賑々しいアスリート達の輝く金・金・金の声も、
都の感染者2848人そして無症状の感染者多数、医療状況逼迫なぞの恐ろしい声なども聞こえてきません。
ボケ爺いの老いの目に写るのは整枝されてなくて茂るこんな灌木です。
懐かしいです。桑の木です。昭和初年頃の農村の畑や山の斜面には綺麗に整枝された桑の木が整然と植えられ栽培されていました。絹糸がとれる繭を作る蚕の餌にするためです。
当時は農村のどの家でも蚕を飼っていました。蚕の繭はどの家でも大事な現金収入でした。養蚕(ようさん)と言いました。私の家などでは養蚕は母が中心の仕事でした。
春になると蚕紙という蚕の卵が産み付けられた紙を家々を廻ってくる業者から 買うんです。卵から孵った蚕の幼虫はやっと見えるほどの小さな黒ぽい虫です。それを桑の葉を小さく刻んで物の上に鳥の羽でそっと掃いて落とすのです。最初はお膳くらいの広さの蚕の棚ですけど蚕はどんどん脱皮して白い幼虫になります。「お蚕様」といっていました。
最初掃き立てられた「お蚕様」の棚の広さはお膳くらいですけども「お蚕様」が大きくなると「お蚕様」の棚は家のなかいっぱいになるのです。
その頃になると母の指示で父も子供も養蚕の仕事に忙しく取り組むのです。「蚕様」といっていました。「蚕様」の餌になる桑の葉を畑から採ってくる仕事、「蚕様」の糞でいっぱいになった棚を綺麗に取り替える仕事、繭をつくるようになった「お蚕様」をまぶしという繭をつくるものへ移し替える仕事、家族全員が目が回るほどのいそがしさです。
「お蚕様」は蛾の幼虫です。ですから殺虫剤は禁物です。ですから家の中は蠅でいっぱいです。いやー養蚕は大変な仕事でした。
そうして出来た繭は綺麗にして鑑繭所(かんけんじょ)にもっていって等級が決められ換金されるおです。母は毎年繭がいい等級になるのを誇らしく思っていたようです。
繭からつくられた絹糸は輸出され高級の衣類になったんですね。昭和20年の後半ナイロンが開発されるまで続いた農家にとっての大事な副業でした。
そしてまた熟した桑の実はおいしくて幼い子供たちの大事なご馳走でした。口を紫に染めてたべていました。爺いなった今でも採って食べれば美味しいんですよ。
今はもう忘れてしまった養蚕の懐かしい思い出です。
今では桑の木も伸び放題。桑の木がこんなに大木になるとは思いもしませんでした。
桑の木って、生命力がありますよね。切られても切られても、芽をだします。
しその葉の味噌焼きめし懐かしいです。食べたくてつばいっぱいです。家の一坪菜園にも青紫蘇が茂っています。でもばばちゃんはつくってくれません。今度爺いが作って食べてみようかしら、おふくろを思いだして・・・