OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
おそまつで能天気な私ですが、一人の日本酒のファンとして感じ続けていることがあります。
あくまで私個人の個人的な意見に過ぎませんので、大したことがない「毛色の変わった人間の、毛色の変わった”感想”」と思っていただき、気軽に見ていただければ助かります。
ただ、相変わらず”長い作文”ですので、”お急ぎの方”はパスしていただいたほうが良いのかも知れませんが-----------。
純米酒雑感(昭和五十年代前半の〆張鶴 純 からの視点)
前回、鶴の友におじゃましたとき、樋木社長より、こんなお話を伺いました。 吟醸酒にこだわる ”マニア、あるいは酒通”の方が ”運良く”新潟市の料飲店で鶴の友の吟醸の「上々の諸白」を偶然に飲まれて(実際これは本当に運が良い)、蔵に電話してきたそうです。 「おたくの吟醸酒は本当に美味いが、私には納得できないことがある。あれほど美味いのになんで純米吟醸じゃないのですか」-----樋木さんは、丁寧な説明もしたのですがご本人は最後まで納得されなかったそうです。 私に言わせていただくとそれは、”大馬力の高価格のスポ-ツカ-”のスピ-ド違反車を捕まえるためにイギリスやイタリア、フランスが高速道路に配備しているスバル インプレッサWRX、WRX STI を普通車やミニバンの価格で出しているメーカーの世界ラリ-選手権を実際に戦うWRカーを、「なぜ、クラウンやシーマじゃないのか?」と言ってるようなものです。 ご本人も ”お気に入り”の純米吟醸と直接比較して飲めば一瞬で分かることなのですが-----。
これは私が2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の一部です。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20050831)
かなりの冗談と笑いを含んだ様子で細井専務は、「Nさんにお叱りを受けるかもしれないが、私は純米酒が日本酒のベースだと考えていますので、私のところでは純米、純米吟醸の合計が全体の50%以上になっています」と、あからさまではないが”自負”も感じさせる口調で話してくれました。
私は苦笑しながら、「私は”純米至上主義者”ではありませんが、”純米否定論者”でもありません。純米酒を否定しているのなら30年も〆張鶴 純 を飲んでいる訳がない。
ただエンドユーザーの消費者のサイドから見て、いろいろな理由で本醸造がベースなのではないかと思っているだけです」と返答しました。30年前と変わらない600石という数字の中で酒を造り続けていくためには、単価を上げていくのがひとつの方法であり自然な流れです。
その中で何種類かの純米、何種類かの純米吟醸、何種類かの大吟醸などを少量多品種で売り切って1本あたりの単価を上げると同時に売れ残りのリスクを低減する-------地酒として生きていこうとする小さな蔵にとって、國権に限らず多くの蔵にとって、確かに有効で効率の良い方法です。
しかしその方法は、従来からの酒のファンや酒のマニアには有効だと私も同感しますが、他のアルコール商品と”戦い”若い需要層を増やしていく”反攻”には、必ずしも有効とは言えず、総需要の拡大には繋がらないのではないのか-------という危惧も私自身は感じざるを得ないのです。鶴の友の上々の諸白(大吟醸)、特選、純米には酒のファン・マニアからも高い評価があり、数量の少なさもあり新潟市以外の県内・県外で最も手に入りにくい新潟淡麗辛口の酒になっていますが、鶴の友の最大の価値は、二千円以下の価格であり鶴の友の中では一番下の販売価格の酒で一番数量のある上白(本醸造)が、特に日本酒のファンでもないごく普通のエンドユーザーの消費者に、飲む機会さえあれば、その美味さとコストパフォーマンスに”驚きに近い”高い評価を受けている点にあると私は思っています。
〆張鶴は鶴の友に比べやや価格が高いが、(鶴の友と比べれば販売数量が圧倒的に多いため飲める機会を得る人も桁違いに多く)鶴の友への評価と似たような評価をするエンドユーザーの人数が鶴の友より圧倒的に多いように思われます。鶴の友・樋木酒造も、〆張鶴・宮尾酒造も”少量多品種”とは縁が無い、30年前とほとんど変わっていないシンプルな”商品構成”を守り続けています。
鶴の友も〆張鶴も、「鶴の友の何々が美味い、〆張鶴の何々が良い」ではなく、
「鶴の友だから美味い、〆張鶴だから良い」という銘柄全体への評価をエンドユーザーの消費者から受けている、と私は感じています。
そしてそれは昭和四十年代後半の、「地酒としての鶴の友はこうあるべき」という鶴の友・樋木尚一郎社長の”頑固なまでの信念”が鶴の友の酒質に反映し、「どんな状況でもこれを失ったら〆張鶴ではなくなる」------”企業”としての成長と”酒蔵であり続ける”ことのバランスを、〆張鶴・宮尾行男社長が苦心しながら常に取ってきたことが〆張鶴の酒質に反映しているからだ、と私には思えてならないのです。
これは國権について--NO4の一部です。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090404)
上記のふたつの引用のとうり、私は純米酒至上主義者でもなければ純米酒否定論者でもありません。
飲んで美味いかどうかが私にとっては一番”大切”で、その美味い日本酒が純米か本醸造なのかという”区別”はあまり気にしていない-------と言ったほうが”正確”かも知れません。
私のような財布の中身に”余裕”のない庶民の酒飲みにとっては、「その酒の美味さとその酒の価格のバランス」が一番重要だからです。
現在に比べると、はるかに純米酒が少なかった昭和五十年代前半から”純米酒の状況”を見てきたせいか、単に酒化率が悪いためその価格が高くなってしまうだけではなく、造りも造った後の”酒質保全”にも気を使わなければならず、なおかつエンドユーザーの消費者に届いた段階で「保全された美味さと価格のバランス」が取れている純米酒があまり多くないという印象が、まるで”後遺症”のように私には今も少なからず残っています。
特に新潟淡麗辛口においては、この時期、本醸造で”実現できている酒質”を本醸造と大きくは変わらない価格で”実現”できている純米酒は、本当に”希少”だったのです。
この時期、酒販店としてもおそまつで能天気な私が、”発見”できたこのレベルの純米酒は、「〆張鶴 純 」だけでした。
当時の〆張鶴 純 は八海山や〆張鶴の本醸造との価格差も小さく、ナショナルブランド(NB)の月桂冠の一級酒との価格差もあまり大きなものではありませんでした。
確か2200円~2300円くらいだったように記憶しているのですが、現在とは違い当時は〆張鶴といえどもその知名度も高くなく、北関東の地方都市のH市ではその名前を知っているエンドユーザーの消費者はきわめて少なく、最初の数年は「売る本数より投げる本数のほうがはるかに多い」大苦戦の状況だったのです。
それでも私が、〆張鶴 純 の実績を拡大し続け、売ることを諦めなかったのには理由があったのです。
現在も高い評価と高い知名度を誇る〆張鶴 純 は、この昭和五十年代前半にはその酒質の根幹が完成していたと、私個人は、そう感じています。
新潟県産の酒造好適米の五百万石を中心にした米を精米歩合60%にまで削り、粕歩合が40%以上になってしまうほどの低温長期の醪で造りだされたこの純米酒は、当時の関東信越国税局や国税庁醸造試験場の清酒鑑評会用の大吟醸の造りの手法が惜しみなく投入された、純米吟醸と言うべきレベルにあった------今の時点から振り返っても私個人はそう思えるからです。
昭和五十年代前半の「完成していた〆張鶴 純 」は、現在の3500~5000円の一線級の純米吟醸や、精米歩合が50%になり「名実ともに純米吟醸になった」現在の〆張鶴 純 とも十分に戦える”水準”にあったと、今でも私個人は感じています。
まるで”綱渡り”をしているような、軽さと切れの良さがあったこの時期の八海山と同等の切れを持ちながらも、八海山には少なかったまるみと舌触りの良さそして「どこも出ていない、どこも引っ込んでいないバランスの良さ」があり、料理の邪魔もしなければ飲み飽きもしない-----------庶民の酒飲みにとってはその酒質の水準の高さに比べ価格が極めて安い、本当に有り難い日本酒だったのです。
「二十一世紀には日本酒なんてものは無くなる」------この時期の数年前の学生のころの私は本気でそう思っていました。
酒販店の三代目として育ってきた私は、他の人より子供のころから日本酒を知る機会に”恵まれて”いたため上記の”感想”を持つようになったと思われるのですが、その”感想”は主として月桂冠に代表される大手ナショナルブランド(NB)の日本酒によって”造り出された”ものでした。
何回も書いていますが、当時のNBの日本酒は今思っても「清酒風アルコール飲料」と言われかねない”かなりひどい”ものでした。
二十歳を超えてようやく酒が飲めるようになった私の同級生達は、悪いイメージしか日本酒に持っておらず、たぶん、飲みたくないアルコール飲料の”アンケート”をとったら「間違いなくトップを争える立場」にあったはずです。
これも何回も書いていますがNBの名誉のためにあえて言うと、現在のNBはその当時のNBとは”別物”と言えるほどの酒質向上を実現しています。
逆に地酒側の方が、残念ながら銘柄によっては、かつてとは”別物”になりつつあるのかと思わざるを得ないほどの酒質低下を感じる機会が少なくないのです。
酒販店に生まれ「アルコールに囲まれて」育ったにも関わらず、不埒にも〆張鶴と八海山に出会う前の私は、日本酒は”中高年の飲み物”と思い一顧だにしなかったのです。
そんな不埒なイメージを日本酒に持っていた私でしたが、〆張鶴 純 に出会ったとき、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)の紹介で宮尾酒造を訪れ、故宮尾隆吉前社長の紹介で早福岩男早福酒食品店社長(現会長)を訪ねることになる”流れ”の中で、「この酒なら自分の同級生に胸を張って勧められるし、彼らにも支持されるはずだ」というそれまでとは”180度違う”確信を感じたのです。