なかなか面白い話です。
[中央日報日本語版] 【時視各角】「嘘も表現の自由だ」=韓国
子供は外で見たことや人について、針小棒大にしたりもっともらしく話を構成したりして語った。家族はおもしろく聞き、これで子供の「創作本能」が弱まるとは思わなかった。そんなある日、やはり「創作物」をまくし立てていたが、そばで誰かが「この子は今、嘘をついている」と証言した。子供はドキッとした。ところが母親は言った。「もともと頭の良い子が嘘も創意的に話しているのだ」。
その時、子供が衝撃を受けたのはその話が嘘だということを母親がすでに知っていたという事実だった。そして人には嘘と本当の話を区別する分別力があることも悟った。このことは子供に「虚構の世界」と「現実世界」を区別させた。そして10歳の子供は泉がわき出るような嘘の欲求を一度に注ごうと小説を書き始めた。
嘘は時に破壊的で暴力的だ。時々、嘘に対する法的処罰の要求で騒がしくなるのはそのせいだ。昨年、セウォル号事故当時に出たホン・ガへという女性の嘘もそんなケースだった。彼女は自身が民間潜水士だとして海洋警察がまともに救助活動をしていないと、あるテレビメディアのインタビューに嘘を言った。これに対し海洋警察の名誉を傷つけたとの容疑で拘束され裁判を受けた。そして9日の第1審で無罪判決が下された。「表現の自由」を認めたからだ。ただし裁判所は「この判決が、ホン氏の行動を正当化したり免罪符を与えたりするものではない」と明らかにした。嘘は道徳的な審判を受ける問題であって、法で断罪することにはならないという話だ。
メディアを利用した虚偽事実の流布を法で断罪することは、表現の自由を侵害するという憲法裁判所の決定も出てきたところだ。2010年にインターネットのポータルサイトに虚偽の経済展望で民心を動揺させた別名ミネルヴァ事件から出た決定だ(ただし個人の名誉毀損は表現の自由ではない)。これで権威主義時代に表現の自由を抑圧した「虚偽事実の流布罪」は歴史の背後に消えた。権威者が事実が何かを教えずとも市民は自ら真実と偽りを見分ける分別力がある。ホン・ガへ氏の嘘は市民が見抜き、ミネルヴァの偽りは力を失った。
「表現の自由」。この頃フランスの時事漫評週刊誌『シャルリー・エブド』に対する武装テロ後、世界の最も熱い争点になった価値だ。これを機に世界の自由陣営諸国は、表現の自由に対する信頼をより一層強固にしながら一つになっている。韓国新聞協会も今回のテロを糾弾する声明を出した。ところがこの声明には、テロ糾弾と共に世界日報の「青瓦台(チョンワデ、大統領府)チョン・ユンフェ文書」報道に対する検察捜査が国内メディアの自由を萎縮させかねないという憂慮も入れた。
実に青瓦台の告訴事態は、表現の自由に対する社会的意識と要求が大きくなるのに反して執権層(権力者、支配階層)の意識はこれに従えない後進性を見せている。嘘も「表現の自由」だと認めるのは「言葉」を萎縮させる時の副作用がより大きいからだ。人々は分別力と判断力、発展的な代案を探す批判能力があるのに、これは表現が自由な時にさらに成熟し、意識が成熟すれば言葉も純化される。シャルリー・エブドの漫評は、実際には他文化を尊重しない態度を見せており時にはおぞましい。それでも、これに対する物理的暴力の前に世界の人々が「私もシャルリー」といってペンを持って出るのは、表現の自由に対するテロはまさに私たちの分別力と判断力に対するテロであるからだ。
正しいか正しくないかを問い詰めるのは私たち自らでなければならない。誰も、これが正しい正しくないと注入してはいけない。注入された正義に対する盲信は全体主義を呼び、分別力と批判能力を抹殺する。嘘が上手だった子供は、真実と偽り、嘘と創作を区別できた母親の分別力と忍耐のおかげで、今は記者として、小説家として生きている。分別力と批判精神が生きている市民が健康な文明社会をつくり、このような成熟した市民をつくるためには表現の自由を抑圧してはいけない。「表現の自由」に対する深い省察を、青瓦台にも勧めたい。
ヤン・ソンヒ論説委員