懲りもせずに入ってくる関係ないA4のFax用紙をシュレッダーで処分していた奥様が「コレも要らないの??」って・・
コダックカラープリントの袋をハサミで丁寧に開いて裏をメモや手紙に活用しています。
終戦後、未だ物が十分に手に入らなかった時代ですから・・
それにしても節約と云う言葉がピッタリの貴重な手紙です。
平気で日常、紙を無駄にしている自分には反省して・・
これからA4一枚の紙でも大切に使いたいと思っている自分です。
鉛筆で書かれた手紙を再現しますと・・
「今年は不作の様でか少々ですが食べて下さい。こちらへ何も送らなくて結構です、無駄が多いから
私身体の方は相変わらずですが年令の方は遠慮なく老いてゆきます。
お母さんの事も心配ですが、兄弟力を合わせて面倒をみて居られる由、頭が下がります、少々です。米は7分ツキです。」
何十年も前に三重県に住んでいた叔父の石川当造さんが私の所へ送ってくれた米と一緒に添えられていた手紙らしい・・
戦後、傷病兵として復員された叔父は私達兄弟の従弟で東京麻布で若手カメラマンだった持田和夫さん(私と同年配、去年亡くなられたと後から知らされて)の指導を受けて・・
三重県亀山市で一人生計を立てるために小さなDPの店を開いていた。
後に結婚して足の不自由な奥様が経営する美容院とともに文字通り二人三脚で夫婦がそれぞれのお店を経営しながら子供も二人育て上げられた。
叔父は太平洋戦争で傷ついた立派な傷痍軍人でした・・そして私達5人兄弟にとっても母亡きあとも大事な叔父さんでした。
特に集団疎開で草津に疎開していた私の我儘な願いを欲しがるままに何でも送ってくれた飛行機の整備士だった軍人でもあったのです。
戦後、私たちの母親と年の離れた唯一の弟である叔父は「馬場のお母さん」「三重県の叔父さん」と呼び合って晩年は東京と三重県亀山市、離れていても姉と弟二人の微笑ましい交流は続いていたのです。勿論私達兄弟5人とも手紙のやり取りはあったのですが・・
普通のハガキ、普通の便箋でした。
それだって殆んど残ってはいません。
今は皆あの世で一緒の楽しい日々を送られているのでしょうか・・
毎年お米は色々な方から送られて来ますから我が家夫婦二人近所にお裾分けしてもお店で買わないで一年間白いご飯が食べられない日は有りません・・
有難いことです・・