団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

常盤平団地の54年 17 三点盛りもどき

2019-02-06 11:30:21 | 食いしん坊

私だって三点盛りと言えば、例えばマグロ、鯛、ヒラメ等々お刺身の盛り合わせを思い浮かべます。

然し数日前の夕食時に私の前に出て来たのは、平凡なお皿に無造作に置かれた焼き魚の三点盛り塩サケ、目光、それと前日の夕食で残った鯖の一夜干し・・の残りです。

 でも良いのです、塩分を少なめに、全て薄塩で量もソコソコに・・

干物の鯖は又残るでしょう、何故って私が余り好きでは無いから・・

塩サケは腹身の方と皮を戴いてこれも半分残るでしょう・・

目光に目の無い私、常磐物は最近水揚げが少ないようで、日立辺りでも中々の高級品になりました。適当に炙って焼かれた愛知産?は大きい輪切りのレモン汁をかけてレモン毎大袈裟に言えば完食です。

以上我が家の国産干しさかなの三点盛りもどきとでも言いましょうか、正直なところ水っぽいお刺身三点盛りよりも数等上だと老妻に感謝しているわたしなのです。

恵方巻に代表されるように,今我が国の食品廃棄率の高さが問題になっていますが、お陰様で我が家では廃棄する生ごみは少ない方だと思います・・なんて偉そうな事を言って・・勿体ないか食べちゃうのです・・ゴチソウサマ

 

 

 

 


常盤平団地の54年 10 私とラーメン4で終ります

2019-01-26 16:11:38 | 食いしん坊

戦後復興が目覚ましい東京高田馬場周辺ではサラリーマンや学生相手の飲食店が沢山出来ていました。

その中の1軒、高田馬場駅横町の有る中華そばの大成軒迄は家から500m位です。

私が話をしたので興味を持ったのか、或る日初めて母と中華そばを食べに大成軒へ行きました。

店内は混雑の時間を外したお蔭でカウンター中央に二人並んで座ることが出来ました。

お店の調理場はL字型のカウンターの前に遮るものは無く、年配のマスターが中央に構えて湯気が濛々と立ち込めるオープンな雰囲気です。

注文を聞いてマスターが中で動き始めた時です。

いきなり母が席から身を乗り出してマスターの手元を覗き込んだのです。中をジッと見つめていましたが、安心したように、又腰を座席に下ろしました。

私も改めて中を覗き込んだのですが、マスターの右側には私には見慣れた大釜の8分目程迄黒っぽい液体の中に、白い根っこの付いたネギと青いネギの葉っぱが浮かんでいるのが見えました。

きっと黒い大釜鍋の底には秘伝のラーメンスープのエキスが一杯溜っているのでしょう。

マスターが定番の器にお玉で大鍋から赤みを帯びたスープを注ぎ、二度三度湯切りした麺を器の真ん中に置いて、その上にチャーシュー、メンマを乗せれば出来上がりです。

私達二人は看板娘の運んで来た中華そばを美味しく頂いたのは間違い有りませんが・・私は何時も食べているから・・横で黙々と食べている母の方が気になって、確か「どう?・・」「ウン美味しいね・・」言ってくれたのが嬉しくてニッコリとして・・又麺を啜りスープを飲みつくして・・そのあとの事は覚えていないのです。勿論勘定は私が払ったのだと思いますが・・親子が対等で食べた最初で最後の中華そばだったのかも知れません。

若しかして母が身を乗り出してマスターの手元を覗いたのは「中華そばってどうやって作るのだろうか・・」と考えたからだと思います。と言うのは・・

小学校のPTAで何人かの女友達と地元の蕎麦屋さんに行って親子丼の作り方を教わり、私達兄弟に食べさせてくれたあの時は、親子丼を何度か繰り返して作り直して、遂には私の友達に迄、親子丼を作ってご馳走した際には「おばさんコレ旨いよ、お店でも充分お金戴けますよ」と言われて「Kさんはお世辞がうまいからね~・・」と恥ずかしそうでしたが、嬉しそうでもあった母です。近所で独り暮らし下宿していたK君は我が家の賑やかな家族の日常生活に、きっと自分の故郷新潟柏崎の事を思い出していたのでしょう。

 明治生まれの母が東京の下町育ちという事は解っているのですが詳しい生い立ちを語る事は生涯有りませんでした。戦後の貧困生活を乗り越えて両親と5人兄弟、父は65才で母に先立ち、10才年下の母は87才で無くなりましたが、父無きあと30年余りの年月、例え自分は食べなくとも子供達兄弟5人のすきっ腹を満たして育ててくれた母、私達の両親に感謝と尊敬の言葉を贈る兄弟とお互いの連れ合いは、現在年は取っても現役人生で平成最後の1年を平和の内に過ごしているのです。

それにしても私の食いしん坊も若しかすると母親譲りなのかも知れません。

この十年、私達夫婦にとっては行き付けのラーメン屋さんが再開の芽もなく、次々と閉店に追い込まれて往きました。時代とは言え寂しい限りです。

いつか近所でラーメン屋さんが新規開店したら、若しかして新装開店したなら、ラーメン大盛りを注文して、、、ラーメンスープを全~んぶ飲み干して・・「ゴチソウサマ~」って言いたい私達です。

 血液サラサラ、サラダ玉葱のサラダです。ホントに甘いです、かつお節掛けたら最高に美味しいです。ゴチソウサマ

 

 

 


常盤平団地の54年 9 私とラーメン3

2019-01-24 20:11:38 | 食いしん坊

大久保駅の近くの町工場で朝8時から夕方5時まで工員として働き乍ら早稲田の第二商学部(夜間部ですが現在は無いようです)へ通う毎日、学費を払った残りで手に入れたカメラがマミヤ6です。

リコーの二眼レフと共に当時6×6判のフィルムは引き延ばしには画面が大きくて35㎜フィルムより鮮明に映るので人気のカメラでした。子供達が悪戯して変なシールが貼られていますが・・

 高田馬場駅前を左折してガード沿いに有った中華そばの店、確か大成軒と言うラーメン店です(今でも有るのかは分かりませんが)自分で稼いだお金でカメラを手に入れて、この店の常連になり看板娘のお姉さん(当時は私より年上だったかも)に「日本髪を撮らして」と営業中にお店の外へ連れ出してマミヤ6で撮った一枚の写真・・古いアルバムの中に残っていました。

チャーシュー一枚が乗った中華そばが35円、確か週刊誌が30円の頃です。

正月飾りの奥で、中華そばの暖簾に書かれた4文字は「ばそ華中」と今とは逆になっています。

勿論大成軒の中華そばが旨くて(当時も今も何を食べても美味しい旨いの私ですから当てにはなりませんが)一人で良く通ったものです。どうゆう訳かチャーシュー友食いのS君と行った記憶は無いのですが・・

少し大人になった頃、母を連れてこの大成軒へ行った話は次回に・・

お昼はカップ焼きそばでした。刻み野菜が隅にこびり付いてる一人前の焼きそばは焼いて無いのに何故焼きそばか?でも焼きそばと言われれば焼きそばの味・・舌が可笑しいのかサッパリ解りませんが焼きそばは大好きです・・ゴチソウサマ

 

 

 

 

 

 


常盤平団地の54年 8 私とラーメン2

2019-01-23 21:32:24 | 食いしん坊

中学校時代の友達S君は戸塚4丁目(現在の高田馬場4丁目)の米屋の次男坊です。

私も次男坊で気が合います。

今年のクラス会も一緒でした。

彼は商才に長けていたのか、60代に高田馬場周辺の土地を買い不動産会社として成功し、地元の大地主になっています。一方同じクラスのY君は戦前から、この界隈の大地主で一人っ子60代でクラス仲間としては早い他界でした。

今、Y君の家は跡形も無く家族も何処かへ引っ越したか?消息はS君にもサッパリ解らないそうです。

S君と私は当時も今も親友同士で早稲田の中学校に通った3年間お互い帰り道が同じなので良く二人で語らいながらの下校でした。

早稲田から高田馬場駅迄、今思えば何を喋ったか、或は口角泡を飛ばしてペチャクチャと・・高田馬場駅迄で青臭い議論が終わらずに、再び早稲田迄語り続けた事も有りました・・文字通り楽しい青春時代の1ページです。

ところでラーメンの話、当時は中華そばなのですが、当時、麺の上に乗っているチャーシューは必ず1枚と決まっていたようです。勿論、麺の上にチャーシューが何枚も敷き詰められた豪華なチャーシュー麺も有ったでしょうが、私達中学生の小遣い銭では中々食べられなかったのです。

学校の帰り道、お腹も空いて来て、何時しか食い物の話になりました。「な~Sよ、中華そばに乗っている薄っぺらのチャーシューだけど・・もっと厚い奴食ったら旨いだろうな~」「それもそうだな~・」「ウン・・」

偶々高田馬場駅近くにY君の親戚で大きな肉屋さんが有ったのです。近くには中華そばの店も有ったのですが、今回は二人の会話の目の前に青柳と言う肉屋さんが有ったのです。

肉屋ですからコロッケとかメンチとかも有ったでしょうが、二人の目的はチャーシューのみ・・

「幾ら位するんだろう?100gか?200gか?・・」私が握りこぶしを作って「こんなもんだろう・・」

話し合った結果、一人50円づつ出し合い合計100円の予算で肉屋さんへ・・・

店の主人は何も知らないから目方を計って丁度100円分の塊を・・大きさは正解、中学生の握りこぶし程のチャーシューの塊が紙の袋に入れられて私達の手にはいったのです・・

流石に人の多い駅前通りで此れを分ける訳にはいかず、鞄を肩から下げた学生服姿の二人は、傍らの横町へ入り込み、袋から取り出したチャーシューの塊を私が両手両指で二つに千切って(勿論包丁等は持って無い)・・と言っても中々上手くは二つに割る事も難しい・・然し幸い辺りに人は来ない・・やっと二つにして・・向き合って二人同時に「ガブリ?・・」と・・・???

チャーシューは中華そばの上で食べるのが1番・・でも二人には満足のチャーシューだったのです。

 今日のお昼は懐かしい京樽のお寿司です。「お父さん茶巾を食べて」「ウン」半分こにしようとしましたが、結果無惨?久し振りなので茶巾の縛りに気が付かない食いしん坊の私です。茶巾寿司を含めて殆ど私が平らげてしまいました。ゴチソウサマ

 

 

 


常盤平団地の54年 7 私とラーメン 1

2019-01-22 21:29:35 | 食いしん坊

朝ドラでは今朝から即席ラーメンを思い付く映像が流れています。

小さいときから食いしん坊の私には発明など縁も有りませんが・・

ラーメンの関する思い出なら幾つか・・

今から70年余り戦前の事、あれは私が国民学校(現在の小学校)1年生か2年生の頃の話です。

戦争の影が忍び寄って来てはいたのでしょうが、戸塚町3丁目(今の高田馬場4丁目の辺り)の大通りから横町に入ったこの路地の中程左右には銭湯青山湯、遠山理髪店が向き合って昼夜近辺の人で賑わっていたのですよ・・

 今残っているのは米屋さんだけです。 戦前からの老舗に挟まれて大通りは右も左も国際色豊かな学生さんが行き来する繁華商店街です。

その他この横町には、入り口角に熊田畳屋、松田米屋、守屋魚屋に・・他に神田川に近いこの地域では以前から染物屋、染み抜きや、織物の卸店も・・夜になると、灯りが付いて、どこかギヤマン?異国情緒のカフェも有ったのですよ・・私の家は数年前下谷(上野の近く)から家族で引っ越して来た町工場でしたのでお客の出入りは有りませんでしたが・・騒音だけは酷かったようですが当時は「煩い!」なんて苦情も無く・・でも当時は軍需で父は工員さんを数人雇って・・話が長く横道に逸れそうなので、そんな話はさて置いて・・・

煙突の聳える銭湯青山湯の横丁の角っこに、店主オヤジ一人の小さなチャンポンそば屋があって・・夕方になると赤っぽい灯りが付いて・・お風呂上がりのお客などがカウンターだけの店内でイッパイ引っ掛けて帰る寸法です・・

昼間、この辺りで蝋石で路上に丸い土俵を描いてお相撲遊びや缶蹴りしたり、入り組んだ横町でカクレンボしたりで遊び疲れた五、六人子供達・・夕食前のひと時、チャンポンやの前の道路脇の縁に並び、しゃがみ込んで何と無く灯りが点いた提灯と店内の灯りが照らす曇りガラスに目が行きます・・

ボ~っと薄明るい店の窓に、やがてカウンターのお客らしいの人の横顔が映りだして・・・

お客はお酒を呑み出したのでしょうか・・コップでしょうか持ち上げてグイっと一杯・・旨そうです・・

待ってましたとばかり私達ガキ一同は「イッパ~イ!・・・」飲み終わると人影は静かに動きません・・ガキどももジッとして、固唾を飲んで次のお客の動きを見つめます・・次の瞬間「二~は~い!・・」・・暫らくの間、路地は静寂と沈黙が重なります・・・その時「君ちゃーん・・ご飯よ~・・」子供達今日も仲良く元気に遊びました・・辺りは暗くなって夫々が直ぐ近くのお家に散っていきます・・

大通りから高田馬場駅方面は当時も賑やかな商店街でしたがラーメン屋はおろか中華そば屋も存在してた記憶は無く、子供の足で動ける範囲では、この居酒屋風のチャンポンそばが唯一の戦前の中華蕎麦屋だったように思います。

そう、今思い出しました・・下谷稲荷さんの脇、父が一人の町工場の隣で小さな煎餅屋を営んでいた母、高田馬場に引っ越してからでも、私を連れて高田馬場駅向こうの早稲田通りのお店にお煎餅を買いに一緒に付いて行ったことが何度か有りました。

お煎餅屋さんの隣のお店の決して綺麗とは言えないショウケースの一番下に大きな鯉の丸揚げ(今思えば蝋細工の商品見本だったと思いますが)が一匹飾られていたのです。ホコリを被って黒っぽい鯉の丸揚げでしたが、値段は書いて無かったか?或いは時価の表示だったかも知れません。

「こんな大きな鯉の丸揚げが・・」と見つめる私に母親はお店には興味なかったみたいで・・或は私に鯉を食わせろとねだられるのが怖かったのかも知れませんが・・

何度か母とお煎餅屋へは行ったのですが鯉の姿はいつも変わりなく魅力的で、どんなお店だったかは覚えていないのです。若しかして中華料理のお店だってかも知れませんが・・そして中華そばが有ったかも知れませんね・・

朝晩血圧を計り始めてから、お煎餅は口にしていません。中華そばも、カップ麺も残ったおつゆは胃袋迄運ばない昨今の私です。

 野菜中心で具が沢山入った酒粕入りのけんちん汁を作って呉れました、これならおつゆも飲み干しても大丈夫と・・ゴチソウサマ

ウインドウズが如何のときな臭いメッセージが出て来てます。今夜はこれで・・シャットダウンします。