ミロのヴィーナスってどんなんだっけ?という方は
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ルーブル美術館のミロのヴィーナスのページ
人間てよく、ジグソーパズルのピースにたとえられますよね。
凸凹があって完全なんだと。
そういう意味合いでジグソーパズルにたとえられるんだと思うんです。
これ、良くないなと思うんです。
ここからは私の独自の考えなのですが、
ジグソーパズルになっちゃうと、凸凹があってオッケーな自分て思えるけど、
でも、自分一人では結局完結できないんですよね。
誰かのピースと繋がっていかないと、私単体のピースでは存在意義が見いだせない気がしませんか?そう思うのは私だけかな?
このジグソーパズル理論(?)戦後の日本ではすごく良い考え方だったかもしれません。
国民一致団結して日本の復興に邁進していくためには、
日本が復興した姿という一枚の絵を完成させるために、みんなが誰かと繋がっていくという感じで良かったんだと思うのですが、
多様性が出てきた現在では、一個人でも十分完結していけるイメージって大事なのかなと思うんです。
もちろん、困ったときは助け合うとか、グループで協力し合って一人では成しえないことをしていく、というのもこれまで通り大切なことですよ。
そういうことを否定したいのではなく、
人間をジグソーパズルのピースにたとえるのは、もう古いのかな?と思うのです。
じゃあ、なににたとえたらしっくりくるのかな、と考えたら、
出てきたのが、ミロのヴィーナスでした。
あの姿が完成なのか未完成なのか、腕を再生して付け足そうという動きもあったけど結局行われなかった、
そんな感じで、完成なのか未完成なのかもわからない、付け足した方がいいような気もするし、そうしない方がいいような気もするし・・・だけど、それで美術品として賞賛されている。
一つの美しい美術品でもあるけれど、ルーブル美術館の数ある展示物の中の構成要素の一つでもある。
ジグソーパズルのピースより、そういうものに私はなりたい、かな、と思う今日この頃です( *´艸`)
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