”毛色が変わっている”だけではなく、はた迷惑ほど”長い”のが特徴で、周囲の顰蹙を買っている日本酒エリアNですが、たまには”短く”書いてみようとの気持は私にもあります。
”短く”と言っても、「私の感覚で”短く”」ですからふつうに言えば”長い”のかも知れませんが、
今回はなるべく短く短くと唱えながら、”身辺雑記的なこと”を書いていきたいと思います。
〆張鶴も千代の光も南会津の國権も、そして樋木尚一郎社長の鶴の友も酒造りの忙しさのピークに向けて走り出しています。
おそまつで能天気な私も、仕事の忙しさとは”別な忙しさのピーク”である12月の半ばに向けての”準備”を整えつつあります。
なぜならあと一週間もすると、少なくはない本数の〆張鶴、千代の光、鶴の友とそれらを大きく上回る数量の酒粕にアパートの私の部屋のドアの前が”占領”され甘く香り高い「酒粕が発する”酒の香り”」に包まれ続ける日々が訪れるからです。
私が”酒のボランティア活動の一環”としてお配りしている酒粕は、千代の光と鶴の友の酒粕ですが、千代の光は地元のごく一部のための限定販売であり、鶴の友は蔵自身は酒粕を一切市販していないため、ややもすると”酒そのもの”より入手するのが難しいくらい「数量が限られて」います。
千代の光・池田哲郎社長も鶴の友・樋木尚一郎社長も、「年に一度の酒粕ボランティア」はご存知なのでご配慮いただいているのですが、そのご好意にも限界があり私自身にも”物理的限界”があり、ここ数年300㎏前後の数量が限界となっています。
「スーパーで売っている酒粕とはまるで違い、すごく良い甘い香りがするし甘酒を造ってもすぐ溶けるし--------。 もうスーパーで売っている酒粕で造る甘酒は飲めないかも知れない」--------これが酒粕をお配りした相手の”代表的な感想”なのです。
そうなると私がお配りした相手も、「甘酒好きのお知り合いに”美味しさのおすそ分け”」したくなるのが”自然な感情”のため、私自身が想像出来ないところまで”酒粕を楽しむ人の範囲”が拡大しており300㎏でも”逼迫に近い”状況にあります。
そして以前にも書いたように、私の叔父夫婦のように、酒(アルコール)は飲めなくても酒粕から造る甘酒は大好きだという人も想像していたより多いのです。
以前にも書いたように、酒粕を配り始めた理由は、「日本酒ですか----、あのツーンとくる匂いがどうも私は苦手で-----」--------私自身にとっては”根本的な誤解”としか思えない感想を私なりに”正そう”としたからです。
”言葉だけ”では説得力に欠けるが”貧乏な私”では酒そのものを配るわけにもいかず、苦肉の策として、酒粕を配ることによって「酒粕にかなり残っている”甘い酒の香り”の良さを知ってもらい日本酒に対する根本的な誤解を解いてもらう」というつもりだったのですが、私がお配りする”酒粕そのもの”が(酒飲みであろうとなかろうと)エンドユーザーの消費者にとってきわめて高い価値があるのと同時に大変喜ばせるものであることに、私が気付いていなかったことが”大誤算”だったのです。
「酒粕にあんなに差がある以上、当然酒もその美味さに大きな差があるのでしょうね。
私は酒が飲めないのですが、知り合いに酒好きがいるのでNさんから頂いた酒粕の銘柄の日本酒を持っていきたいと思っています。
鶴の友というお酒はどこに行けば買えるのか教えてもらいたいのですが--------」
このような”質問”がくることも”酒粕配りの効果”のひとつかも知れませんが、それは私にとってあまり大きなものではありません。
確かにある意味では、酒そのものを見るよりも酒粕を見比べたほうが”酒のレベルの差”が分かりやすいとも言えます。
原料米の差、精米歩合の差、粕歩合の差などが比べるとはっきり分かります--------そして”その差”は、「酒の知識や有名銘柄、無名銘柄などの”条件”」に左右されずに誰でも分かるものなのです。
”酒粕の差”から”酒質の差”が分かることは、面白くて楽しいのとのひとつですが、私が酒粕を配ることで得たもの中で最大のものは(言い換えれば”大誤算”は)、他のアルコール飲料では”廃棄物”でしかない粕が、日本酒においては「日本酒を飲めない人も含めて、単に喜ばせるだけではなく日本人の健康の増進にも役立つ、その”魅力と効用”をきわめて自然に受け止めている人が私の想像できないほどに多かった」ということでした。
そして酒粕自体に存在する”差”をほとんどの人が、余計な説明などまるで必要の余地がないほど、簡単に分かり簡単に見抜いているのです--------普段酒粕だと認識していたものとは”別なレベルのもの”だと、ほとんどの人が見た瞬間に分かるのです。
私の配る酒粕が”大好評”でその価値を”正等に評価”してくれる人が多いことを、私は喜ぶべきだとは思うのですが、喜んで良いのかそれとも嘆くべきなのか、私自身は複雑な心境になるのです。
なぜなら、”酒粕のおおもと”である日本酒そのものの”差”を、酒粕ほどには”その品質の差”を簡単に分かり簡単に見抜くエンドユーザーの消費者が多くないからです------------。
好評がゆえに酒粕を配り続ける”年月の中”で、「私自身の複雑な心境」は拡大し続けてきました。
この「日本酒エリアN」も、ある意味で、その複雑な心境が書かせていると言えます。
書き続ける中で、”ひとつの考え、感じ方”が少しづつ浮かんできたようにも思うのです。
そしてそれは以下のようなものでした。
- 酒粕と同じように日本酒も、本来はエンドユーザーの消費者にとってシンプルで分かりやすい身近にあるものであった。
- 私が知る昭和五十年代初めと比べると食生活が大きく変化した現在であっても、酒粕は庶民にとって”魅力と効用”を持つ身近な存在であり続けている。
- 酒粕のおおもとである日本酒が、酒粕とは違い、”魅力と効用”を持つ身近な存在ではなくなりつつある状況は、酒粕から造る甘酒の持つ「飲んでみて美味いか不味いか」というシンプルさに比べると余計なものをまとい過ぎたためではないのか。
- 「飲んでみて美味いか不味いか」というシンプルで簡単な分かりやすさが、「純米造りの、生酛で造られた、手に入り難い希少な、幻しの----」という形容詞や、「大吟醸、純米大吟醸、生酛純米大吟醸、純米吟醸酒」などの名詞にがんじがらめになってエンドユーザーの消費者に届いていない-------私にはそう感じられてならないのです。
大吟醸が清酒鑑評会のためだけに造られ、ほとんど市販されていない時代から飲ませて頂く機会があった私は、私なりに日本酒の造りの極致である大吟醸の”魔力にも似た魅力”を承知していますし、昭和五十年代半ばに”滅びかけていた生酛造り”を現在につないだ「生酛造りの中興の祖とも言える伊藤勝次杜氏の”仕事”」も直接目にしてきたため、生酛造りの価値と生酛にしかない魅力も、私なりに承知しているつもりです。
”美味さの極致”を目指す杜氏や蔵人の極限の努力が、素晴らしい出品大吟醸や生酛純米大吟醸に結実することはあっても、必ずしも「出品大吟醸、生酛純米大吟醸という”レッテルに書かれた名詞”」がその日本酒の”美味さの極致”を証明しているわけではない-------私個人はそう感じてしまうのです。
「”形容詞や名詞”の必要以上の”氾濫”が、飲んでみて美味いか不味いかという”シンプルで簡単な分かりやすさ”を見え難くしているのではないか」-------だんだん私個人はそう感じるようになってきたのです。
私自身は昭和五十年代初めという”時期”と、最先端を求めようとしていた新潟淡麗辛口の蔵に接することが出来た”環境”のおかげで、”形容詞や名詞”ではその酒を判断しないのが”ふつうだ”と思って日本酒に接し続けてきました。
大吟醸だから美味い、純米だから美味い、幻しの酒だから美味い--------思い上がりに聞こえるかも知れませんが、酒は”形容詞や名詞”だけで判断できるものではないと私自身は思ってきました。
酒は飲んでみて美味いか不味いか------それがすべてだと私は感じ続けてきたのです。
酒粕好きは、その酒粕が有名な銘柄(幻しクラスの蔵)のものであっても美味いと感じなければ評価しないし、無名の蔵であってもその酒粕が美味ければ入手するのに困難があっても手に入れようと努めます。
酒粕好きは、その酒粕から造る甘酒が美味いか不味いかでしか、その酒粕の良し悪しを判断していないのです。
その上で、「これだけ酒粕が素晴らしく美味いのだから、酒も美味いはずだ」と、”形容詞や名詞”に惑わされることなく、千代の光や〆張鶴、そして鶴の友の価値を見抜きファンになってくれたエンドユーザーの消費者は、私の周囲では珍しくないのです。
昭和五十年代の新潟淡麗辛口は、酒質よりそのコスト、採算性を優先しあたかも”中高年専用のアルコール飲料”になりかけていた従来の日本酒に対するアンチテーゼであり、革新的な新しさを内在させた”シンプルで分かりやすい美味さ”を持つ日本酒でした。
それゆえ従来の日本酒に懐疑的であった、その当時の若い需要層も含めて圧倒的な支持を得られたと思えるのです。
酒造・酒販の日本酒業界は業界全体で、この「シンプルで分かりやすい美味さ」という原点に回帰しない限り、さらにエンドユーザーの消費者の支持を失い続けシェアを落とし続けていくのではないか-------そんな”未来予想図”が私個人には見えるような気がしてならないのです。
私個人は、現在も「シンプルで分かりやすい美味さ」は日本酒に存在していると実感していますが、現在は昭和五十年代と違い、「シンプルで分かりやすい美味さ」はエンドユーザーの消費者の目には映ってはいるが”はっきりとは見えていない”状況にあるのかも知れません。
私個人は、エンドユーザーの消費者に”はっきりと見てもらえれば”、面白さと楽しさの入り口でもある日本酒の「シンプルで分かりやすい美味さ」は現在でも十分に支持されるはずだと感じているのです。
先月にあった第93回の吟醸会でこんなことがありました。
集まった酒の中で、乾杯に使う酒を私が選ぶのが”恒例”になっているのですが(ほとんどの場合一番美味いと思われる酒を選びますが)、今回は千代の光のしぼりたて生原酒を選びました。
大吟醸や純米吟醸も並んでいた中で千代の光の生原酒が一番価格が安かったのですが、30人ではほんの少ししか飲めないため、隠していたもう一本も出すはめになってしまうほど大好評でした。
この千代の光のしぼりたて生原酒は、半分意図的に半分偶然で、0度Cという低温で酵母を押さえ込み熟成のスピードを極端に遅くして9年貯蔵したものでした。
現役の酒販店時代に、千代の光のみならず〆張鶴のしぼりたて生原酒も”遊び”で0度Cという低温で6~7年貯蔵熟成させていた”経験”があったため、ある程度は想像できていたのですがそれ以上だったのです。
そしてその「シンプルで分かりやすい美味さ」は、分かりやすい光景としての日本酒の”面白さと楽しさの間口の広さと奥行きの深さ”をも参加したメンバーに見せてくれたのです。
嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長・元朝日酒造専務)がその設立に尽力され初代校長を務められた新潟清酒学校の皆さんが、樋口杜氏が講師を勤めていることもあって、先日鶴の友・樋木酒造を訪れたそうです。
「造り方がどうの、酒質がどうだ-----」というお話は、樋木尚一郎社長から私自身はほとんど伺ったことはありませんが、どんなお話を新潟清酒学校の皆さんにされるのか興味がありました。
後日樋木尚一郎社長に伺うと、
「酒造りの技術的な話は樋口杜氏が話すべき分野で、むしろ新潟清酒学校の皆さんのほうがよっぽど詳しいと思ったので、私は別なことを話ました。
酒には飲む人の健康を害し命まで危うくしたり、あるいはアルコール依存症という”負の側面”があることを造る立場の人間は常に意識していなければならない。
酒を造る人間が、酒で健康を害するようなことはあってはならない-------そんなようなことを話しましたかなぁ」
そして、
「造る側の立ち場だけから”酒を見る”のではなく、ごく普通の飲む立場の人から自分達の造る酒が”どう見られているか”を意識することが必要だし、残念ながらあまり飲む人には伝わっていない、酒の持つ”面白さと楽しさ”を造る立場の人間は伝える努力がより必要なのではないか--------そのようなことも話しましたかね。
たぶんまったく参考にならなかったかも知れませんが------」
と話してくれました。
12月はエンドユーザーの消費者の庶民の酒飲みにとって、日本酒の”面白さと楽しさ”に一番近づく月です。
〆張鶴や千代の光、そして鶴の友を飲まれたことが無い方はぜひこの機会に”チャレンジ”されることをお勧めします。
三つの銘柄すべてを簡単に手に入れることが出来る新潟市以外の人でも、多少の困難がありますが小さな努力で飲むことは可能になります。
三つの銘柄のすべては早福酒食品店(TEL025-266-8101)で買えますし送ってもくれるはずです。
鶴の友に限って言うと、鶴の友・樋木酒造の近所のやしち酒店(TEL025-262-2051)<ちなみに蔵は小売はしていません>、新潟市沼垂にある髙木酒店(TEL025-244-4614)でも買えますしお願いすれば送ってもくれると思われます。
ただし、需要期でも1~2週間蔵に売る酒が”1本も無い状態”は鶴の友・樋木酒造にとってはふつうの状況ですので、時間がかかる場合もあります。
鶴の友を飲むためには、多少の困難を越えるための小さな努力が必要になりますが、飲むことで得れる”面白さと楽しさ”はその小さな努力を大きく上回るものだと私自身は思っています。
ぜひ小さな努力を今月されることを私はお勧めいたします。
鶴の友について-3--NO3に続く