5月5日(火)こどもの日
連日の好天に恵まれて、何処の観光地も人で溢れているようです。
昨日も凄かった・・・誰が言い始めたのか、まさに「ゴォールデンウィーク」です。
今日は、朝から29日の「初風炉の茶事」の後片付けです。
3時頃には終りましたので、昨日の備忘録的な事を書いて置きたいと思います。

内堀通りを入ると
直ぐに綺麗な石垣が目に入る。
石垣の美しさだけでも感動してしまいます。

二重橋
皇居前広場から宮殿に至る二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」と云い、奥の鉄製の橋を「正門鉄橋」といい、この二つの橋を総称して「二重橋」というそうですが、今では、手前の橋が「二重橋」と思っている人がほとんどだそうです。

坂下門
普段は宮内庁出入りに使われている門ですが、この門は、「坂下門の変」で有名となりました。
時の老中安藤信正が水戸浪士を中心とした尊攘派が、公武合体論を唱え、和宮降嫁を実現させた事に憤慨して、この門のところで襲撃して負傷させた事件です。

内桜田門(桔梗門)
この門は、幕府の要職にある者が登下城する門のひとつで、屋根に太田道灌の桔梗の家紋があったことから、「桔梗門」とも呼ばれていた。
お濠に映えてきれいな櫓でした。

大手門
この門を駕籠に乗ったまま出入りできたのは、尾張・紀州・水戸の御三家と日光門主だけで、一般大名はここから先は駕籠を出て歩いて登城する決まりだったそうです。
お供の人達は殿様が帰ってくるまで、この門の前で待っていたそうですので、この大手門前は、お供達の為に屋台が出て大変な賑わいだったそうです。
お殿様の出仕は10時から2時までの4時間だそうで、1か月に3~4回あったそうです。

百人番所
大手門から進むと、長さ50メートルを超える百人番所と呼ばれるところがあります。
大手三門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所であったと云われております。
鉄砲百人組と云われた根来組、伊賀組、甲賀組などが交代で常に100人態勢で昼夜を問わず警護していたところだそうです。

中雀門
本丸御殿に通じる最後の門で、先ほどの御三家も日光門主もここからは徒歩で本丸御殿に向かったそうです。

本丸御殿跡
ここが江戸幕府の行政を司ったところで、行政をする表向と将軍の暮らした中奥と大奥に別れており、もっとも格式が高い「大広間」は正月などに諸大名が参集する場所でありました。
戊辰戦争で焼けてしまったため、しばらくは野菜や桑畑の時代もあったそうですが、明治4年から昭和4年まで、ここに午砲台があり、正午になると「ドン」と大砲の音が鳴り響き、東京府民に「ドン」の愛称で親しまれたそうです。
そして、土曜日には、この「ドン」が鳴ると仕事が終るので「半ドン」という言葉が生まれたそうです。

天守台
江戸城本丸の一番北川あり、家康・秀忠・家光三代にわたり築き直され、代が代わるごとに将軍の権力の象徴的な役割を果たすように荘厳になって行ったそうです。
明暦三年の大火で天守はことごとく焼けてしまいましたが、直ぐに再建に取り掛かり、石垣は加賀前田家が受け持ち、四国から運び込んでの普請でしたが、四代将軍綱吉の叔父の保科正之の一言で中止されたという事です。
「今は戦国の世とは違い、天守は必要が無い、其れよりも江戸市中の復興こそが第一である」
以来、天守は築かれることなく明治を迎えました。

乾門
この門は再建されたもので、最近では、桜の季節と紅葉の季節に坂下門からこの乾門までの通り抜けが話題になっております。
今回はガイド付のツアーでしたが、行って見てからの事になりますが、自分だけでも十分に行って見られるところだと再認識いたしました。
連日の好天に恵まれて、何処の観光地も人で溢れているようです。
昨日も凄かった・・・誰が言い始めたのか、まさに「ゴォールデンウィーク」です。
今日は、朝から29日の「初風炉の茶事」の後片付けです。
3時頃には終りましたので、昨日の備忘録的な事を書いて置きたいと思います。

内堀通りを入ると
直ぐに綺麗な石垣が目に入る。
石垣の美しさだけでも感動してしまいます。

二重橋
皇居前広場から宮殿に至る二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」と云い、奥の鉄製の橋を「正門鉄橋」といい、この二つの橋を総称して「二重橋」というそうですが、今では、手前の橋が「二重橋」と思っている人がほとんどだそうです。

坂下門
普段は宮内庁出入りに使われている門ですが、この門は、「坂下門の変」で有名となりました。
時の老中安藤信正が水戸浪士を中心とした尊攘派が、公武合体論を唱え、和宮降嫁を実現させた事に憤慨して、この門のところで襲撃して負傷させた事件です。

内桜田門(桔梗門)
この門は、幕府の要職にある者が登下城する門のひとつで、屋根に太田道灌の桔梗の家紋があったことから、「桔梗門」とも呼ばれていた。
お濠に映えてきれいな櫓でした。

大手門
この門を駕籠に乗ったまま出入りできたのは、尾張・紀州・水戸の御三家と日光門主だけで、一般大名はここから先は駕籠を出て歩いて登城する決まりだったそうです。
お供の人達は殿様が帰ってくるまで、この門の前で待っていたそうですので、この大手門前は、お供達の為に屋台が出て大変な賑わいだったそうです。
お殿様の出仕は10時から2時までの4時間だそうで、1か月に3~4回あったそうです。

百人番所
大手門から進むと、長さ50メートルを超える百人番所と呼ばれるところがあります。
大手三門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所であったと云われております。
鉄砲百人組と云われた根来組、伊賀組、甲賀組などが交代で常に100人態勢で昼夜を問わず警護していたところだそうです。

中雀門
本丸御殿に通じる最後の門で、先ほどの御三家も日光門主もここからは徒歩で本丸御殿に向かったそうです。

本丸御殿跡
ここが江戸幕府の行政を司ったところで、行政をする表向と将軍の暮らした中奥と大奥に別れており、もっとも格式が高い「大広間」は正月などに諸大名が参集する場所でありました。
戊辰戦争で焼けてしまったため、しばらくは野菜や桑畑の時代もあったそうですが、明治4年から昭和4年まで、ここに午砲台があり、正午になると「ドン」と大砲の音が鳴り響き、東京府民に「ドン」の愛称で親しまれたそうです。
そして、土曜日には、この「ドン」が鳴ると仕事が終るので「半ドン」という言葉が生まれたそうです。

天守台
江戸城本丸の一番北川あり、家康・秀忠・家光三代にわたり築き直され、代が代わるごとに将軍の権力の象徴的な役割を果たすように荘厳になって行ったそうです。
明暦三年の大火で天守はことごとく焼けてしまいましたが、直ぐに再建に取り掛かり、石垣は加賀前田家が受け持ち、四国から運び込んでの普請でしたが、四代将軍綱吉の叔父の保科正之の一言で中止されたという事です。
「今は戦国の世とは違い、天守は必要が無い、其れよりも江戸市中の復興こそが第一である」
以来、天守は築かれることなく明治を迎えました。

乾門
この門は再建されたもので、最近では、桜の季節と紅葉の季節に坂下門からこの乾門までの通り抜けが話題になっております。
今回はガイド付のツアーでしたが、行って見てからの事になりますが、自分だけでも十分に行って見られるところだと再認識いたしました。