tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

茶会の後で・・・

2016-10-16 18:45:56 | 茶の湯
10月16日(日)
朝から快晴、秋の深まりを感じます。
今日は茶友が釜を掛けましたので行って来ました。

お願いすれば撮らせてくれますが、写真は失礼たしました。

   
   茶会が終って

素晴らしい道具が並んでおりました。

お道具組です。
床   鵬雲斎大宗匠筆 秋露白如玉
花   カワラナデシコ・白花サクラタデ
花入  青磁耳付鶴首               時代
香合  琵琶  鵬雲斎大宗匠箱          清鵬造
風炉先 坐忘斎好「祥寿」在判          吉兵衛造
風炉釜 鵬雲斎好 唐銅朝鮮風炉千歳釜       浄心造
棚   淡々斎好 「菊寿」鵬雲斎在判       喜斎造
水指  鵬雲斎箱 「竹の絵」          善五郎造
薄器  仙叟箱「再来」鵬雲斎在判箱      三代宗哲造
と云うお道具でした。

お茶碗など素晴らしい物ばかりでしたが、後のお道具は省略させていただいて、ご想像いただければと思います。


   カフェテラスで

久し振りのお茶会でしたのでちょっと疲れました。
コメント (2)
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親鸞聖人の足跡を訪ねて

2016-10-16 08:06:41 | 旅行
10月16日(日)
朝から秋晴れの爽やかな一日になりそうです。
先日「親鸞聖人の足跡を訪ねて」と云った小旅行をいたしました備忘録的ブログになります。

朝早く出発してひたすら目的地に向かい、午前8時30分、予定通り「板倉草庵」に到着いたしました。

   
   性信上人像

この場所を管理されている方々が待っていてくれました。
普段は拝観するは出来ませんが、事前にお願いをして置きましたので、拝観させていただけました。

以前は、「佐貫草庵」とよばれ、栃木県の佐貫が、親鸞聖人の関東での最初の草庵とされておりましたが、調査研究の結果、群馬県板倉町だという事が証明されて、今に至っております。

ご高齢の世話人の方が、かぼそい声で親鸞聖人と性信上人との話をしてくれました。
性信上人は、鹿島神宮神官の家系に生まれ、幼いころから悪童腕白であったが、青年になると紀州熊野権現に参篭しての荒行を行い、京に上り、法然上人に帰依し教えを乞うたが、上人は高齢のため善信房(後の親鸞聖人)に託したと云われております。

若き親鸞と生涯初めての子弟の契りが結ばれ、法名を『性信』と賜り弟子になり、親鸞のいる所必ず性信房の姿ありと云われるほど常髄眤近(じっきん)の弟子となった岡だそうです。

   
   小島草庵

越後を後にした親鸞聖人が、上野国板倉を経て常陸の国に入って最初に居住したのが、「小島草庵」であります。

   
   小島草庵跡

この草庵に3年間逗留していたといわれております。
この草庵で関東での布教に力を注ぎ、関東での真宗の礎を築いたといわれております。

今は記念の碑が建ち、4基の五輪塔があるのみで、東寺の面影は全くありませんでした。
ただ、「稲田恋し大銀杏」の大木が一本、「小島草庵」はこことばかりに茂っておりました。

   
   光明寺

このお寺も親鸞聖人との深いかかわりがあります。
鎌倉時代、和田義盛の乱で敗れた三浦義忠が落人となって流れ着いたところが、この地であり、夢のお告げで親鸞聖人と出合い弟子となり、この寺を建立したといわれております。

事前にご連絡申し上げところ、「何もなければいつでもいいですよ」との話でしたがこの日は、法事が入っておりご住職の御話は聞くことが出来ませんでした。

親鸞聖人お手植えの菩提樹が門前にそびえておりました。

   
   大覚寺

このお寺は「親鸞聖人法難の遺跡」という看板を掲げております。
常陸の国での親鸞聖人の名声が上がるにつれて、心中穏やかではない人物がおりました。修験道の大家で名を「弁円」といい、この地方ではその道では名前の知れた人物であったそうです。

   
   弁円上人像
このままでは自分の立場が危ういと考えて、この寺の裏山に護摩壇を設け三日三晩祈り続け、親鸞を呪い殺そうとしましたが失敗に終、遂に親鸞聖人を殺害しようと、稲田の親鸞聖人の住居に乗り込みますが、余りの人物の大きさにその場で弟子になってしまったという逸話が残っております。

   
   親鸞聖人像

ご住職の御話を伺う事ができました。
まだ若い方でしたが、わかりやすいお話でしたので、私たちにも充分理解することが出来ました。
恐るおそる、写真を撮ってもよろしいですか・・・「いいですよ」というお許しがありましたので、撮る事ができました。

   
   阿弥陀寺

阿弥陀寺は、親鸞聖人が念仏道場を開き、多くの弟子たちを育てあげ、その時に生まれたのが浄土真宗二十四輩と云われる人々でした。
親鸞聖人が京へ上られる時に十四番目の定信房に委ねたのが、このお寺の始まりと云われております。

ご住職は不在で、お話を伺う事は出来ませんでした。
今では桜の名所として有名になっております。

この後上宮寺へと向かいました。

このお寺を開いたのは、「弁円上人」です。
この人は、親鸞聖人を殺害しようと乗り込んで行き、その場で弟子になってしまったといわれております。
弟子になって以来、忠実に仕え建長3年に遷化したと云われております。

   
   弁円上人の墓

本堂横に弁円は葬られ、今もそこに眠っております。
御住職は不在でしたが、奥様がたくさんお話をしてくださいました。

   
   西念寺

稲田御坊の名で親しまれている稲田禅坊西念寺は、親鸞聖人が恵信尼と共におよそ20年間住み、ここを拠点として、関東一円での布教に務め、元仁元年(1224)には教行信証(浄土真宗の根本聖典)を完成させたといわれております。

親鸞が京都に戻った後は弟子である善性が跡を継ぎ何度か移転を繰り返し浄興寺(新潟県上越市)として越後に落ち着いたそうです。
それでも引続き親鸞上人の旧蹟の地として、稲田は聖地化され続け、神聖視されております。

   
   親鸞聖人の墓

本堂の脇を上って行くと、親鸞聖人の頂骨堂や、太子堂などが点在しており、特に太子堂は創建された当時のままの姿を保ち堂々たる風格を見せてくれます。
親鸞聖人が、家庭生活を営み子供たちを育てたのも、ここ稲田草庵時代の事であります。

   
   林照寺

鎌倉時代に誠信房により開基創設された浄土真宗単立寺院です。
一見、西念寺の別院か塔頭のように、西芳寺の参道に面してあります。ここまで来て、このお寺に寄ることなく帰ってしまう人が多いいらしい・・・

事実、私たちの案内役のボランテアガイドの方も寄ったことが無いし、知らなかったと言っておりました。
写真のような小さなくず屋根のお寺ですが、中はきれいな格天井を持ち何とも落ち着けるお寺さんです。

案内を乞うと、本堂を解放していただき、ご住職が寺の由来やなどを事細やかにお話してくださいました

   
   玉日御廟

親鸞聖人の妻とされる玉日姫(たまひひめ)のお墓と伝えられており、親鸞聖人がいつどこで妻帯されたかは不明だと云われております。
それでも、稲田草庵で家庭生活を営まれたことは間違いのないところで、親鸞聖人が京都に帰る時に玉日姫は自らも剃髪し恵信尼(えしんに)になられたとも伝えられております。

しかし、玉日姫と恵信尼が同一人物であるか否かは諸説があり、未だに解っていないといわれておりますが、私たちは昨年越後の恵信尼のお墓を訪ねておりますので、一同???
これだから歴史は面白いのかも知れません。

   
   光照寺

このお寺さんは、「笠間御草庵」「関東お草鞋(わらじ)ぬぎの聖地」として有名な寺で、樹齢六百年という杉の大木がそびえ立つ山門が印象的である。

光照寺縁起には、「関東において最も古い草庵である」また、御消息集などに「初めて心から落居なされたところ」と書かれている。
ご住職は不在でしたが、奥様が丁寧にお話をしてくださいました。

   
   専修寺

親鸞聖人は、この地に7年間とどまり、北関東の不況の中心として、一光三尊仏㋾安置して堂宇を建立したのが始まりとされております。
広大な境内に、本堂、御影堂、庫裏などが点在して、時の隆盛さを誇っております。

庫裏や総門などは茅葺の趣ある風情を残しております。
訪ねた時には、車を止めてから、どこが門であるのかが分からず右往左往してしまいました。云い換えればそれだけ観光化されていないという事になります。

ひっそりとしたお寺で、私たちだけがあちこちと動き回っておりました。

   
   三谷草庵

三谷の地は親鸞聖人が高田山専修寺建立に際し、仮住まいをしたと伝えられている場所である。
仏間と庫裏の二つの建物からなり、専修寺の境内と共に国の指定史跡になっております。

2日間の慌ただしい親鸞聖人の足跡を辿る旅でしたが、昨年い続いて収穫ある楽しい旅になりました。
同行のみなさんに感謝です。

コメント (6)
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