“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

宗教、文化の衝突を防ぐ

2015年01月26日 10時58分57秒 | 臼蔵の呟き

テロ事件、宗教対立を防がなければなりません。

<東京新聞社説>文明は異なれど争わず

 見出しの「文明は異なれど争わず」とは人類共存のための原理です。だが、それが難しそうに見えるのは文明文化の違いを悪用する者がいるからです。

 「イスラム国」の蛮行は悪用の典型として、先日のパリの週刊紙銃撃テロの発端は新聞が掲げた預言者ムハンマドの風刺画でした。では、なぜムハンマドの絵はいけないのか。

 イスラム教の礼拝所、モスクに入ったことのある人はまず何もないことに気づくでしょう。

○聖像聖画の類なし

 日本のお寺なら仏像仏画、キリスト教会なら十字架やマリア像があるのにモスクには聖像聖画の類いは一切ありません。あるのは聖地メッカの方向を示す壁のくぼみ(ミフラーブ)と、その横、導師の上る説教壇(ミンバル)ぐらいでしょうか。

 説教壇はムハンマドが自宅の中庭で、踏み段の上から信徒に説いた故事にしたがうものです。

 ムハンマドはメッカ征服時、神殿の偶像の撤去と破壊を命じました。神はアラーのほかなく、それまでの部族の多神教崇拝は誤りとして否定したのです。教えは神の言葉の内というのです。

 絵ではなく、たとえばムハンマドの死後二百年ほどのイスラム伝承学者イブン・サードはムハンマドの容姿をこう伝えています。

 <中背または少し高く、肩幅と胸は広く厚く、額は秀でて、目は大きく黒くて、黒髪は肩まで垂れ、あごひげは伸ばしていたが口ひげは摘んでいた。身だしなみはよく、髪には油、ひげには水を塗り、まぶたには黒い粉をつけていた>(角川書店「世界人物逸話大事典」)

 原理主義者の伸ばしたひげは、預言者にならっているともいわれますが、似顔絵など今のイスラム世界にはありません。それも偶像崇拝となってしまうからです。

○分かれたアメリカ紙

 それがフランスの新聞に描かれて、しかもからかう調子だったのだからイスラム世界の不快感は当然でした。

 一方でフランスは表現の自由を主張しました。

 フランス革命で勝ち取った権利であり、自由こそは西欧文明の核心、発展の源だからです。引っ込めるわけにはゆかない。

 興味深かったのはアメリカの反応でした。自由かつ多民族の国。日本などとくらべ、格段に欧州ともイスラム世界とも近い距離にあります。ムハンマド風刺画の転載についてニューヨーク・タイムズ紙は載せず、ワシントン・ポスト紙は載せた。それほどにきわどい判断が求められたということでしょう。

 素早い判断を見せたのは欧州でした。イスラム系の移民や子孫、ユダヤ人が住んでいます。

 フランス、ドイツなどの首脳、またイスラエルの首相、パレスチナの議長らが腕を組み行進しました。合言葉は団結です。

 結びつけたくはないが「文明の衝突」という言葉があります。

 アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントン氏が、冷戦という超大国同士の抗争の次に来る争いとして予言しました。実際、ボスニア紛争では東方正教会系のセルビア人とイスラム系のボスニア人が戦い、9.11テロでは悪用されたきらいがあります。

 衝突を避けるハンチントン氏の処方箋とは、文明同士の理解と協力、つまり団結でした。各国首脳の腕を組んだ行進とはまさにそれでした。

 もう一つ思い起こしたいのは独特の意味をもたせたオリエンタリズムという言葉です。エルサレム生まれのパレスチナ人で文芸評論家のエドワード・サイード氏が発していた警告で、ヨーロッパ中心主義への徹底した批判です。

 オリエンタリズムは、東洋学とか東洋趣味などと訳されるが、彼はこの言葉に西欧の意識的また意識されざる偏見を見るのです。発展を遂げた西欧文明は、イスラムなど他文明に対し、支配者の顔、見下した態度をとっているのではないか、と。無論賛否はあるでしょうが、文明間の理解とは容易ならざる面もあるのです。

○偏見に付け入るテロ

 テロを起こす勢力は、あらゆる対立、亀裂、矛盾を巧みに扇動の種とします。ネット時代では情報は正しくとも間違っていてもそのまま個人に届きます。ハンチントン先生のころと違って、文明を衝突させないため、政治だけでなく個人も責任をもつ時代になっているのです。

 イスラム教徒は世界七十億人中の十五億人。五人に一人。それほど多いが原理主義者は少なく、テロリストはさらに極少です。世界は惑わされてはならず、異文明に偏見をもってもならないのです。「イスラム国」の人質事件は偏見につけ入ろうとしているのです。


アメリカ9.11の再現を許すな

2015年01月26日 07時37分36秒 | 臼蔵の呟き

仏テロ事件、日本人人質事件を受けて改めて2001年アメリカ貿易センタービルテロ事件を振り返ることになっています。アメリカブッシュ政権が行ったイラク転覆、アフガニスタン攻撃が10数年たってもなおかつ政治的混乱と社会不安を増幅させ続けています。

アメリカによる中東への軍事介入が、憎しみと暴力の連鎖を作り出したことは事実であり、その教訓をくみ取ることがいま求められています。勇ましい言葉でアメリカ、イギリス、フランス、日本の政権指導者がテロとの戦いを語っても、空しいだけです。自らの政権への支持率対策としてテロとの戦いを語る彼らは各国国民を脅威にさらし、テロの犠牲者とするしかありません。

貧富の格差根絶、人種差別の廃絶、宗教観の違いを攻撃しないなどなどを基本とした政治的取組が必要です。そのうえで暴力を批判し、話し合いで紛争を解決するルールの徹底が図ることが必要です。

<信濃毎日社説>仏テロが問うもの 新たな9.11にするな

 「フランスの9・11」―。パリの風刺週刊紙シャルリエブドが襲撃された事件は、民主主義を支える表現の自由への攻撃と受け止められた。2001年の米中枢同時テロになぞらえるのは、それに匹敵する衝撃をフランス社会が受けた表れだろう。

 抗議と追悼の行進には、全土で370万人が参加。フランス革命以来の長い闘いを経て市民が勝ち取ってきた自由を守ろうとする強い連帯意識を感じさせた。

 襲撃で編集者ら12人を殺害した容疑者兄弟は、イスラム武装組織「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)とつながりがあったとされる。関連して起きた警官殺害と食料品店立てこもり事件の容疑者は、過激派「イスラム国」のメンバーだと自ら語った。

 その後、イスラム国とみられる組織が日本人2人の殺害を警告する映像を公開する事件が起きた。80カ国から1万5千人以上の外国人戦闘員が参加しているとされるイスラム国は、テロを世界に拡散させかねないとして国際社会の深刻な脅威となっている。

 バルス首相は「フランスはテロとの戦争に入った」と宣言した。オランド大統領は「一切の妥協を排して戦う」と述べている。勇ましい言葉は、9・11当時の米ブッシュ政権を思わせる。その轍(てつ)を踏みかねない強硬な対決姿勢に危うさを感じざるを得ない。

   <イスラムの怒り>

 9・11後、米国は「テロとの戦争」を掲げてアフガニスタン、イラクへの武力攻撃に突き進んだ。10年以上を経て、アフガンもイラクも安定とは遠い状況にある。イスラム過激派は拡散し、各地に新たな組織が生まれた。AQAPやイスラム国もその一つだ。

 対テロ戦争は、誤爆や戦闘の巻き添えで多くの市民を犠牲にしてきた。「とりわけ、子どもや母親の命が奪われることへの激しい怒りがイスラムの人たちにある」。内藤正典・同志社大教授(現代イスラム地域研究)は指摘する。

 19世紀以降、英仏など西欧列強国はイスラム世界を植民地として分割支配した。それが今日に至る中東地域の分断や対立につながっている。パレスチナを占領し、軍事攻撃を繰り返すイスラエルを、米国は一貫して支持してきた。

 欧米を敵視し、暴力に訴える集団がなぜ台頭するのか。歴史や背景に目を向けて根源的に考えることをせずに、力でねじ伏せても問題は解決しない。

 テロとの戦争がもたらした中東の混迷がそれを示している。イスラム国を壊滅させても、また別の集団が現れるだろう。終わらない戦争がさらなる憎しみを生み、事態を悪化させるばかりだ。

 対テロ戦争は、米社会も変質させた。愛国者法によって盗聴や個人情報の取得に関わる捜査当局の権限が拡大され、厳しい監視社会になった。イスラム系の市民らを不当に拘束する人権侵害も日常化した。CIA(中央情報局)による拷問も明らかになっている。

 フランスは襲撃事件を、第2の9.11にしてはならない。軍事力に解決策を求めれば、際限のない暴力の応酬を世界にもたらす恐れがある。監視の強化は、守るべき市民社会を窒息させかねない。おびえや報復感情に突き動かされない冷静さが何よりも大切だ。

   <排除の論理を超え>

 容疑者3人は、フランスがかつて植民地支配したアルジェリアやマリからの移民の家庭に生まれている。事件の背景には、移民系のイスラムの人たちを差別し排除してきた構造的な問題がある。それは欧州各国に共通する課題だ。

 移民系の人たちの多くは就職差別などによって社会の底辺に押しやられている。つばを吐かれる、「国へ帰れ」と罵声を浴びる、といった経験も珍しくないという根深い差別意識は9.11を経て公然と現れ、移民排斥を主張する極右政党が支持を広げてきた。

 襲撃事件後、フランスではイスラムの礼拝所が銃撃されたり、手りゅう弾が投げ込まれたりする事件が相次いだ。ドイツでは「西洋のイスラム化反対」を訴える団体のデモに2万5千人が参加している。嫌悪感情が増幅されれば、イスラムの人たちを一層孤立させ、暴力へと駆り立てかねない。

 多くのイスラム系市民が暮らすようになった欧米社会は、異文化とどう共存していくか、問い直しを迫られている。表現の自由や政教分離をめぐって、イスラムの考え方と根本的な隔たりがあることも浮き彫りになった。

 だからこそ、どうすれば対立を招かないかを互いに考え合っていく必要がある。欧米の価値観を振りかざしても、反発が強まるだけだ。文明が異なる西洋とイスラムの衝突は避けられないとする排除の論理を超えて、問題に向き合っていかなければならない。