さ”を心配して早福酒食品店早福岩男社長(現会長)を紹介していただいたのも、このときすでに販売可能な数量に余力が無くなっていた〆張鶴のほとんどすべてをその双肩に担っていたため、
「数量の少ない形ばかりの取引では小売店にとっても蔵にとってもプラスは少ない」とのお考えから、新規取引には慎重にならざるを得なかった宮尾行男専務(現社長)との”交渉”の最後に”助け舟”を出して下さったのも、宮尾隆吉社長でした。
そのような経緯があったため、今思うと大変申し訳なかったと反省しておりますが、
おそまつで能天気な私にとって宮尾隆吉社長は、プレッシャーをあまり感じずにお話を伺える方で、質問をしやすい方でもありました。蔵の中から事務所に戻ってきてからも、ご多忙の宮尾行男専務(現社長)に代わって、宮尾隆吉社長はしばらく私に付き合って下さいました。
私は、自分のことながら今振り返ると「なんじゃそれは。馬鹿じゃないのか」と私自身が思うような”質問”を宮尾隆吉社長にしました。
「吟醸酒を造るというのはどうゆうことなのでしょうか」------思い出すと今でも”穴があったら入りたい”心境になる質問を私はしてしまったのです。
宮尾隆吉社長は、僅かに苦笑されましたがすぐにそれを消されて”質問”に対する答えを私に提示して下さいました。「吟醸酒に限らず酒を造るのが杜氏や私の仕事ですが、突き詰めていくと私達が造っていると思うのはちょっと”違う”のではと感じることがあるんです。
本当に酒を造っているのは”自然の摂理”とも言えるし、”酒自身”だとも言えるかなぁ-----。
醸造技術の進歩もあり杜氏の経験の積み重ねもあり、この方針で行けば概ねこんな風な方向の酒になるのではというところまでは把握できても、それ以上のことは分からないしそれ以上のことはできないのです。
本当のところ、私達にできる仕事は”酒自身が酒になる”ための”手伝い”だけなのかも知れません。
出品吟醸は余裕の無いぎりぎりの造りのため、そんな印象をより強く感じます。
明日をも知れない重病人を、祈るような思いで必死に”看病”する------そういう気持が強ければ強いほど酒が応えてくれるような気がします」この説明で分かりましたか、もう少し説明しますかと宮尾隆吉社長はさらにおっしゃって下さったのですが、私は思わず「よく分かりました」と言ってしまったのです。
限界ぎりぎりの”拡大解釈”をしてもこのときの私は、噛んで含めるような宮尾隆吉社長の説明の”意味”のごく僅かしか分かっていませんでした。「藤井杜氏も至急家に帰らなければいけないことが起きたのに、出品吟醸の醪が心配で心配で堪らずなかなか帰れないようだったので、先ほど声を再度掛けたのですが帰る気になったかどうか-------」
宮尾隆吉社長とお会いした回数はけして多くはありませんでしたが、お会いするたびにに私は”何か”を得ていたような気がします。
その”何か”が何であるかをその時点では理解できなかったのですが、いつもかなり後になってからその”何か”に”助けられて”いたようです。
何回も書いていますが私は平成3年に業界を離れました。
たぶん新潟にも蔵にも行く機会はあまりないだろう------会社員になった私はそう思っていました。 そう思って3年が過ぎました。
4年目に入ったとき宮尾隆吉社長が亡くなられたことを、人を介して私は知りました。私は新潟に行きたい”気持”が、自分で思っていた以上に強いものであることは自覚していましたが、”敵前逃亡”に近いような”離脱”をしてしまったため、実際に”新潟行き”を実行するのは”ためらい”がありました。
しかし宮尾隆吉社長の訃報が、その”ためらい”を跡形もなく吹き飛ばしてくれました。
葬儀からはかなり遅れたのですが、せめてお線香を上げさせていただくために私は”行動”を起こしたのです。
そしてその”新潟行き”では、〆張鶴の宮尾行男社長も、千代の光の池田哲郎社長も早福岩男さんも、そして鶴の友の樋木尚一郎社長も以前と変わらぬ態度で接していただけたのです----------私の”ためらい”が私の独り相撲であったことを知ることができたのは、宮尾隆吉社長の訃報のおかげだったのです。私は宮尾隆吉社長から得ていた”何か”に、その最初から最後まで助けていただいたと思われます。
そしてそれは私が当時感じていたよりも”大きなもの”だったことを、今の私は、改めて実感しています。
上記は日本酒雑感--NO5の冒頭の部分です。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20080917)
上記のように、何も知らず何も分からなかったにも関わらず、”ひょんなこと”から当時の日本酒業界の先端を走っていた新潟淡麗辛口の蔵に行ってしまった私にとって、〆張鶴・宮尾酒造そして宮尾隆吉前社長、宮尾行男専務(当時)は本当にありがたい存在でした。
初めて訪ねたときには〆張鶴・宮尾酒造が、伝統を受け継ぎながら”革新的な新しさ”を目指していた新潟淡麗辛口の”最先端を走る”数少ない蔵のひとつであることも、おそまつで能天気な私は知るよしもなかったのです。
そのときの私にあったのは、「人のアドバイスをそのまま受け入れる”素直さ”と知らない”世界”に対するわくわくするような興味」だけだったのです。
〆張鶴・宮尾酒造に接する機会を得た私にとって、「何も知らず何も分からなかった」ことは
皮肉なことに、ある意味で”最大の強み”となったのです。
たぶん、〆張鶴・宮尾酒造の”立っている位置”を少しでも知っていたら、酒販店に育った人間として日本酒の知識が僅かでもあれば、あれほど自分のお粗末さをさらけ出した「知りたいことを知るための”素直な質問”」などとうてい出来なかったと思われます。
現在の〆張鶴の正規取扱店の方の中でも、直接の面識があった人が少なくなっていると思われる故宮尾隆吉前社長も、宮尾行男現社長も苦笑されたと思われるのですが、最初の訪問のときから「私のお粗末さをさらけだした”素直な質問”」を馬鹿にすることなく丁寧に生真面目に答えてくれました。
今このときのことを思い出すと、本当に穴があったら入りたい心境になります-------なぜならその質問は、「大学の理学部の数学科の教授に、小学校の算数の計算式について質問したような」ものだったからです。
昭和五十年代初めの〆張鶴・宮尾酒造は、京都の町屋のように間口は狭いがどこまで進んだら行き止まりになるのかと思うほど深い奥行きの敷地に、余裕のある配置で蔵が存在しておりその蔵の中に”酒を造るすべて”が入っていました。
奥行きの中ほどには簡易的なプレハブで造られた、宮尾隆吉前社長のご趣味だった水彩画を書くアトリエ的な小さな建物もあり、その中でお話を伺う機会もあったのです。
仕込み中の蔵にはある種の”緊張感”が存在していましたが、それは訪れた外部の人間を”排除”するようなものではなく、むしろ心地良く感じられるものでした。
そんな”環境”の〆張鶴・宮尾酒造で、現在よりはゆっくりとした時間の流れの中で、宮尾隆吉前社長、宮尾行男現社長に「お粗末さをさらけだした”素直な質問”」をし続けることが出来る”最初の数年間”を持つことが出来た私は、今振り返っても本当に幸運でありがたいことだったと実感できるのです。
そしてこの数年間の”体験”が、おそまつで能天気な私のその後の日本酒の蔵、そして日本酒そのものに対する”接し方”を決定付けたような気がするのです。
自分が小学生で相手が大学教授だとしたら、教授の話を右から左にただ聞くだけでは分かったような気分になることが出来ても、「何が分かって何が分かっていないのか」が自分自身でも”ちんぷんかんぷん”のはずです。
小学生なりに自分の”許容量”の限度一杯まで分かりたいと思えば、たとえ相手が「こんなことも知らないのか、こんなとんでもない”誤解”をしているのか」と感じたとしても、”質問”というボールを投げ”答え”というボールを受ける--------”キャッチボール”を自分が納得できるまでしない限り、少なくても私自身は、「自分が何を分かっていないのか、どんな初歩的な”誤解”をしているのか」が分からなかったのです。
その”質問”も、知識や能力もないおそまつな私では「ど真ん中にストレートを投げる」しかなかったのですが、その結果”答え”も変化球でななく「ど真ん中のストレート」で返ってきたのです--------そしてそれはおそまつで能天気な私にとってはきわめて有効な”対処の仕方”であったため、その後「私の基本的スタイル」になっていくのです。
素直で率直なボールを投げるという”アクション”は、思いもしない剛速球が返ってきて負傷しかねないという”リアクション”と常に「背中合わせ」であることを、痛い思いをしながら私は”学んで”きました。
正直に言って、「聞かなければよかった、言わなければよかった」と後悔したことは10回や20回ではありません。
その中でも最大で今でも忘れられないのは、以前にも書いたことですが、昭和六十年代前半に”不用意な一言”のために、早福酒食品店の二階の部屋で早福岩男さんの”立会い”のもとに、当時朝日酒造の常務取締役工場長であった嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)に夜の9時から深夜3時まで「お叱りを受け続けた」ことです。
これも以前のに何回も書いていることですが、嶋悌司先生は”怖い”のが分かっていてもつい寄っていってしまう”魅力と面白さ”が身体一杯に詰まっている先生で、その楽しさについ”油断”して分不相応な発言でもしようもなら「”フルブースト”でお怒りとお叱り」が飛んできました。
この夜(というか深夜)、嶋悌司先生がお帰りになった後の私はさすがに”参っており”かなり疲れていたことも手伝い、相当”ふて腐れて”いました。
その私の態度を見て真剣に諭してくれた早福岩男さんの”言葉”も含めて、この夜の出来事は、私にとって本当に忘れられない思い出です。
何回も書いていると思うのですが、嶋悌司先生は”怖い”と同じ分量だけ”優しい”先生でした。
現在の私は、6時間も”叱り続けて”下った嶋悌司先生と、その嶋先生のお気持を受け止めきれずに”ふて腐れて”いた私を諭して下さった早福岩男さんには、本当に感謝の気持しかありません-------その夜の嶋悌次先生や早福岩男さんの年齢に近くなった現在の私は、6時間も叱り続け立会い続けることが「どんなに大変な”作業”であったか」を実感できるからです。
たぶん私は、”怖さ”と”優しさ”の両方の”恩恵”を嶋悌司先生から受けてきたのかも知れません。
素直で率直なボールを投げ、返ってくるボールを受けるというキャッチボールの最初の数年を送った私は、ほんの僅かですが以前よりは日本酒が分かるようになっていました。
しかしそれはゼロが0.001になったようなもので、それだけでは”どうしようもない”レベルのものだったのです。
私にとってこの”キャッチボール”の数年で得た一番大きなものは、過去に書いた記事から引用した”出来事”を目撃し体験したことでした。
それは、自分の店の中で”ふて腐れて”いるだけでは絶対に見ることも知ることも無かった光景でした。
そのときまでの”つまらない”と思えた私の日常には存在してないだけではなく、想像すらできない”日常”であり想像すらできない”人達”の造り出している”世界”だったからです。
私はそれまで知ることの無かった日本酒を造る人達の姿をとうして、無意識のうちに私自身にとっての”日本酒の姿”を探ろうとし始めたのかも知れません。
妻からも息子からも、「昨日のことももう忘れている」と批判されている私ですが、20年~30年前の”出来事”は引用した記事に書いたこと以外もよく覚えています。
たぶん、新潟淡麗辛口に出会う以前の私の日常が”モノクロの画像”だとしたら、〆張鶴・宮尾酒造に出会った以降の日常が”カラーの画像”に変わったような驚きの連続だったため、今もその鮮やかさの細部まで明確に記憶の中に存在しているからかも知れません。
この記事の冒頭に引用したように、書画・骨董に例えると、私が最初に出会った日本酒であった〆張鶴は私にとって”本物”でした。
おそまつで能天気な私なりの、その”本物”〆張鶴・宮尾酒造、故宮尾隆吉前社長、宮尾行男現社長との最初の数年の”キャッチボール”の中で、私は「”本物”の持つたたずまい、空気、雰囲気、そして日本酒を造ることへの”向き合い方”」を本当にほんの少しづつでしたが感じてきたように思われるのです。
そして〆張鶴・宮尾酒造以外の酒蔵を訪れたとき、〆張鶴・宮尾酒造と比べて「違和感を感じるか感じないか」を私は一番大事な部分として”意識”し始めるようになったとも思われるのです---------この最初の数年で私は「〆張鶴という”ものさし”」を幸運にも持ち始めていたのです。
「〆張鶴という”ものさし”」をスタートした時点で持てたことが、現在の私の日本酒に対する”感じ方と考え方”の原点になっていることは、私自身も否定できない大きな”事実”です。
鶴の友について、鶴の友について-2のシリーズを書き終え、そして鶴の友について-3を書き始めている現在の私は、鶴の友・樋木尚一郎社長の影響を強く受ける「地酒本来の役割と規模を追求すべきという”考え方”」の信奉者であることも否定できない事実です。
「超有名な知名度と一万石級の規模を持つ〆張鶴も、Nさんが言う”地酒本来の役割と規模”の酒蔵なのですか?」--------批判とも質問とも区別できないような”質問”をされることがあります。
「確かに〆張鶴・宮尾酒造は、その知名度も販売石数も蔵の規模も外観も昭和五十年代と比べれば大きく変わっていることは、私も否定することはできない。
その全国的に高い知名度、一万石級の販売力だけで”判断”すれば「〆張鶴・宮尾酒造は村上市の地酒の蔵として存在している」と言うには無理があるかも知れない。
しかし私は増大した販売力、まるで変わった蔵の規模・外観ほどには、〆張鶴・宮尾酒造の”中身”が変わっているとは思えない---------」
この日本酒エリアNの中で、私が出会ったころから30年以上をかけて〆張鶴・宮尾酒造が3倍前後の販売規模に拡大してきたことは、何回も書いています。
同時に、もし〆張鶴・宮尾酒造が「自ら積極的に販売数量の拡大を目指したとしたら」不可思議と言うか整合性に欠けると言うか矛盾と言うべき”非合理性、非効率”が存在していることも何回も書いています。
その最たるものは、蔵の姿を大きく変えざるを得ない状況の中で、近所とはいえ瓶詰めラインと精米工場を蔵の外に出すという”非合理性、非効率”を甘受してまでも、創業の地である上片町で酒を造り続けていることです。
効率、合理性という点から考えれば、製造石数に見合わない窮屈なスペースのため”非効率”を強いられる現在の蔵から「新しい場所に移り、規模に見合った新しい蔵」を造ったほうが自然ですし、コスト的にも当然有利だとおそまつで能天気な私ですら分かる”簡単な事実”です。
これも何回も書いていることですが、10年ほど前に、「〆張鶴・宮尾酒造に、現在の上片町を離れ新しい場所に蔵を移すという”動き”がある」という噂が”業界の一部”に流れ、私の耳にも聞こえてきたのですが、その噂を教えてくれた知人に私は、「〆張鶴・宮尾酒造が、私個人が知る限りにおいては、とうていそうゆう”動き”をするとは信じることは出来ない」---------------と私個人の”感想”を言ったことを覚えています。
日本酒業界の”現役”だった知人が言うことですので、「ほんの少しは何らかの根拠、動きと言えるものがあったのだろうとは私も理解できますが、その知人は最後まで納得しませんでしたが、私自身にとっては「有りえないと感じること」だったのです。
そしてその数ヵ月後、私は村上に行くこととなったのです。
残念ながら、平成10年ごろに村上市に行き〆張鶴の宮尾行男社長にお話を伺ったのが、私の”一番最近の〆張鶴訪問”なのですが、そのときの”蔵の景色”は最初に行かせていだだいたときと比べ大幅に変わっていました。京都の町屋のように、間口は狭いが奥行きが驚くほど深い敷地で、村上の町中と言える上片町に〆張鶴は存在しています。正面の入り口のたたずまいも事務所の雰囲気もまったく変わっていませんでしたが、その奥の蔵のスペースは様変わりしていました。 蔵の中ほどにあった、故宮尾隆吉前社長の趣味の絵を描くためのプレハブのアトリエがあったころの”風情”はまるで無く、酒蔵としても”武骨”になっていました。
「私の寝室にエアコンを入れようとしても、その室外機の置き場所にも苦労しているんですよ」と久しぶりにお会いした宮尾行男社長が苦笑いされて話されたくらい、スペースの余裕がまったく無くなっていたのです。私は何回も書いたとうり、”能天気な極楽トンボ”ですがそれを自覚していたので「分からないことはストレートに質問する”癖”」が昔からありました。 そのころ「〆張鶴は、限界に達した上片町から移転して新工場を造ることを考えている」という噂が業界の一部で流れていて、私の耳にも聞こえてきました。私は、「自分が知りうる範囲では有りえない」と思っていましたが、道をはさんで本当にすぐの反対側であっても瓶詰めラインを蔵の外に移すことは、非常に非効率でふつうではなかったのも事実だったのでストレートに宮尾行男社長にお聞きしました、「移転して新工場を造るという噂は事実なのでしょうか。またこれ以上の増産を本当にお考えなのでしょうか」と。
「新工場の件はまったく考えていない。またこれ以上の増産も、先ほどのエアコンの話のようにできる状態でもないしするつもりもない」 宮尾行男社長らしい穏やかな口調ながら、ストレートな答えが返ってきました。
もう十年近く、蔵にお邪魔していない私は現在の〆張鶴の販売石数がどれほどかは分かりません。しかし宮尾行男社長がそう言われた以上増えてないと思っていますし、いつも見させていただいている〆張鶴 純 も増えていることを”否定”しているように、私は感じています。
鶴の友の樋木尚一郎社長とは、その形も質も現れ方も違うのですが宮尾行男社長には「梃子でも動かない何かが根底にある」と私は感じ続けてきました。たぶんその”何か”が、酒造メーカーになってしまったほうが”適正な規模”にありながら、今も”酒蔵”であり続けること要求し、「地酒としてのアイデンティティー」を忘れさせないのかもしれない、と私自身は感じています。
上記の引用は、鶴の友について-2-NO7の一部です。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20071120)
前述したとうり、私は酒質だけではなくその他の色々なものを含めて、昭和五十年代の〆張鶴が一番好きなのかも知れません。
30年以上前から現在に至るまで〆張鶴を飲ませていただいているのですが、特に平成の初め以降、その酒質から「昭和五十年代とは大きく違ってしまった〆張鶴の置かれている”立場、状況”と、失ってはならないと宮尾行男社長始め蔵の皆さんが強く思われている”〆張鶴・宮尾酒造のアイデンティティー”との間のバランスを取ることに”ご苦心されてきたこと”をおそまつで能天気な私なりに感じてきました。
現在の〆張鶴・宮尾酒造に存在する”非合理性、非効率”は、そのバランスを取り続けるために支払わなければならなかった”代償”だと、私個人には思えてならないのです。
そしてその”代償”を支払い続けたことが、他の有名な新潟淡麗辛口の蔵と〆張鶴・宮尾酒造との「決定的な違い」になっている-------私個人はそう思えてならないのです。
出会って30年以上になる〆張鶴を飲むとき、いろんな思い出が浮かんでは消えます。
お亡くなりになった宮尾隆吉前社長、専務時代の宮尾行男現社長から直接伺った言葉や”目撃したこと”がまるでほんの少し前のことのようにも思えます。
八海山と同時に私が最初に出会った蔵が〆張鶴だったことがいかに幸運だったかは、今振り返ると改めて痛感します。
そして「〆張鶴・宮尾酒造という”ものさし”」が、今でも日本酒と日本酒の蔵をおそまつで能天気な私なりに”判断するときのものさし”として私の中に存在していることを、改めて実感しているのです-------------。
思ったより早く〆張鶴について--NO2は書くことになったのですが、--NO3はいつになるか本当に分かりません。
できれば--NO3は、本当に久しぶりに村上に行かせてもらってから書こうと思っているのですが、その前になるかも知れません。
いずれにせよ、〆張鶴について--はもう少し書いてみようと今は思っています----------。