先日、子どもに「幸せに生きる私」を見せるつもりが、あれやこれや躍起になって集めて幸せになろうとしている自分しか見せれていなかったことに気付いた私。
何があってもなくても、「自分が自分を肯定」して生きている方が、子どもの良い励みになったのではないかなと思うようになりまして・・・、
そんなときに、出会った動画
私もそれやってたな。
欲しいと思うものを自分にあげるのももちろん大事なんだけどさ、
もっと根っこの話。
どういうつもりであげてるのか。
あれと同じになってたかも。「お金、出せば入ってくるんだから!」と。
もっというと、
自分の本音や感情を見ていこう!って自分のそういったものを拾い上げてきたけど、
うまく説明できないけど、
さらにその下の自分のエネルギーの動きまではとらえられていなかったなーーと思うの。
例えば「仕事がツライ」という感情。
「そっか、辛いよね、ツラいよね」と拾い上げてきたけど、その下で動いているエネルギのー動いていく先までは捉えていなかった、と思うのです。
でも、今回は「わたし、そこまでたどり着いたんだな」と思えました。
だって、昔は「仕事がツライ」と頭をよぎっても、うまく誤魔化して意識できないように無視してきたんだからさ。
今でもたまにイヤだけど(笑)、掘り下げると気持ち悪くなりそうな自分の本音も見に行けるようになった。
だけど、まだ先があったんだなーって思う。
イヤな気持ちを見つめられたのはいいけど、それをいいものに加工しようとしていたよね。
一番よくあるのが「その体験があったから、今これが手に入ったんだよね」みたいな置き換えとか。
それやってると、自分の本音の下で動いている自分のエネルギーを見失う気がする。
そもそも、実はエネルギーっていう言い方好きじゃないんだけど、そういう感じのものということであえて使いますが、
まあ、そういうことです(笑)
自然に変われば良いんだけど、いつまでも自分のそばにそういうものを置いておきたくないから、
ついつい加工をやっていたと思うのです。
嫌なことが起きたことに対して納得がいく理由をつけたいからであると思います。
ハッピーちゃんは気分を変えるためによく「だったらどうしたいの?」という質問を自分にすると言います。
それは、自分が感じているイヤ気持ちをしっかり感じたその上でどうしたいか?という質問だと思うのです。
起きたことを聖人君子気取りで曲解して加工した気持ちが出発点ではないのですよね。
私が感じている本音や感情の下にあるエネルギーって、龍みたいな姿で動き回ってる感じなので、
その竜に乗ったまま、「じゃあどうしたい?」って質問している感じというか・・・。
まあ、そんな感じのことを思いました。