沖縄米軍基地問題移設、米軍基地が沖縄に集中する実体を告発する感情、日本政府、自民党による沖縄への不当な処遇は沖縄の人々の感情を逆なでしています。オスプレイの配備、普天間基地の移設強硬などはあってはならないことです。
なにが日本のため、米軍は抑止力などは寝言に近い彼らの暴言です。
<琉球新報社説>「琉球処分」不当性があきらかになった
県民が歩んできた苦難の近現代史をたどり、沖縄の現状を考える上で新たな視座が提示された。自己決定権の保障を求める県民世論の大きな足掛かりとなろう。
160年前に結ばれた琉米修好条約など3条約を根拠に、国際法学者が1879年の「琉球処分」は当時の慣習国際法に照らして「不正」との見解を示した。しかも、今日の国際法に基づき、不正の責任を日本政府に追及することが可能という。
学者らの指摘に対し、外務省は「確定的なことを述べるのは困難」と回答し、不当性を否定しなかった。武力を持って沖縄の主権を侵した「琉球処分」の実相を見据えたい。沖縄の主権回復を追求する県民世論の高まりは当然であろう。
「琉球処分」の後、皇民化・同化政策が推し進められ、その帰結として沖縄戦の悲劇があった。敗戦後の米国統治下で人権を侵され、復帰後も基地の重圧に苦しみ続ける。このような沖縄の歩みと現状を考えたとき、その源流として「琉球処分」に突き当たる。
「琉球処分」をめぐっては、さまざまな歴史的評価がある。沖縄学の創始者・伊波普猷が「一種の奴隷解放也」と評したことは特に知られている。王国滅亡と併合を「進化」と捉えた視点だった。
しかし、「琉球処分」によって自己決定権を失った沖縄は日本政府の思惑に翻弄(ほんろう)された。「日本への同化」を説いた言論人・太田朝敷でさえ、沖縄は植民地的な「食客」の位置に転落したと嘆いた。
「琉球処分」に端を発した不条理は今も続いている。国際法上の不正を指摘した上村英明恵泉女学園大教授は「米軍基地問題に見られるように、琉球人の決定が日本政府によって覆される植民地状況は今も続いている」と断じた。
県民意思に反し、沖縄防衛局は普天間飛行場代替基地建設に着手した。上村氏の指摘通りだ。「琉球処分」の不当性を踏まえると、沖縄の自己決定権を踏みにじる政府の姿勢の不当性は一層明らかだ。
3条約は日本政府が没収し、現在、外務省が保持している。その理由についても「経緯が明らかでない」と外務省は回答を避けた。説明責任を回避する姿勢は遺憾だ。政府が保持し続ける理由はない。
沖縄が主権国家であったことの証しである3条約は、自己決定権を求める上での基礎資料ともなり得る。日本政府に返還を求めたい。
琉球処分
1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族とした。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。琉球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。