“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

歴史を直視し、向き合うこと

2015年01月27日 17時14分27秒 | 臼蔵の呟き

過去と誠実に向き合うことができない国、政治、政権は他国、特に侵略された国家からは信用はされません。個人的な思い、親族の名誉回復的な言動を続けていては、世界からまともな国と認知されることはありません。

あまりにも非知性的で、このような人物、政権党が多数を握る国は稀有です。このような稚拙な主張、外交を行っていれば、世界で孤立するしか道はありません。

<東京新聞社説>戦後70年談話 反省抜きで未来語れぬ

 安倍晋三首相は戦後七十年の今年、どんな首相談話を出そうとしているのか。いくら未来志向の言葉を重ねても、戦争への反省抜きでは、戦後日本の「平和国家」としての歩みを傷つけかねない。

 太平洋戦争の終結から今年で七十年。日本国民だけで三百十万人もの犠牲を出した先の戦争から十年ごとの節目の年は、日本国民にとっては過去を振り返り、未来への誓いを立てる機会でもある。

 戦後五十年の一九九五年、村山富市首相は八月十五日の終戦記念日に首相談話を閣議決定し、自ら発表した。いわゆる「村山談話」である。

 この談話の特徴は、過去の「植民地支配と侵略」に対して「痛切な反省」と「心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明したことだ。 植民地支配と侵略の歴史を正当化しないこの談話は継承され、日本政府の歴史認識として定着している。二〇〇五年の小泉純一郎首相による戦後六十年談話にも、同じ文言が盛り込まれた。

 戦後七十年の首相談話を出す方針を明言している安倍首相は、村山、小泉両首相談話を「全体として受け継いでいく考え」を重ねて表明してはいる。

 しかし、二十五日のNHK討論番組では「今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなくて、安倍政権として七十年を迎えてどう考えているかという観点から談話を出したい」と述べた。

 村山談話を全体として受け継ぐといっても「植民地支配と侵略」に対する「反省」と「お詫び」という根幹に関わる文言を盛り込まなければ、談話を継承したことにはなるまい。

 首相はかつて「侵略の定義は定まっていない」と国会答弁した。侵略を正当化する意図を疑われ、国際社会の一部から「歴史修正主義的」と厳しい視線が注がれていることを忘れてはならない。

 首相が指摘するように、アジアや世界の発展に貢献してきた戦後日本の歩みや、どんな国際秩序を目指すのかという未来に対する意思も、談話に盛り込むべき重要な観点ではある。

 しかし、そうした「未来志向」も、植民地支配や侵略という「負の歴史」と向き合う謙虚さがなければ、信頼は得られまい。

 過去の反省に立った平和国家としての歩みこそが、国際社会で高い評価と尊敬を勝ち得てきた。これをより確固たるものにすることこそが首相の責任だ。いささかの疑念をも生じさせてはならない。


歴史認識の改ざんと「新」政府談話

2015年01月27日 05時47分46秒 | 臼蔵の呟き

敗戦後70年、新談話御出したい。それが、安倍・自民党極右政権の切実な政治課題だそうです。なんとかにつける薬はないとはよく言ったものです。本当に、彼らの歴史改ざんと、戦争できる国づくりには驚きます。白を黒といってはばからない。嘘を何百回も言えば、国民がその嘘を信じるとでも考えているような暴挙です。何のために、このような愚かな政治行為を繰り返すのかです。

彼らの狙いは、戦争犯罪である天皇制政府(岸伸介も入る)、幹部、旧日本軍(戦争犯罪人)の野蛮な侵略行為を日本人、世界の人々の記憶から消し去りたい。その延長線上に彼ら戦争犯罪人の犯罪を免罪しようとしていることです。こんなことが許されれば、第二次世界大戦を引き起こした日本、ドイツ、イタリアの侵略戦争、戦争犯罪はなかったことになります。そうすれば、戦後の国連、国連常任理事国の存在自身、彼らの正統性を否定することとなります。安倍、自民党極右政権が勝手に主張すれば進むような問題ではありません。戦後の基本的な政治外交の枠組みを否定するようなものとなります。

侵略戦争を認め、世界と侵略した関係国に謝罪し、関係の改善を行うこと以外に日本が生きる道がないことくらいは誰でもが理解できることです。それが分からない、常識外れの政治的主張が許されるくらい世界各国の政治指導者、国民が忍耐強くはありません。本当に、このような歴史認識をもった政治集団が議会を占拠する日本の国会は異常としか言いようがありません。早く、このような政権を退陣させなければならないと強く思います。

[ⓒ 中央日報日本語版] 中身は抜いて村山河野談話継承というコメデイ

  イスラム国(IS)によって日本人人質1人が斬首されたことが確認された25日、日本列島は一日中衝撃と悲しみに包まれた。午前9時から始まったNHKの番組『日曜討論』に出演した安倍晋三首相の表情もまた痛ましいほどに沈鬱だった。今回の事件は、人間の生命と尊厳性を「取り引き」しようとする見過ごせない暴挙であることに間違いない。日本だけでなく、平和を尊重するすべての国家の悲劇だ。

  ところでこの日のテレビ討論はIS事態を論じてから、終戦70年を迎えて8月に発表する予定の「安倍談話」へと話題を移していった。

  「安倍談話」の観戦ポイントは明確だ。1995年「村山談話」、2005年「河野談話」のように植民地支配と侵略を認めて「アジア人に痛切な反省と心からお詫びの気持ちを表わす」という表現がはっきりと入るかどうかだ。「安倍首相は歴史修正主義者」という国際社会の指摘を「とんでもない誤解」だと主張する安倍首相の本心をはかる一種のリトマス試験紙だ。

  ところで安倍首相はこの日の番組で、「これまでの表現」を使わない意向を明確に明らかにした。彼は「今までの(村山・河野談話)スタイルをそのまま下敷き書くということになれば、『今まで使った言葉を使わなかった』あるいは『新しい言葉が入った』という細々とした議論になっていく」として「そのような議論にならないよう、70年談話は新しく出すつもり」と話した。

  驚いた司会者が「それなら必ずしも以前のキーワード(侵略・痛切な反省・謝罪)を同じように使わないということか」と問い直した。安倍首相は「それほど(同じように)するということではない」と言い切った。その一方で「村山談話などは『全体として』継承する」と述べた。

  耳を疑った。「侵略」「痛切な反省と心からのお詫び」を入れるか入れないかが細々とした議論だというのか。談話は表現で成立する。表現が変われば談話の精神も変わることだ。これまで成り立ってきた国家間の関係も変わるしかない。表現を変えて談話の精神はそのままだと言い張るのは低級コメディだ。

  この日、同じ番組に出演した政治指導者の「談話のキーワードはきわめて大きな意味を持つ。近隣諸国や国際社会に伝える表現でなければ意味がない」(山口那津男・公明党代表)、「(キーワードをはずすというのは)決して許すことはできない」(岡田克也・民主党代表)という発言を長く引用する必要もない。

  「小豆」を抜いたまんじゅうを持って得意気になる日本の指導者の姿は、日本の悲劇だ。さらに人間の生命と尊厳性、そして平和を尊重する全世界すべての国の悲劇だ。悲劇はIS事件だけではない。