“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

沖縄戦後70年「非戦の誓い」

2015年01月03日 10時59分26秒 | 臼蔵の呟き

「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を一片も漏らさぬ気概で継承し、基地の過重負担を断ち切りたい。

沖縄は沖縄戦を受けて沖縄戦の教訓を今に活かし、米軍基地撤去、平和の時代を作る先頭に立っています。口で勇ましいことを言いながら、自らはいつも安全な場所に身をおく軍部中枢、為政者たちに送る教訓です。

紛争は軍事力と戦争によって解決することは無いことを理解しなければなりません。

<琉球新報社説>沖縄戦後70年「非戦の誓い」全うを 地続きの基地重圧断とう

 米軍普天間飛行場の代替新基地建設予定地の名護市辺野古の浜に1日未明、初日の出を拝む約200人が集い、「この海を絶対に埋め立てさせない」と誓った。
 2014年に続いた名護市長選、同市議選、県知事選、衆院選の全てで「辺野古移設ノー」の強固な民意が示された。それに励まされてか、昨年に比べ、家族連れが目に見えて増えていた。
 孫を連れた老夫婦、1歳を超えたばかりの幼子を抱く若い夫婦が「新たな基地を造らせては駄目だ」と語った。共通した言葉は前段の「子や孫のために」だった。

艦砲ぬ喰ぇー残さー

 ことしは沖縄戦、太平洋戦争の終結から70年の節目を刻む。今なお続く米軍基地の重圧、それに抗(あらが)う沖縄社会の闘いの原点は「ありったけの地獄を集めた」と形容される沖縄戦にある。
 1944年4月、米軍が沖縄本島に上陸した読谷村楚辺。沖縄の原風景を残す風光明媚(めいび)な海岸線に「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」の歌碑が建つ。地域の憩いの場である歌碑前に集って正月を祝うお年寄りが「子孫に残す平和の歌だ」と語り、歌碑の意義を説いてくれた。
 沖縄戦体験者の平和への願いを込めた「艦砲ぬ-」は「でいご娘」が歌う。その父で楚辺出身の比嘉恒敏さんが実体験を基に作詞作曲した。戦後史を彩る名曲だ。
 米軍との激しい地上戦による県民の死者は約12万2千人(軍人軍属含む)で、ほぼ4人に1人が亡くなった。家族を全て失った人、死が迫る激戦地に深手を負った家族や友人を置き去りにした人、日本兵に命じられて漆黒の闇に包まれた壕で赤ん坊の首を絞めて絶命させた母-。極限状態の戦争は壮絶な選択を一人一人に迫った。
 「艦砲ぬ-」の歌詞には、猛烈な米軍の砲撃からかろうじて生き残った感慨と死にそびれた自責の念が交錯する。農地を米軍基地に接収されて困り果て、生活物資を求めるために忍び込んだ基地で捕まり米兵に殴られて嘆く。終戦後の苦難と米軍統治に翻弄(ほんろう)された民衆の姿も描き、家族を亡くした記憶にとらわれた遺族の心情を哀感漂うリズムに乗せる。
 戦時中、大阪に出稼ぎしていた比嘉さんは撃沈された学童疎開船対馬丸に乗った両親と長男を失い、大阪では空襲の直撃弾で妻と次男が死んだ。沖縄に戻って再婚しでいご娘の4人を含む7人の子に恵まれたが、1973年、飲酒運転の米兵の車に激突され、妻と共に亡くなった。比嘉さん自身も沖縄の不条理を体現している。

引き出される後遺症

 多大な犠牲を払って得た非戦の誓いを一気に無にしかねないきな臭い動きが急速に強まっている。
 米国の戦争に付き従う回路を開く集団的自衛権の行使が容認され、住民を守る「防衛」ではなく、敵に奪われることを前提にした「離島奪還訓練」の頻度が増している。いずれも安倍政権下で進む動きだ。さらに、沖縄の民意を組み敷いて、辺野古への新基地建設を強行しようとしている。
 沖縄戦体験者の約4割が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症しているか、発症間際の心の傷にさいなまれている。専門家によると、米兵事件・事故や防ぎようがない米軍機の爆音など、日常的な基地の重圧感によって戦争の記憶が揺さぶられ、心の傷口が瞬時に開くのだという。
 県民が置かれた状況は、沖縄戦から地続きで今に連なっているのだ。新基地建設は心のかさぶたを剥がす要因の最たるものだろう。
 「艦砲ぬ-」の最後は「恨でぃん悔やでぃん 飽きじゃらん 子孫末代 遺言さな(戦争をいくら恨んでも悔やんでも足らない。子々孫々まで語り伝えねば)」と平和を継承する決意を込める。
 非戦の誓いを全うし、新たな「ミサイルぬ喰ぇー残さー」を出してはならない。「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を一片も漏らさぬ気概で継承し、基地の過重負担を断ち切りたい。


戦争できる普通の国と教育の反動化

2015年01月03日 08時00分38秒 | 臼蔵の呟き

歴史の証言に耳を澄ませ、“国策”の裏側を見抜く力を持ちたい。憲法9条の実質的な改悪、空文化、集団的自衛権行使容認、情報統制と思想弾圧を本質とする特定秘密保護法が動き出しています。これらは戦争できる国日本のための安倍、自民党極右政権の戦略です。その戦略を実践すべき、軍人、軍属、国民の思想動員に向けた教育の反動的な再編が着々と進んでいます。

日の丸掲揚、天皇賛美の斉唱(プロ野球の開会式などでも行っている)、教育現場での自衛隊員募集、歴史教科書の改ざん、大量に戦争する国を支える青少年を作る仕組みが動いています。戦後70年の歴史の進歩を否定する危険な動きを告発し、とめなければならないと思います。

<信濃毎日社説>教育と政治 国策率先を繰り返すまい

 〈新年明けましてお芽出度(めでと)う 大東亜戦争第三年目の年頭に際し謹しんで新年をお祝ひ致します〉 康徳十一年一月元旦

 戦時下、小学校や国民学校の高等科を卒業した14、15歳の男子が満州(中国東北部)に送り込まれた。満蒙開拓青少年義勇軍だ。 冒頭に挙げたのは、会地村(現下伊那郡阿智村)から送られた少年が故郷の友人に宛てた年賀状。阿智村に一昨年開館した満蒙開拓平和記念館に展示されている。

 日付は「康徳十一年一月元旦」。「康徳」は満州国の元号で1944(昭和19)年を指す。ソ連が満州に侵攻して大混乱に陥る前年だ。それを知る由もなく、〈俺は北満にて開拓に又増産に努力する覚悟だ〉とつづっている。

 市田村(同高森町)から送られた少年が家族に宛てたはがきは、笑っている自画像を描いている。〈正月は双六(すごろく)やトランプをして楽しく故郷を思ひ起す事が出来た〉と、あどけない。

 2人とも生きて古里に帰ることはなかった。

 青少年義勇軍は、満州事変から始まった大陸の戦火が拡大し、日中の全面戦争に発展した37年に計画された。農村の壮年層が続々と軍隊に召集され、5年前に始まった満蒙開拓団の送出がおぼつかなくなったためだ。

   <教え子を大陸へ送る>

 満州移住協会理事の加藤完治らが義勇軍創設を求めた「建白書」はその狙いをこう書いている。〈国策移民の完成を助け…あるいは一朝有事の際においては、現地後方兵站(へいたん)の万全に資する〉。少年たちは開拓民の補充だけでなく軍事も担わされた。

 国の実施要領には「(少年なら)建国精神並(ならび)に満州移住の重要使命を徹底せしむること易(やす)く」とある。少年の純真さを利用したことが見て取れる。

 長野県は満蒙開拓に続いて率先して少年たちの送出計画を立てた。国の割り当てがそれを下回ると、もっと増やすよう要望もしている。義勇軍を研究している県歴史教育者協議会(歴教協)は「全国に範を示したいという意欲の端的な表れ」とみる。

 背景には33年に起きた大規模な思想弾圧「2・4事件」があった。非合法の労働組合、労働運動に関わったとの理由を付けた治安維持法違反の疑いで県内の66校の教職員230人が摘発された。

   <ブレーキが利かず>

 県内の教員に強い影響力があった信濃教育会は事件を「信州教育に於(お)ける一大不祥事」と批判。汚名返上とばかりに義勇軍の送出を推進する。3千人を集めた「興亜教育大会」を全国に先駆けて開き、陸軍大将や県知事の前で、郡市の代表の教員に義勇軍を送り出す教育の実践例を発表させた。

 送出数の郡市別「番付」まで作られた。「先生たちは何度も家庭訪問して『満蒙開拓は大事な国策』と語った」「『もしここで君を出せないとなると私は教員としての資格がない』と説得された」。生還した元隊員たちの証言は、競い合いと締め付けの中で奔走する教員の姿を映し出す。2・4事件によって、子どもの動員に抵抗する教員はいなかった。

 国・軍と県・信濃教育会が一体化して、ブレーキを失い、子どもを国策という列車に乗せ続けた。

 終戦までに満州に送られた少年は約8万6千人。うち長野県は6800人余で、全国で最も多かった。ソ連軍の攻撃や逃避行、収容所での病気などで県内の約1400人を含む約2万4千人が命を落とした。

 多大な犠牲を払って戦争が終わって70年。その戦後の体制からの「脱却」を掲げる安倍晋三首相の下で、次々と教育改革が打ち出されている。

   <歴史の証言に耳を>

 教育を政治と切り離し、戦後の民主化の象徴だった教育委員会制度。首長の権限や関与を強める形に変えられ、新年度からスタートする。再び政治が教育に近づく。長野県はこれを先取りした。

 改正された教育基本法には、教育目標に愛国心を養うことが盛られた。これにそぐわない教科書は検定で不合格にする。社会科の教科書は政府見解を尊重するものとする。道徳は教科に格上げし、こうした検定を受けた教科書を使い、子どもの成績を付ける。教育の前面に国家が出てきている。

 青少年義勇軍を送り出した教育と重なる部分はないだろうか。

 飯田市の元隊員湯沢政一さん(84)は学校に出向き、義勇軍と同世代の子どもたちに体験を語る。「国のために命をささげる教育がされた」ことを知ってもらうためだ。元教員らでつくる歴教協も5年前から毎年、体験者を招いてシンポジウムを開く。

 「満州に行けば20町歩の地主になれる」。少年たちはそう信じ込まされて大陸に渡った。歴史の証言に耳を澄ませ、“国策”の裏側を見抜く力を持ちたい。