<人民網日本語版>パリ大規模デモ体験記 風刺が襲撃にNON!
新年早々の7日午前、フランスの週刊紙「シャルリ・エブド」編集部が自動小銃を持った2人組に襲われ、編集部の8人が殺されるという惨劇が起こった。その後の警官襲撃やスーパーでの人質立てこもりなどの一連の事件と合わせて、犠牲者は17人にのぼった。9日夜、テロの実行犯3人が警察との銃撃戦の末にいずれも射殺され、悪夢の3日間は幕を閉じた。
フランスでは事件直後から、言論機関に対する凶行を非難し、犠牲者らに連帯を示すデモが各地で起こった。事件終息翌日の10日のデモ参加者は70万人に達し、11日にはオランド大統領ほか各国首脳も参加する国を挙げてのデモ活動が行われることになった。パリに住む私は、住民の一人として、シャルリ・エブド編集者らへの哀悼を胸にデモに出かけた。
▽参加者で埋まった道
ル・モンド紙によると、11日のデモ参加者はパリだけで少なくとも130万人、全仏で400万人を数えた。フランスの人口が6600万人であることを考えると、参加率の高さがわかる。行進のスタート地点は、共和国の理念を表すマリアンヌ像の立つレピュブリック広場だ。広場直下の地下鉄は閉鎖されると聞いたので、歩いて向かったが、同じ方向に向かう人がどんどん多くなり、進めなくなった。別の道も試したが、どこも人でいっぱいで進めない。中国人の友人との待ち合わせも諦め、デモにやってきた人々を観察した。
ヘリコプターからの映像を後で見ると、デモ開始の午後3時前に広場はいっぱいになり、放射状に広がる道は押し寄せる人々であふれていた。ラジオでは今回の集まりを「解放以来」の規模と表現していた。ファシズムドイツの4年にわたる占領から解放された1944年8月、パリは歓喜に湧き、人々が町に出てきた。今回のデモをそれと比べるのは大げさかもしれない。しかし水曜に始まった一連の襲撃事件で不安にかられていたフランスの人々が、事件の一応の終息によって安堵のムードにあることは確かである。テロリストがまだ逃亡中であれば、デモの様相はまったく異なっただろう。
▽合言葉は「ジュ・スュィ・シャルリ」
編集部襲撃の後に人々の合言葉になり、デモでも多くのプラカードに書かれていたのが「Je suis Charlie」(私はシャルリ)というスローガンだった。シャルリとは勿論、テロの標的となった「シャルリ・エブド」のことである。「エブド」とは「週刊」を意味する「エブドマデール」の略で、日本語訳すれば「週刊シャルリ」ということになる。「シャルリ」は、「チャールズ・ブラウン」から来たとも、シャルル・ド・ゴールをからかって付けたとも言われている。
ガンは、襲撃のニュース後にツイッターで生まれたとされる。テロによって言葉を失っていた人々は、「私はシャルリ」と宣言することで、雑誌社への攻撃という言論を圧する暴力と真っ向から対決する決意を示した。SNSでプロフィール写真をこのロゴに変えたり、店舗のウィンドウにこの紙が張ってあったり、壁に「私たちはみんなシャルリだ!」という落書きがされてあるのを見ることが多くなった。各国語でも書かれ、中国語では「我是査理」というプラカードが掲げられているのをテレビで見た。
デモの最中にも時折、「シャルリ、シャルリ」という掛け声が時折かかったり、感情が溢れだすようにさざなみのような拍手が起こったりしていた。誰かが国歌「マルセイエーズ」を歌い出すと、皆がそれに唱和していた。
▽武器には漫画で対抗
デモでは、自作の風刺画や犠牲となった漫画家のコピーを張ったプラカードが多く見られた。犠牲となった風刺画家はテレビなどにも出演する国民に親しまれた人物だった。抗議がこれほど盛り上がったのは、編集部への攻撃を自分のものとして市民が捉えたからだし、そうした暴力を野放しにしておいてはいけないと市民が危機感を持ったからでもあった。
「シャルリ・エブド」の風刺の対象となったのはイスラム教ばかりではない。今回のデモで行進したオランド大統領も笑いの種だった。日本では宗教を風刺画の対象とした同誌に慎重さが欠けていたのではと指摘するメディアもある。だが「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というヴォルテールの国である。今回のデモは、言論を暴力で圧殺するテロ行為にフランスは断固として立ち向かうという意思表示となった。
筆がシンボルに
今回のデモでは、漫画家や作家の武器である鉛筆がシンボルとなった。巨大な鉛筆のハリボテを作ってくる人、鉛筆を髪留めにして来た人、一家で鉛筆を握って来た人などの姿が見られた。言論は時に暴力による襲撃に遭遇する。だがそれは言論に力がないからではない。むしろ言論に力があるからである。日本では慰安婦報道について誹謗中傷を受けた元朝日新聞の記者の勤務先にテロ予告がなされているという。言論を支えるのは人民である。テロに屈してはならない。
▽共存は可能か
編集部襲撃は、イスラム教過激派が、ムハンマドを題材とした風刺画を掲載した雑誌社を目の敵にして行ったものだった。さらにその後のスーパーでの人質立てこもりは、ユダヤ系の店舗を故意にねらったものだった。オランド大統領は襲撃直後から、フランスはこの野蛮に対して、イスラム教徒を含めて一丸となって戦わなければならないと宣言した。「共和国の行進」と名付けられた今回のデモは、宗教や人種の対立を超え、「自由・平等・友愛」という共和国の理念の下に集まろうという運動だった。
フランスでは移民受け入れが早くから始まっていたが、二世の社会的統合が問題となっている。本国での苦境を脱してやって来た一世は、生活が苦しくとも、フランスで職を得て生活することにある程度満足する。だがフランスで生まれ、フランスで育った二世は、フランス人とされながらもフランス社会に溶け込めないストレスの中にある。郊外のスラムで育ち、教育水準も低く、社会的ネットワークが乏しい。同じ内容の履歴書を送っても、アラブ人の名前よりもフランス人の名前の方が有利であるという実験結果もある。フランス社会での成功の道を閉ざされ、行き場を失った若者が、絶対的な方向を与えてくれる原理主義に走るという構造がそこにはある。
フランスでは昨年、「Qu’est-ce qu’on a fait au Bon Dieu?」(神様にいったい何をしたって言うんだ?)というコメディ映画が大ヒットした。保守的なフランス人家庭の4人の娘のうち3人が中国系、アラブ系、ユダヤ系と結婚し、最後の1人もアフリカ系黒人と結婚することになって起こるドタバタを描いた映画だった。娘の意志を尊重しようとしながらも、偏見を隠すのに必死な両親を、観客は腹の底から笑った。この映画が1200万人を超える観客を動員したことは、変わることを迫られ、変わることを受け入れようとする自己認識の象徴とも見える。
笑いを圧殺しようとする力を、フランスは「笑いは死なない」と高らかに笑い飛ばした。今回の悲劇を経たフランスがいかなる道を踏み出していくのか。テロ事件が一段落した今、ますます目が離せないと感じている。(増田啓)