兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

遠州の博徒・山梨の巳之助

2022年11月12日 | 歴史
江戸時代末期、遠州で知られた博徒は、大和田の友蔵、都田の吉兵衛、相良の富吉、そしてここで取り上げる山梨の巳之助である。巳之助が渡世を張った山梨は現在の袋井市の北部、周智郡森町に近く、秋葉山への信仰の道・秋葉街道に沿った地にある。巳之助の家には常時20~30人の子分がいた。

巳之助の稼業は、表は興行師、裏はサイコロ賭博で暮らしていた。子分には播鎌の周太郎、堀越の藤左ヱ門がいた。正式な子分ではないが、一時は江戸相撲をつとめた四角山周吉も出入りしていた。のちに遠州博徒の一時代を築いた大和田の友蔵も巳之助のもとに出入りしていた。幕末の遠州博徒の世界は、山梨の巳之助、大和田の友蔵の二人によって仕切られていた。

巳之助が初めて捕らえられたのは弘北2年(1845年)12月である。駿河の博徒・安西の吉五郎、柳新田の政蔵が総勢100人余りを引き連れて遠州にやって来た。巳之助はこれを迎え撃つため、堀越の藤左ヱ門ら身内を集めた。この情報が中泉代官所に分かり、役人の御用提灯に取り囲まれ、捕縛された。

捕らえられていた巳之助はその後釈放され、山梨へ戻った。その後、安政5年(1858年)に起きた「万松寺事件」で再び巳之助は捕らえられた。万松寺事件とは、巳之助の子分が万松寺の住職を殺して、金を奪った事件である。巳之助はこの子分を匿った罪で、江戸伝馬町の獄舎につながれた。調べの結果、八丈島への島流しが決まった。

万延元年4月、八丈島に送られたのち、島破りの計画に加わったため、流罪が取り消され、死罪が決定した。万延元年(1860年)10月13日、八丈島で病死した。享年53歳だった。八丈島「流人帳」には下記のように記載されている。

「万延元庚申4月流罪 万延元庚申10月11日島抜露顕 同月23日日病死 無宿・巳之助」病死とあるが、おそらく責め殺されただろう。巳之助と一緒に島破りをした、高麗本郷無宿・秀次郎、常州寺具村宝蔵寺の如篤、甲州市川大門村百姓・忠吉、常盤町太助店吉五郎同居・鉄五郎、武州小和瀬村・竜蔵、亀島町忠七地借勘助召使・民蔵、西富岡村無宿・兼吉、小船木村無宿・喜助の8人も巳之助同様に、万延元年10月中に「病死」したと書かれているから間違いないだろう。

巳之助の墓は袋井市用福寺にある。墓の正面は、「古梅良香信士・大安妙道信女・各霊位」とある。左側面には「慶応三寅十二月」と刻まれている。これは慶応3年12月30日に没した巳之助の妻「三千」のことを示す。巳之助には子供が無かったため、巳之助は「松井」姓を名乗り、養子両もらいの形で家系をつないだ。

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石松を殺した博徒・都田吉兵衛

次郎長より有名な博徒・森の石松

三つ並んだ墓の写真は松井家一族の墓、一番左側苔むした墓が巳之助の墓である。中央の墓は松井家墓。右側は松井家の先祖の墓。



山梨の巳之助の墓。当初近くの南晶寺にあったが、廃寺となり、用福寺に移された。
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死語となった「総会屋」という職業

2022年10月05日 | 歴史
「総会屋」は今や死語に近い。1970年代から1980年代の高度成長、バブル期においては、会社の総務部にとって避けられない言葉だった。

総会屋の始まりは、大正時代、弁護士の花井卓蔵に総会運営の研究を勧められた久保田祐三郎が最初と言われる。花井卓蔵は明治21年英吉利法律学校(現・中央大)を苦学して卒業、弁護士となる。彼は幸徳秋水の弁護人を務めた。

久保田祐三郎、田島将光らが総会屋の出発点だった。田島将光には「任侠の劇場」著書があり、任侠総会屋を名乗る。横井英樹の白木屋乗っ取り事件では、久保田は白木屋側、田島は横井側についた。

60年代高度成長期は、児玉誉士夫系列の上森子鉄らが活躍した。上森子鉄は与党総会屋と呼ばれ、三菱銀行等三菱グループに影響力を持った。彼は菊池寛の書生あがりで、「キネマ旬報」の発行者でもあり「伝説の総会屋」と言われた。

1981年、総会屋数は6,800人まで増加、最盛期を迎える。広島グループと言われる小川薫(小川企業の代表者)、論談同友会代表の正木龍樹などが活動した。総会屋も組織化され、武闘派、理論派、ヤクザ派など形態も多様化した。

転換期は1982年10月商法改正。改正で利益供与罪が新設された。会社、総会屋双方とも刑事処罰を受ける。総会屋排除の社会的流れが生まれた。結果、5,000人近くの総会屋が廃業、残ったのは老舗の総会屋である。

改正後の1984年1月ソニーの株主総会が有名である。社長・大賀典雄は「便宜供与はしない!法を順守、長時間の総会も最後まで答える!」と発言した。一方、総会屋はいまだ健在なりと、全国の総会屋がソニーに集合した。午前10時から午後11時半までの超ロング総会となった。

1986年、三菱重工1,000億円転換社債発行時に、総会屋・論談同友会幹部に社債を配分した事件が摘発される。社債は初値から瞬く間に2倍に値上がりした。この時、政治家ルートを捜査していたのが、後に「バブル紳士・闇社会の代理人弁護士」と呼ばれる東京地検・田中森一検事である。捜査中、検察上層部から捜査中止の指示があり、彼は反発して東京地検の検事を辞職した。

この流れが後の1996年、第一勧業銀行の総会屋・小池隆一の巨額融資事件に繋がる。1997年6月、同行元会長・宮崎邦次が自殺した。更に日興証券の損失補填VIP口座の利益供与が問題となる。1998年2月19日、高輪ホテルで衆議院議員新井将敬が自殺した。

バブル崩壊の1991年、四大証券の一任勘定損失補填事件が表面化した。暴力団稲川会・石井進会長の巨額取引事件、損失補填先リストも公表された。多くの総会屋、暴力団関係者も関係した。不良債権処理に絡んで、阪和銀行副頭取射殺、住友銀行名古屋支店長射殺などが頻発した。

「最期の総会屋」と言われる小池隆一は、1943年生まれ、新潟県加茂市出身。総会屋小川薫の小川企業に所属も、小川の武闘的性格に合わず、同郷の総会屋・木島力也に師事、理論派総会屋に成長した。木島力也は児玉誉士夫直系で雑誌「現代の眼」を発行。銀行、証券の金融界に強い影響力を持っていた。

小池隆一は、総会屋らしくなく、ナイーブな性格である。彼はある会社の株主総会で質問を乱発し、総会進行を止めた。その会社の相談役に三菱銀行の役員が就任していた。伝説の総会屋・上森小鉄から昼の休憩中、小池に電話があり、小池は午後の総会で質問をすべて撤回した。与党総会屋・上森小鉄の影響力を示す逸話である。

木島の跡を継いだ小池は、四大証券の株式を各社に30万株を保有した。株主提案権を有する株数である。バブル後、株価は低迷、損失は増大した。野村證券は小池との一任取引の利益供与を認め、1997年常務、小池が逮捕された。株取得の資金源が第一勧業銀行である。元会長の自殺で真相は闇の中に葬られた。

総会屋消滅の原因は、1997年12月利益供与法定刑改正。従来の「懲役6ケ月、罰金30万円以下」が、「懲役3年、罰金300万円以下」に厳罰化された。従来の懲役6ケ月、罰金30万円以下では、罪を認めて、執行猶予を得た方が有利だった。会社側も執行猶予と罰金30万円なら、会社への忠誠心の証明になる。厳罰後は大きく減少した。

最後の摘発は2004年西武鉄道事件である。古参総会屋・芳賀竜臥(74歳)が起こした。事件で西武鉄道社員が自殺した。現在はIT企業、GAFAの時代である。総会屋も「アクテェビスト・モノを言う株主」に取って代わられた。

2016年7月、論談同友会元会長・正木龍樹が死亡した。葬儀に集まったのは僅かな親族のみだった。2009年6月、東京拘置所内で、大物総会屋・小川薫が病死した。小池隆一の師匠・木島力也は1993年にすでに死亡している。総会屋の時代は終わった。

総会屋は実質消滅したが、企業の不祥事は無くならない。東芝不正会計、日産、日野自動車データ偽装など。総会屋との緊張関係がないためとは言わないが、企業の緊張感が薄れている。コンプラ、コーポレートガバナンスの欠如は企業内部、組織自体に原因がある。敵は内部にありと言うべきか。

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熊坂長庵と藤田組贋札事件

アウトロー・ヤクザ滅亡の時代到来か?

株主総会集中する時期に愛知県警が特別警戒本部を設置。(2022年5月中日新聞)

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日本最悪の羆襲撃事件「三毛別羆事件」

2022年09月07日 | 歴史
「三毛別ヒグマ事件」をご存知だろうか?北海道の開拓村で起きた日本最悪のヒグマによる村民襲撃事件である。この事件の実態を描いたのが元北海道庁林務官木村盛武の本「慟哭の谷」である。作家吉村昭はこの事件を小説化して「羆嵐」を発表した。

「三毛別ヒグマ事件」は大正4年(1915年)12月9日から12月14日にかけて北海道苫前村でヒグマが次々と民家を襲い、開拓民7名(うち1名は胎児)が死亡、3名が重傷を負った事件である。

大正4年12月9日朝、越冬穴を見つけられなかった「穴持たず」のヒグマによって、三毛別川上流にある太田家が襲われ、内妻阿部マユ(34歳)と6歳の少年幹雄が殺された。夫の太田三郎は、寄宿人の長松要吉とともに朝早くから木材の伐採に出かけ、留守であった。昼近く、要吉が用事で家に戻ると、居間の窓が破られ、くすぶる薪が転がり、囲炉裏までヒグマの足跡があり、柄が折れた血染めのマサカリが落ちていた。

家には幹雄の遺体のみ残り、マユの遺体はなく、居間の窓枠にはマユのものと思われる頭髪が絡みついていた。ヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って居間の窓から屋外に出たと思われる。この状況から、最初に幹雄がヒグマに襲われ、マユは逃げながらマサカリを持って、必死に抵抗したことを表している。

翌日の早朝、村人たちはヒグマの足跡を追って、マユの遺体捜索に向かった。マユの家から150mほど森の中に入ったところでヒグマを見つけた。すぐに発砲したが鉄砲は一発も当たらず、ヒグマは逃走した。

村人たちがヒグマのいた所を捜索すると、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があった。その下にあったのは、黒い足袋を履き、ブドウ色の脚絆が絡まるひざ下の脚と頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするためだった。このヒクマは人間の肉の味を覚えた。

翌日10日の夜、太田家で通夜が行われたが、ここにもヒグマが再度襲来した。この時、会葬者は天井の梁に登ったりして何とか難を逃れた。しかし太田家が襲われた30分後には、近くの明景家に避難していた住民10名のところに再びヒグマが現れた。

ここでは妊婦の斎藤タケ(34歳)、その子の巌(6歳)、春義(3歳)とタケの胎児、明景家の三男である金蔵(3歳)の5名が殺害された。タケはその時、臨月の妊婦であった。ヒグマに襲われたタケは、「腹を破らんでくれ!」「のど食って殺して!」と叫んだという。上半身を食われたタケの腹は破られ、胎児が引きずり出されていた。ヒグマが胎児に手を出した様子はなく、その時にはまだ胎児は少し動いていたが、一時間後には死亡した。

12月12日には警察を中心とする討伐隊が組織された。ヒグマの射殺を図るも発見されず、翌日、13日には旭川歩兵第28連隊から将兵30名が出動した。ヒグマは獲物を取り戻す習性があるため、警察は、犠牲者の遺体を餌に、ヒグマをおびき寄せる前代未聞の作戦を展開した。ヒグマは家の近くまで現れたが、人の気配を感じると森へ引き返した。

地元熊捕り名人のマタギ山本平吉は、討伐隊とは別に単独で山に入り、ヒグマを狙っていた。14日の朝、平吉はヒグマを見つけ、20mまで近づき、射撃した。一発目はヒグマの心臓近くを打ち抜いた。ヒグマが仁王立ちした瞬間、即座に二発目を充填、二発目はヒグマの頭部を打ち抜いた。

ヒグマは、金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340キロ、身の丈は2.7mにも及び、体に比べ、頭部が異常に大きかった。解剖の結果、腹からは阿部マユが着用していたブドウ色の脚絆のほかに別の女性と思われる赤い肌着の切れ端も見つかった。赤い肌着は、数日前に天塩の飯場で襲われた女性のものと一致した。

一度、人を襲ったヒグマは、再び人を襲う習性がある。今回のヒグマは特に女性を狙って攻撃する習性があった。事件で投入された討伐隊は延べ600名、鉄砲は60丁に上った。

ヒグマが射殺されたとき、それまで続いていた晴天が激しい吹雪に急変した。言い伝えによれば、クマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を「羆嵐」と呼ぶ。ヒグマの肉は犠牲者供養のため、煮て食べられた。しかし肉は硬くて旨くなかったという。毛皮、肝などは50円で売却され、被害者家族に渡された。


ブログ内に下記記事があります。よろしければ閲覧ください。
北海道最果ての監獄「樺戸監獄」


写真は事件の再現現場。北海道苫前郡苫前町三渓


写真は現場近くの三渓神社境内にある熊害慰霊碑。
建立者は集落に暮らしていた大川春義氏。当時、7歳の少年。成人後、犠牲者の弔いのため、羆撃ちになった。40数年間で羆100頭を撃ち殺した。目標達成後にこの慰霊碑を建立したと言う。


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北海道最果ての監獄「樺戸監獄」

2022年08月04日 | 歴史
樺戸監獄(当初は樺戸集治監と呼ばれた)をご存じだろうか?明治12年設置の東京小菅の東京集治監、仙台宮城集治監に次いで北海道に設置された集治監である。よく知られている網走監獄は樺戸監獄の分監として開設された。その他の分監としては空知監獄、釧路監獄がある。樺戸集治監は、作家吉村昭の小説「赤い人」の舞台となった。

明治初め、西郷隆盛の西南戦争以降の自由民権運動の政治犯や、無期徒刑から15年以上の懲役囚を収容する集治監として、北海道に「樺戸監獄」が設置された。開設は明治14年、初代典獄は月形潔である。月形潔の叔父、月形洗蔵は、尊王攘夷を唱える筑前勤皇党の首領である。

囚人は、明治維新政府から北海道開拓の労働力に利用され、厳しい環境のなかで、鉄の鎖を装着され、道路工事、水道工事など過酷な労働に使役された。現在も、囚人の作った道路である「樺戸道路」「上川道路(国道12号)」が残っている。この道路は北海道の大動脈となり、厳しい囚人使役を示して真っすぐな道路となっている。

この囚人活用による北海道開拓政策を建白したのが、伊藤博文の側近の金子堅太郎である。建白書のなかで「囚徒は道徳に背く悪党である。懲罰として苦役をさせれば、工事費が安く上がり、たとえ死んでも監獄費の節約になる」と述べられている。樺戸集治監設置の翌年には、樺戸集治監から遠くないところに空知集治監(現在の三笠市)が設置された。空知集治監の囚人は空知炭鉱の労働力として動員された。

使役の厳しさは、最初の1年間で、372名の収容囚人のうち、35名が病死し、2名が脱獄していることでもわかる。明治15年、脱獄対策もあり、新選組永倉新八が看守の剣術師範として赴任している。新政府財政の厳しさを反映して、囚人に支給される衣服も貧弱で、食料も十分ではなかった。

囚人は鉄球で足を繫がれ、赤い囚人服で、真冬でも足袋はなく素足である。その実態は、吉村昭の小説「赤い人」で詳しく描かれている。この監獄には有名な脱獄囚「五寸釘の寅吉」も入獄し、二度も脱獄に成功している。

そのほか、破戒僧・大須賀権四郎や海賊房次郎と呼ばれた囚人も入獄していた。贋札づくりで無期徒刑に服しながらも、この地で多くの絵を残した熊坂長庵もここの囚人であった。熊坂長庵は体も弱く、冬の寒さと厳しい労役に耐え切れず、入獄後2年余りで病死した。破戒僧・大須賀権四郎も入獄後、30歳の若さで死亡した。二人とも囚人墓地に埋葬された。

大正8年、樺戸監獄は39年の歴史を終え、廃監された。39年間で、1,046名の囚人が死亡している。うち逃亡による斬殺が41名。死亡者のうち遺族に引き取られたのは、わずか24名。残りの1,022名の囚人は監獄近くの囚人墓地である篠津山墓地に今も眠っている。

関連記事が下記にあります。よろしければ、閲覧ください。
海賊房次郎と破戒僧・大須賀権四郎という人

脱獄囚・五寸釘寅吉という人


写真は樺戸監獄近くにある篠津山囚人墓地。南無阿弥陀仏。合掌


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八丈島流人・近藤富蔵

2022年06月08日 | 歴史
江戸・永代橋のふもとから、八丈島に流される一隻の流人船が、隅田川を下って行った。その船に、近藤富蔵という23歳の若者が乗っていた。ときは江戸時代後期の文政10年(1827年)旧暦4月26日(太陽暦5月末頃)の朝である。犯した罪は殺人である。彼の父親は近藤重蔵という武士で、蝦夷地探検家として名を知られ、旗本として、また学者としても一流の人物だった。富蔵がなぜ罪を犯したのか?それには父・重蔵のことを知る必要がある。

(生没年)文化2年5月3日(1805年5月31日)~明治20年(1887年)6月1日
(氏名) 近藤富蔵 (近藤守真)
     一家殺傷事件で八丈島に流罪、赦免後、八丈島で病死。享年83歳

(生没年)明和8年(1771年)~文政12年6月16日(1829年)7月16日
(氏名) 近藤重蔵 (近藤守重)
     蝦夷地調査探検家・近藤富蔵の殺人に連座、大溝藩にお預け後病死。享年59歳

近藤重蔵は直参だが、御目見以下の御家人で御先手鉄砲組与力の三男として生まれた。近藤家は代々与力職を引き継ぎ、重蔵で7代目となる。重蔵が近藤家を継いだ頃、寛政の改革で創設された「学問吟味」という制度があった。この制度は旗本をその家格の上下に関係なく、優先的に役職に登用する試験制度である。重蔵は上昇志向が強く、世襲職与力の地位から、勘定方役人への昇進を目指し、この試験の丙科に及第した。

学問吟味及第を契機に、重蔵は長崎奉行手附出役として長崎出島に赴任した。ここで重蔵は外国情勢の知識を吸収し、海外に目を向けるようになった。2年間の長崎出島での勤務のち、江戸に戻り、支払勘定方、関東郡代附出役を歴任する。当時の重蔵の上司が勘定奉行・中川忠英であり、のちに大目付まで出世している。

中川は、幕閣でも改革派で従来の蝦夷地松前藩管轄に異議を唱え、蝦夷地幕府直轄政策の推進勢力の一人であった。幕府の蝦夷地政策は改革派と保守派との間の対立抗争がその後も続く。重蔵もその対立抗争に振り回さられる。

北方ではロシアの来航が目立ち、蝦夷地防備が幕府の緊急課題となっていた。重蔵は幕府に北方海防策の意見書を提出した。重蔵は寛政10年(1798年)から文化4年(1807年)にかけ、途中の空白期間を含め、5度にわたり蝦夷地御用取扱として派遣を命じられた。この間、重蔵は最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「日本恵土呂府」の木柱を立てる。

さらに蝦夷地調査、開拓に従事、貿易商人高田屋嘉兵衛に国後島と択捉島の航路を調査させた。蝦夷地派遣は重蔵にとって、身分上昇につながる業績となった。第4次踏査直後、老中より「御目見以上」の世襲旗本の格式を得た。その頃、重蔵の側室「梅」が男子を出産した。それが後の近藤富蔵である。

江戸に戻った重蔵は、文化5年(1808年)江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。書物奉行は学知豊富な人物が就任する職だが、引退までの高齢者が勤める一種の閑職である。代官など勘定方系統での出世を望んでいた重蔵にしてみれば、蝦夷地政策の現場からの排除とも見え、その落胆と焦燥はひとしおであった。

自信過剰で豪胆な性格の重蔵は、10年余りの書物奉行の仕事ぶりに批判が集まり、文政2年(1819年)大坂勤番弓奉行に左遷される。その頃、富蔵は15歳元服を迎えて、将軍家斉に御目見を果たし、旗本惣領としてのスタートを切った。

上昇志向強く、自己の力量で出世してきた重蔵が、惣領息子たる富蔵に寄せる期待は、富蔵にとって大きな重荷になっていた。父・重蔵に随行した富蔵は、大坂で知り合った少女に一目ぼれした。父の重蔵は、富蔵が学問もせず、町人の娘の所に行き、遊び惚けていることに業を煮やし、富蔵を烈火のごとく叱りつけた。

富蔵は思わず家を飛び出し、街中を放浪した。乞食同様の生活を町人に笑われたと言って、刀を抜き、人を騒がせ、捕まり、家に連れ戻されている。富蔵には少女の家に転がりこむような度胸もなかった。父・重蔵は幼児の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじた。それに対して、富蔵が四書五経を諳んじたはやっと15歳になってからである。

重蔵は大坂時代、大塩平八郎と会っている。この時、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた。大塩もまた重蔵を「畳の上で死ねない人」という印象を抱いたという。大阪弓奉行もまた閑職である。さらに重蔵にとって大坂弓奉行職は学知の必要もなく、重蔵自身も奉行職への意欲は見られず、大坂の文人たちとの交際に忙しかった。そのため、重蔵の仕事ぶりに批判が集まった。

文政4年(1821年)4月、重蔵は2年も満たないうちに罷免され、江戸に召喚される。改易は免れたが、近藤家は永久小普請入(非役)とされた。重蔵と富蔵の間の確執はさらに拡大し、富蔵によれば、妾腹の富蔵を喜ばず、一時は越後高田仏光寺に出奔して、出家することも考えたが、決心がつかず戻って来ている。

富蔵は、良く言えば純情でシャイな性格、一途な行動家である。しかし父・重蔵から見れば、とんでもない意気地なしの大バカ者と思われていた。だが富蔵も少しでも父の期待に沿えるよう必死な努力をしていた。

重蔵は本宅のほか、三田村槍ケ崎(現在の中目黒2丁目)に別宅を所有していた。そこに重蔵は、大坂赴任前に富士山を模した山(富士塚)を造園し、隣地の所有者百姓・半之助に管理を任せていた。当時、目黒新富士、近藤富士と呼ばれ、多くの参拝客で賑い、門前に露店も出店し、半之助も近くで蕎麦屋を開業、評判になった。この頃までは、重蔵へ蝦夷地商人からの贈り物があり、それなりの別途収入となっていた。

江戸に戻り5年余り、重蔵と半之助の間で土地賃貸料、利益配分でトラブルが発生した。富蔵が勘当を許され、越後高田から江戸三田村に戻ったのは重蔵と半之助のトラブルの真っ最中であった。富蔵は重蔵からトラブル解決を任せられた。富蔵は父の信頼を得るため、必死の思いで半之助と交渉した。しかし交渉の口論のすえ、文政9年(1826年)5月18日半之助一家を皆殺しにしてしまった。

当初、重蔵は旗本に対する無礼、狼藉による手討ち事件と処理しようとした。しかし評定で、罪なき子女まで殺害したこと、富蔵・重蔵の供述に虚偽があったことが判明、富蔵は八丈島遠島、重蔵は他家お預けとなった。

重蔵は武士の一分にこだわり、それが反対に武士にあるまじき行為として処分された。近藤家は改易となり、重蔵は、近江国大溝藩分部家にお預けになった。大溝陣屋に幽閉されて2年余り、文政12年(1829年)重蔵は死亡した。事件から3年後、享年59歳であった。

一方、文政10年(1827年)秋、八丈島に着船した富蔵は、島内三根村に配属された。翌年、富蔵は宇喜多秀家の末裔に連なる大賀郷百姓栄右衛門の長女「逸」と水汲み女と同居、一男二女をもうけた。富蔵は八丈島配流後、近藤家の系譜編纂、さらには「八丈実記」69巻を著した。八丈島の百科事典とも言われ、島の政治・経済・宗教・地理・風俗・教育などあらゆる情報が含まれていた。

時代は明治に移り、流罪制度も無くなり、多くの流人は許されて本土へ帰っていった。しかし富蔵だけには赦免の通知はなかった。ご赦免のある時は、無実の罪で流刑となり、悲しみのあまり絶食して死んだ僧侶・慈雲の墓の隣のソテツの花が咲くものだった。人はこの花を「赦免花」と呼んだ。明治8年、妻・逸も亡くなり、長男は早死、娘も嫁に行き、富蔵はひとりぼっちになった。

明治11年、東京府の役人が島の視察に来て、富蔵の著した八丈実記を見て驚いた。69巻のうち33巻を清書して差し出すように命じた。明治13年(1880年)富蔵は清書した八丈実記を東京府に差し出すと同時に、その罪を赦免された。近藤富蔵76歳、八丈島に流罪されて53年が経過していた。

本土に戻った富蔵は、若い頃、大坂で好きになった娘のその後を知りたくて、大坂へ出かけた。しかしすでに長い日時が経過し、娘の居所は知ることができなかった。その後、父親重蔵の墓参り、西国33ケ所巡りをしたのち、再び八丈島に戻っている。本土に戻り、東京の娘の世話になっても、東京は昔の江戸とは異なり、富蔵にとって誰一人知り合いもなく、安住の地ではなかった。

富蔵は島に帰ってから、三根村の寺「大悲閣」の堂守をして暮らした。「罪を許されて本土に帰った者で再び島に戻ってきた者はいない」と島の人は驚いた。しかし島の人たちは優しく迎い入れた。島に戻った富蔵は「八丈島ほど良いところはない。」それが富蔵の口癖であった。堂守になって5年後、富蔵は83歳の生涯を閉じた。「富蔵は、堂守の間、命あるものは虱すら殺さなかった」と島の人はいう。


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八丈島を島抜けした博徒・佐原喜三郎という人


写真は八丈島にある近藤富蔵の墓。左の大きい石は顕彰碑、右側の三角形の自然石が富蔵の墓である。その隣の右側に長女・操が建立した富蔵の妻・逸の墓(半分隠れている)がある。場所は開善院善光寺境内にある。




写真は近藤重蔵の墓。滋賀県高島市、円光寺塔頭瑞雪院にある。
重蔵が死亡して32年後の万延元年(1860年)徳川家斉十三回忌に際し、重蔵は罪を恩赦され、名誉を回復した。これに応じて、大溝藩は同寺に墓石を建てた。法号は「自休院俊峯玄逸禅定門」である。

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博徒・合の川政五郎

2022年04月05日 | 歴史
「合の川」とは、現在の群馬県邑楽郡板倉町と埼玉県加須市の境界を流れる、利根川の流路の一つである。ただし現在は廃川となっている。この付近は利根川流路を利用して、銚子の海産物、醤油等を江戸へ送る船運基地として物流商業が繁栄していた。

(博徒名)合の川政五郎 (相の川、間の川とも書く)
(本 名)高瀬仙右衛門茂高
(生没年)天明8年(1788年)~万延元年(1861年)12月25日死去 享年73歳 

この邑楽郡大久保村(現・板倉町)出身の博徒で「合の川政五郎」がいる。政五郎はこの地域で廻船問屋を営む高瀬家の次男として生まれた。政五郎の兄は常蔵といって高瀬家八代目にあたるが、若いころから遊び好きで、女性と揉め事を起こし、金銭強要されたことから、この女性を殺害してしまった。

さらに被害者の遺族が訴訟を起こし、裁判が長期化した。最終、常蔵は勝訴したが、訴訟費用がかさんで、高瀬家は破産同様になった。しかも当事者である常蔵は、責任を感じてか、高野山に上り、出家してしまった。

高瀬家七代目の先代平八は若死にしており、高瀬家には、幼い政五郎以外女ばかりとなったため、政五郎は、先代平八の昔からの知人でもある近くの村の博徒・新八に預けられ、育てられるようになった。博徒・新八に育てられた政五郎は、15歳のころから賭場に出入りし、大人相手に博奕をやるようになった。

やがて博徒修行のために旅に出た政五郎は、東海道、甲州、信州をめぐり、最終、越後の長岡に腰を落ち着けた。この時は「越後の政五郎」と呼ばれていた。旅の途中、政五郎の度胸の良さと男気で、各地で色々な伝説を残し、博徒として一人前となっていった。

その後、信州善光寺門前町の権堂に移り、遊女常設の旅籠「上総屋」を経営する主人となった。当時は「上総屋源七」と名乗った。当時この辺りは、善光寺参りの人に紛れて、各地から追手から逃れた博徒が集まり、地元の者からもこれらやくざ者管理の要請があったためである。

この当時、政五郎は40歳近くで、子分2,000人余りを抱える上州出身の親分に成長していた。この頃、国定忠治が信州に逃亡した際、善光寺権堂の合の川政五郎の世話になったと話もあるが、時期的に合わず、信用できない。忠治との年齢差は22歳年上となる。

政五郎は、42歳になった時、考えるところがあって、弟分の島田屋伊伝次に縄張りを譲った。そして堅気となって、故郷の邑楽郡大久保の生家に戻り、没落した高瀬家の再興を図る。故郷に戻った当時は「大久保政五郎」と名乗った。

生家立て直しをして八代目高瀬仙右衛門茂高を名乗り、文政11年には関東取締出役の案内役になった。その後名主を務め、最後には川俣組合40ケ村の大惣代をも務めた。大惣代とは改革組合村という広域の自治組織の長であり、治安警察機能も果たした。晩年は自分の無学を恥じて、日夜読書に努めたと言う。

没年は万延元年12月25日、享年73歳。合の川政五郎(高瀬仙右衛門茂高)の墓は大久保本郷(現在の板倉町大高嶋)清浄院にある。法名は「受法院清徳翁居士」

ブログ内に下記記事があります。よろしければ閲覧ください。
博徒・間ノ川又五郎という人



写真は合の川政五郎(高瀬仙右衛門茂高)の墓のある清浄院(邑楽郡板倉町字大高嶋甲320)政五郎の墓には万延紀元庚申年十二月二十五日歿とある。

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飯盛女・東海道藤沢宿小松屋源蔵

2022年03月22日 | 歴史
江戸時代、世の中が安定すると庶民も伊勢参りなど旅に出かける機会が増えた。街道の宿場も旅籠が整備された。そこに生まれたのが「飯盛女」である。歌川広重東海道五十三次「御油宿留女」も飯盛女の一形態である。

「飯盛女」の語源は次のように言われる。飯盛女の常食は粥飯、いつも空腹だった。翌朝、一夜泊まり客の夕食の残り飯を食べるのが楽しみだった。そのため客の食べ残しがあるように山盛りに飯を盛ったためという。哀しい身の上を現す話である。

飯盛女を置く旅籠を「飯盛旅籠」という。1616年(元和2年)幕府は人身売買禁止令を出す。子女を勾引して売った者は斬罪となった。抜け道があり、年季奉公は別、最長10年以内の借金の質物としての年季奉公は公認された。質証文には「盗み、駈け落ち仕り候共、急度、尋ね出し返上仕り候」と記載される。

1718年(享保3年)旅籠屋1軒に飯盛女2人まで、新宿内藤、板橋、千住は上限150人、品川は上限500人と定められた。現実はその倍の飯盛女を抱えるのが普通だった。飯盛女が置かれない宿場は箱根、江尻、鞠子、掛川、舞阪、新居。関所などがあって治安が厳しい宿場である。反対に遊里がある宿場は、府中、吉田、岡崎、両者の競争もあって、賑やかである。

「遊女、飯盛女の稼ぎはどれくらいだろうか?」
吉原遊女は太夫、格子、散茶、局のランクがある。太夫となると揚げ代は居留守役、大商人なら10両、旗本、番頭クラスで3両必要と言われる。「散茶」とは袋に入れてないお茶の葉のこと。「振らない」即ち、客を断らない遊女の意味である。

飯盛女の玉代は、上玉700文(10,500円)、普通500文(7,500円)、昼400文、一晩2朱(12,500円)と言われる。1朱は1両の1/16。飯盛女は10両前後の借金の質物として年季奉公する。10両前借で10年年季なら1年1両あたり、単純に約半月間の稼ぎで返済できる。いかに抱え主の利益が大きいかわかる。また途中、病死すれば、全額返済、または代わりの子女を出さなければならない。過酷な契約である。

「飯盛女の出身地はどこか?」
中山道・安中宿飯盛女55人の生国は、越後20人、尾張10人、江戸8人、信濃5人、武蔵4人、美濃4人、上野2人、三河、相模各1人である。地元は知人に会う可能性があるので遠国出身が多い。更に抱え主の資金繰りの都合から他の宿場の旅籠に転売される「住替え」という制度もあった。
曲亭馬琴が著した「羇旅漫録」に「東海道吉田宿の飯盛女は伊勢訛りの者が多い。伊勢出身が多いのだろう」との記述がある。吉田宿と伊勢とは海路一本で昔からつながっている。

「飯盛女の平均寿命はどれくらいか?」
「加賀のなんだい節」にこんな文句がある。「7つの歳に身を売られ、14の春から勤めをすれど、いまだ受け出す人もない。身は高山の石灯篭、今宵はあなたととぼされて、明日の晩はどなたにトコなんだい」・・飯盛女の身の上を歌ったものだ。

彼女らの生活環境は過労と非衛生、過酷な労働条件のため、平均寿命は22~23歳と言われる。ある宿場の統計によれば、21.3歳の数字がある。死亡原因には自殺もあるが、病死がほとんど。死因は梅毒、脚気衝心が多い。脚気衝心とはビタミンB1の欠乏による心不全である。過酷な職業病と食生活がその原因である。

江戸時代、飢饉は21回発生した。大飢饉は享保、天明、天保の3回である。ともに7年ほどの長期に渡った。農村は困窮、宿場助郷負担等、宿場の財政も厳しい。それを救ったのが旅籠の飯盛女一人当たり月200文負担金徴収制である。飯盛女は二重の意味で搾取されていた。

(参考)「飯盛女・宿場の娼婦たち」五十嵐富夫著・新人物往来社昭和56年1月発行。
     著者は1916年生まれ、群馬県立高校長経て、群馬女子短大教授、伊勢崎市、太田市史編さん委員歴任する。


ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
吉原遊郭の遊女

吉原遊女の哀しい川柳

相対死(心中)した二川宿の飯盛女


下の写真は神奈川県藤沢市永勝寺にある飯盛女の墓。藤沢宿旅籠小松屋源蔵お抱えの飯盛女である。
1761年(宝暦11年)~1801年(享和元年)41年間に死亡した飯盛女、下女の墓、39基。うち34基が飯盛女である。
1年で1人弱が死亡した勘定になる。当時、藤沢宿には本陣、脇本陣が各1軒、旅籠は49軒、うち飯盛旅籠が27軒あった。




「安永4年正月28日・釋尼妙教不退位・伊豆国・俗名キヨ」
「宝暦10年11月7日・釋妙喜不退位・豆州・俗名コマツ」
「寛政7年5月14日・釋妙元信女・豆州・俗名ハツ」と刻まれている。出身は伊豆国8人、遠江5人、駿河1人、25基は未記入。




下の写真は小松屋源蔵の墓。飯盛女の墓は源蔵の墓を囲むように建てられている。源蔵の人柄が解かる。


写真は墓の前にある案内板である。

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白波五人男の盗賊・日本左衛門

2022年03月04日 | 歴史
白波五人男『問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放たれ、身の生業も白波の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊の噂、高札に・・・』と大見えを切った大泥棒「日本駄衛門」は実在の盗賊「日本左衛門」がモデルである。

日本左衛門は尾張藩遠州地区の七里役(藩専用の飛脚で、7里を走る)足軽・濱島富右衛門の子として生まれた。若い頃から放蕩を繰り返し、20歳のとき、親に勘当された。七里役は業務の邪魔たてする者は3人まで切り捨て御免の許しがあるほどの暴れん坊でもあった。

23歳頃から盗人稼業に入り、200名ほどの盗賊団の頭目になる。近隣諸国の裕福な商人、大地主に狙いを定めて荒らし回った。その被害は14件、2,622両余りと言われている。

容貌は、175cmほどの長身、鼻筋がとおり色白で、顔に5cmほどの切り傷があった。盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を手配して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃亡するという用心深さであったという。

押し込むときは、手下20~40人を使い、提灯30帳を灯し、押し入った家族全員を縛り上げ、金の置き場所へ案内させ、強奪した。時には嫁や下女たちまで狼藉したとあり、かなり荒っぽい盗賊団であった。

日本左衛門本人は直接に手を下さず、時には金箱を砕いて包みから、難儀ある者に施した。盗みはすれど非道はせずと手下に説いたとも言われている。

(本名)  濱島 庄兵衛
(生没年) 享保4年(1719年)月日不詳~延享4年(1747年)3月11日
      盗賊で全国指名手配、京都町奉行に自首、獄門。享年29歳

延享3年(1746年)9月、被害にあった遠州の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟する。老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣された。これにより盗賊団の幹部数名は捕縛されたが、頭目の日本左衛門は逃亡した。

被害者の庄屋は遠州大池町(現・掛川市)大百姓・宗右衛門。盗みだけならまだよかった。運のつきは当家の息子の若嫁を家人の前で強姦したこと。あまりの仕打ちに宗衛門は地元の役人に届け出る。地元役人は普請調達金の寄付を渋ったのを根に持ち取り上げない。覚悟を決めて、江戸の奉行所に直接訴え出た。

この騒動で、地元掛川藩城主の小笠原長恭は城下治安の責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、近隣の相楽藩の本多忠如も福島県の泉に移された。

日本左衛門は、伊勢国古市で自分の手配書が出回っている噂を聞き、さらに遠国の安芸国宮島まで逃亡を図る。しかし宮島でも自分の手配書を目にして、もう逃げ切れないと観念した。当時、手配書は親殺し、主殺しの重罪に限られ、盗賊としては日本初の手配書であった。

自首を決意すると、伊勢に戻り、馴染の遊女「奴の小万」に別れを告げる。女に金の包みを渡し、自分の亡き後の弔いを頼んだ。その後、内宮、外宮を詣で、京都に向かった。

日本左衛門は延享4年(1747年)1月7日、京都町奉行永井丹波守尚方(大坂町奉行牧野信貞の説もある)に自首した。その時の装束は、三条の床屋で月代をあたらせ、上着は繻子の小袖、下着は羽二重の白無垢、印籠は金蒔絵、脇差は銀細工と言う。

大坂町奉行牧野に自首したとき、今日は休日だから明日来いと言われ、翌日、自首したとも言われている。捕縛後、江戸に送られ、北町奉行によって小伝馬町の牢に繫がれた。

お裁きは市中引き回しの上、獄門とされ、仲間の中村左膳(左膳は京都の公家に仕える元武士であった。)6名とともに処刑された。処刑は同年3月11日、遠州鈴ケ森(三本松)刑場で、その首は遠江国見附(現・磐田市付近)に晒された。

その首を愛人「お万」が盗み出し、金谷宿、川会所跡の南にある宅円庵に葬った。今も宅円庵には日本左衛門の首塚がある。その地には「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑が残っている。

日本左衛門が盗賊を働いたときは八代将軍吉宗の時代。当時は享保の改革が進められ、庶民に倹約と重税が求められ、息苦しい生活が余儀なくされていた。そのため、表立って権力に反する日本左衛門が義賊として庶民に持て囃されたのであろう。

辞世の句 「押し取りの人の思いは重なりて、身に首縄かかる悲しさ」

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義賊・鼠小僧次郎吉


下の写真は島田市金谷の大井川鉄道・新金谷駅近く「宅円庵」にある日本左衛門の首塚。
大井鉄道新金谷駅の横に立派な藤棚がある。4月下旬から見頃を迎える。


下の写真は磐田市内の見性寺にある日本左衛門の墓。さらし首が盗まれた後の身体、衣服が埋められた。



写真は日本左衛門が処刑され、首が晒された刑場。「三本松の仕置き場」である。江戸の鈴ケ森にならい「遠州鈴ケ森刑場」と呼ばれた。
現在は横を通る国道1号線拡張工事で道路の下に埋まってしまった。



下の写真は刑場の案内看板。見附宿は東海道の浜松宿の一つ江戸寄りの宿場。番所、国分寺があり、行政の中心だった。
京からきて最初に富士山が見えたため「見附」と呼ばれた。

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博徒・板割の浅太郎

2022年02月19日 | 歴史
東海林太郎の「赤城の子守唄」板割の浅太郎(本名・大谷浅次郎)は国定忠治の子分として有名である。関東取締出役道案内・中嶋(三室)勘助は浅次郎の伯父である。忠治は、田部井の賭場への関東取締役出役の襲撃を勘助の密告と判断した。

その証拠にその賭場には浅次郎が居なかったことを挙げる。しかしそれは誤解だった。浅太郎は、忠治の誤解を解くため、伯父・勘助・勘太郎親子を殺害する。勘助の死で忠治は結果的に上州全体を勢力範囲に治めた。

関東取締役にとって、支配下の道案内勘助の殺害は敵対行為であり、面子は丸つぶれだった。上州全勢力を集め、忠治の捕縛に全力を挙げた。勘助殺害と大戸関所破りの罪で忠治は全国指名手配となる。

天保13年(1842年)事件発生後、忠治とその子分たちは一斉に赤城から各地へ逃走した。忠治は会津へ逃亡。逃亡生活は弘化3年(1846年)まで4年間に及んだ。

高橋敏氏によれば、逃亡期間中に浅次郎と日光円蔵は捕縛された。浅次郎は斬首、日光円蔵は牢死したと言われる。正式な公文書があるわけでなく、確実な資料はない。当時は本人確認の方法も杜撰である。たとえ捕縛されても、別人の可能性も捨てきれない。

時宗総本山・遊行寺の資料によると、浅次郎は、信濃国佐久で時宗・金台寺(現・長野県佐久市)の住職「列外和尚」の弟子になる。そして出家して「列成」に名を改めたと言う。

遊行上人の導きで、相模藤沢(現・神奈川県藤沢市)へ移り、時宗総本山遊行寺の「堂守」になる。真面目に参拝者接待のお茶出し、鐘つき、境内清掃の仕事を務めつつ、勘助親子の菩提を弔ったと言う。

その後、遊行寺の塔頭の貞松院の住職となる。明治13年(1880年)の藤沢宿の大火の際には、勧進僧となり、各地を回り、浄財を集めたと言う。

明治26年(1893年)12月30日、列成は74歳で死去した。遊行寺境内真徳寺に墓がある。墓には「当院42世・洞雲院弥阿列成和尚」側面に「明治26年12月30日死去」と刻まれている。

この間の流れは山本周五郎短編小説・夜明けの辻」新潮文庫のなかで「遊行寺の浅」として小説化された。小説は遊行寺四ケ院代・吉川清氏の資料に拠るものである。


ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
「赤城の子守唄」関東取締出役道案内・中嶋(三室)勘助

博徒・国定忠治の最期

ヒーロー博徒・国定忠治という人


藤沢市の遊行寺境内真徳寺にある板割の浅太郎の墓。遊行寺は箱根駅伝の難所・遊行坂沿いにある。







墓の隣にある説明看板である。


遊行寺の大イチョウ・小説では忠治の身内で、忠治から縁を切られた「隠坊の辰」が盗人仲間とともに遊行寺宝庫に盗みに入る際、浅太郎がイチョウの木の陰で待ち伏せた。


遊行寺の本堂である。
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唐獅子牡丹のモデル・飛田勝造

2022年01月14日 | 歴史
「昭和史の隠れたドン・唐獅子牡丹・飛田東山」西まさる著・新葉館出版2020年9月発行

著者は1945年生まれ、はんだ郷土史研究会代表幹事、作家・編集者である。「次郎長と久六」「吉原はこうつくられた」「戦時下の東南海地震の真相」等、多くの著書がある。

飛田東山(本名・飛田勝造)という名を知っている人は少ない。私もこの本を読むまで知らなかった。飛田東山とは何者なのか?
(通称) 飛田 東山  (本名) 飛田 勝造
(生没年)1904年(明治37年)~1984年(昭和59年) 病死 享年80歳

背中に背負った唐獅子牡丹の彫り物と「弱きを助け、強きを挫く」その行動によって、任侠映画「唐獅子牡丹」のモデルになった人物である。尾崎士郎「人生劇場」吉良常のモデルとも言われる。

映画化は、飛田勝造の半生を描いた宮沢有為男「侠骨一代」を読んだマキノ雅弘が高倉健の「唐獅子牡丹」をシリーズ化した。だが飛田はヤクザではない。むしろヤクザを嫌い、ヤクザの更生に尽力した。

飛田勝造は、1904年(明治37年)8月24日、茨城県磯浜町(現・大洗町)で水戸藩浪人・国五郎の子として生まれた。
9歳の頃、東京神田三崎町の材木店へ丁稚奉公に出て、10年後に徴兵、2年で除隊、21歳から東京芝浦で人夫、沖仲士を経て、土木建築、船舶荷役業の飛田組を設立。いわゆる労働者供給業である。

飛田勝造は、下層労働者の働き先確保のため、1936年(昭和11年)東京都による青梅・小河内ダムの建設工事を請け負う。
全国から前科者を中心に670人以上の人夫を集め、工事着工する。荒くれ者の人夫教育のため宿舎内に「日本精神修行導場」を設置する。軍隊式教育と任侠精神の修行道場を運営した。

工事着工1年経過すると、受注できなかった建設会社、前科者労働者を不安視するマスコミ、利権を求める政治家などが、地元民の土地払下げ補償問題に絡めて、工事中止の反対運動が発生した。

混乱を避けるため飛田は東京都から多額の解決金を取り、労働者に全額を分配し、ダム建設工事から撤退する。解決金は当時の金で12万5千円余り、現在価値で7.5億円。分配金は労働者一人当たり150万円に当たる。

その後、朝鮮の鉱山建設、戦時中の中国、満州での建設工事を受注する、軍部との繋がりができる。そこから上海人脈と言われる児玉誉士夫、笹川良一との関係が生まれた。M資金にも関係があるとの噂もあった。昭和史のフイクサーと言われる所以である。

戦時中、「扶桑会」労務者組織を創設、140万人の労働者を集め、松代大本営建設を手掛けた。戦後は青梅に「東山農園」起こし、奥多摩地域の開墾、開発に注力する。その中で生まれた人脈は、岸信介、中曽根康弘、渋沢敬三の政財界、稲川組稲川聖城のヤクザ、尾崎士郎、川合玉堂などの文化人と多彩である。

飛田東山は、昭和36年から16年間中断していた隅田川花火大会を昭和53年再開するのに努力した。「庶民にこれ位の楽しみがあってもいい」これが彼の思いだった。

弱者のために生きた飛田東山は、1984年(昭和59年)80歳で死去した。あまり知られない侠客だった。自らは旗本奴に対抗する「町奴」と名乗った。

飛田東山は右翼である。保守・右翼は「人間はそれほど賢くない。そこそこの生活が出来ればいい」と考える。革新・左翼のように未来や人間の知恵に過大な期待をしない。だからこそ弱い者、貧しい者の辛さ、悲しい気持ちが理解できるのかもしれない。


著者・西まさる氏に関連する下記記事があります。よろしければ閲覧ください。

吉原遊郭の遊女

悪玉博徒・保下田の久六



1968年東大闘争中の東大駒場祭ポスター。「止めてくれるな、おっかさん!背中のいちょうが泣いてる。男東大どこへ行く」
後に小説家となった当時の東大生・橋本治のコピーである。当時、非常に話題となった。


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函館の博徒・柳川熊吉

2022年01月02日 | 歴史
幕末、北海道の函館に柳川熊吉という博徒がいた。年齢は、清水次郎長より5歳年下である。熊吉は、榎本武揚旧幕軍と薩長官軍との五稜郭における函館戦争で放置された旧幕軍兵士の遺体を勝手に埋葬した罪で死罪の刑を受けた。

(博徒名)柳川 熊吉
(生没年)文政8年(1825年)~大正2年(1913年)
     函館で死去。 享年89歳

柳川熊吉は、文政8年、江戸浅草で柳川鍋料理店を営む野村鉄次郎の長男として生まれた。若いころ、当時浅草で売り出し中の新門辰五郎の配下となり、博徒稼業に入ったという。

31歳で人夫請負業をしていた時、函館奉行・堀織部正に命じられた五稜郭築城に伴う人夫集めのため、自ら人員を率いて安政3年に江戸から函館へ移った。その後、函館で料理店を営業しながら、子分600人を抱える博徒の親分になった。

明治2年(1869年)函館戦争が勃発した。敗北した賊軍・旧幕軍兵士の遺体は函館市内に放置されていた。官軍は遺体に触れれば、旧幕脱走軍に内通する者として厳重に処罰した。

この惨状を見かねて、柳川熊吉は実行寺住職・松尾日隆、大工棟梁・大岡助右衛門と相談して、子分とともに一夜のうちに放棄された遺体を収容した。そして市内4つの寺に埋葬した。その数は、浄玄寺107名、実行寺94名、願乗寺54名、称名寺3名、合計258名と言われている。

戦争終了後、旧幕軍の遺体処理の探索が行われ、熊吉は捕縛され、軍法会議で死罪が宣告された。熊吉は、取り調べに際し、子分とは盃を返し親分子分の関係を断ち、すべて一人で埋葬したと主張した。

断首刑実行の寸前に、薩摩出身の軍監・田島圭蔵が介入し、「熊吉の行動は人倫にかなう。こういう男をむやみに殺してはならぬ」の助言により、熊吉はかろうじて罪一等を減じられた。

後年、旧幕軍戦死者796名が、函館八幡宮の東、函館山中腹に合祀され、明治8年(1875年)7回忌に墓碑「碧血碑」が建てられた。碧血とは「義に殉じた武人の血は、3年経てば地中で碧玉となる。」と言う中国の言い伝えによる。

碑の裏側に「明治辰巳(1869年)に実にこのことあり、石を山上に立てて、以ってその志を表す。」と漢文で記載されている。具体的内容が記載されていないのは賊軍の影響があったためであろう。

熊吉は、碧血碑建立に尽力し、晩年は碧血碑の整備・管理しながら近くに居住し、大正2年、88歳で死去した。熊吉は死に際、家族に「今、何時だ?そうか、潮の引き時だな。人てぇいうものは潮の引くときに死ぬもんだ。じゃ、これで行くよ、あばよ」と言って死んだという。

柳川家代々の墓は実行寺にある。柳川熊吉の戒名は「典松院性真日樹居士」である。

碧血碑のある函館山ふもとの西側斜面、海を眺める高台に外人墓地がある。外人墓地の中に60年安保全学連委員長・唐牛健太郎の墓がある。墓は低い板型の墓地のため目立たない。彼は1984年3月、46歳で死去した。新選組土方歳三が函館戦争で戦死したのが34歳の若さ。近くには石川啄木の墓もある。啄木は26歳の若さだった。

下記に参考記事があります。よろしければ、閲覧ください。
賊軍幕府軍兵を埋葬した博徒たち

下の写真は函館八幡宮にある「碧血碑」 題字は五稜郭で榎本武揚とともに戦った陸軍奉行大鳥圭介の字と言われている。


下の写真は碧血碑の隣にある柳川熊吉の碑


下の写真は柳川熊吉の墓



下の写真は函館八幡宮近くにある石川啄木一族の墓


下の写真は函館山西斜面の外人墓地内の唐牛健太郎の墓


「唐牛伝・敗者の戦後漂流」著者・佐野眞一は言う。唐牛健太郎の妻・真喜子氏は唐牛を最後まで支えた女性である。彼女の魅力、存在感は夫・唐牛以上であると下記で語る。彼女は2017年11月22日死去した。

西部邁の自殺に影響を与えたかもしれない、「ある女性の死」(佐野 眞一) @gendai_biz

去る1月21日、評論家・西部邁氏が多摩川で入水自殺したことは、各方面に衝撃を与えた。以前から親しい人には自殺を示唆していた西部氏だったが、親...

現代ビジネス

 
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次郎長の兄貴分博徒・津向文吉

2021年12月03日 | 歴史
津向文吉は、駆け出しの頃の次郎長が喧嘩の仲裁をした時の相手方で、それを機に次郎長の兄貴分となった博徒。次郎長より9歳年上、次郎長伝では文吉が仲裁人として顔を出せば、どんな大喧嘩でもピタリと収まったという。

文吉は温厚な性格で、男盛りの39歳で、八丈島に島流しとなったため、あまり知られていない博徒である。しかし、細面で品のある二枚目の色男。長年の流刑暮らしで、主たる抗争もなく、長寿を全うし、畳の上で生涯を終えた幸運な博徒である。

(博徒名) 津向文吉    (本名)宮沢文吉
(生没年) 文化7年(1810年)~明治16年(1883年)  享年73歳

津向文吉は甲斐国鴨狩津向村(現・山梨県西八代郡市川三郷町)に生まれた。生家は代々村名主を務める旧家宮沢家である。鴨狩津向村は甲斐と駿河を結ぶ富士川船運の物流拠点である。近くには竹居安五郎(通称吃安)の活動拠点である竹居村(笛吹村)があり、竹居安五郎とは長い間縄張り争いの抗争を繰り広げた。

弘化2年(1845年)、甲州鰍沢で竹居安五郎との抗争があり、文吉は甲州博徒祐天仙之助と組んで、安五郎の食客で武士の桑原雷助を殺害した。同じ年には駿河の博徒・次郎長の叔父にあたる和田島太右衛門との間で出入りがあり、子分10人を引き連れて駿河庵原川(静岡県静岡市清水区)まで出向いている。

ところがこれが博徒・三馬政の計略であると知らされ、まだ当時駆け出しの次郎長の調停により、出入りは回避された。文吉はこれを機会に次郎長との関係を深め、兄弟分となった。

嘉永2年(1849年)の博徒取締により、文吉は捕縛され、流刑が決定。八丈島への出港は同年4月4日、文吉39歳。同年4月から9月まで三宅島に逗留して、9月からは八丈島の末吉村に流された。その後、明治2年(1869年)の恩赦まで20年間を八丈島で流人として暮らした。八丈島では島の娘との間に男女二人の子供が生まれている。

津向文吉が八丈島に流刑となった2年後に、長年の抗争相手であった竹居安五郎も賭博の罪で流刑が決定する。安五郎の兄弟分である大場久八は、昔から懇意である韮山代官の江川太郎左衛門を通じて、安五郎の流刑先を八丈島から変更を依頼した。

江川は、抗争博徒が同じ流刑地では色々治安上問題があるという理由をつけ、安五郎の流刑地は新島に変更された。もし、遠い八丈島からの流刑地変更がなければ、安五郎の新島からの島抜けは成功しなかっただろう。

文吉は、明治の恩赦後、本土に戻ると、すぐに清水次郎長のもとを訪れ、帰国の報告をしている。その後は、生地の鴨狩津向村で木賃宿の「つむぎ屋」を営む一方、八丈島で覚えた寺子屋に近いことや、医者の真似事もしながら余生を送ったという。

文吉は明治16年(1883年)10月5日、73歳で死去した。市川三郷町の共同墓地に文吉の墓がある。大正10年(1921年)9月建立で、建立者は宮沢姓の廣作・音一の2名の名が記されている。廣作は文吉の孫。文吉の墓に隣接して子分・飯窪定五郎の墓がある。定五郎は帰国後の文吉の家に子分として長く住みついていたという。

文吉の戒名は「普顕院英山文雄居士」、文吉の妻は安政2年4月24日死去。文吉八丈島流刑中だった。戒名は「普明院清山浄香禅大姉」俗名はお清(せい)、栄吉と定という二人の子がいた。

栄吉は氷堂と称する画家となった。定は車田(現・身延町車田)に嫁に行った。文吉は、帰国後、後妻をもらい、音吉と藤吉の二人の子をもうけた。文吉は晩年、定の嫁ぎ先近くの中三沢(現・身延町三沢)に移り、帰国屋と称していた。


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次郎長お目付け役博徒・安東の文吉という人

新島を島抜けした博徒・竹居安五郎

下の写真は津向文吉の墓。墓の上の部分の墓石のみ新しく作り直した。土台は当時のもの。



下の写真は津向文吉の墓の隣にある子分・飯窪定五郎の墓。文吉を慕い、文吉の隣にぜひ墓を造らして欲しいと依頼があったと言う。


下の写真は文吉の生家の庭にある「津向文吉生誕地の碑」


写真は宮沢家の墓誌。栄吉、廣作氏の名前がある。
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長寿を全うした博徒・大前田英五郎

2021年11月15日 | 歴史
大前田英五郎(栄五郎とも書く)は、国定忠治より18歳年長、忠治から「おじご」と呼ばれ、同盟関係にあり、また、忠治の保護者でもあった。大前田英五郎は、上州勢多郡大前田(現・前橋市大前田町)に生まれた。

父の名は久五郎といい、家は名主の家柄で父も博徒であった。子供のころより、火の玉小僧とあだ名され、身長偉大、顔色浅く黒く、かなり肥満していたという。父、兄ともに博徒で、13歳の頃には、すでに博徒になり、関東取締出役の道案内をする佐十郎の子分になった。

(博徒名)大前田英五郎  (本名)田島英五郎
(生没年)寛政5年(1793年)~明治7年(1874年)  享年82歳 病死

英五郎が15歳のとき、武州仁手村の清五郎という博徒が父の縄張りで、賭場を開いた。英五郎は、父の子分の栄次とともに清五郎の賭場に出かけて、そこにいた者を、清五郎と人違いして殺してしまった。そのため、英五郎と栄次は、伊豆から尾張名古屋まで逃亡し、尾張付近を転々としていた。

尾張の賭場で、尾張領の庄屋に対して賭場の貸し50両の貸金があった。英五郎と栄次は庄屋に貸金の取り立て、談判に行ったが、その庄屋が目明しをしており、目明しを笠にきて返さない。目明しが一両を包んで出したところ、目明しの妻が「ふだん、賭場の借りは払わないと言って、今回払うのは、臆病ではありませんか」と言って夫を叱りつけた。栄次は怒って、妻を斬った。英五郎はその夫を斬って、そのまま箱根近くまで逃亡した。

尾張藩の探索は急で二人は進退きわまった。この時、尾張藩から江戸屋敷へ送る銀箱が、箱根峠で強盗に奪われた。これを聞いた英五郎は、栄次とともに強盗の所在を探し、この強盗を斬って、名古屋に届けさせた。尾張藩では、前日の罪を免除して、若干の賞を与えた。それ以来、英五郎は犯罪を犯すと、尾張に逃げ込んで捕縛を免れた。

英五郎は賭博の罪で、佐渡の銀山人足に送られたことがある。その時、人足仲間と佐渡の島破りを計画した。櫓、舵もない船で海に漕ぎ出し、両手で水をかき、なんとか対岸にたどりついた。その後、下野国に流浪し、その地で博徒の親分をしており、のちに上州に帰った。

上州に戻った当時、派手に縄張りを拡大していたのが国定忠治である。忠治が中風で動けなくなったと聞いたとき、英五郎は手紙で「中風は不治の病で、医者も薬も益がない。」と暗に自殺を勧めた。しかし、忠治は死ぬ気になれなかったという。

旅から旅へ、半生を他国で送った英五郎は、諸国の博徒を支配下に置き、収入は寺銭よりも、博徒からの上げ銭が主に集まってくるように稼業を営んでいた。現在の「フランチャイズ本部方式」である。明治7年2月、大前田で病没した。享年82歳、博徒としては珍しく、長寿を保った男である。

「あらうれし、行きさきしれぬ死出の旅」
前橋市大胡町雷電山にある大前田英五郎の墓の側面に刻まれた辞世の句である。警吏に追われて、一生を終った博徒の辞世らしい。
戒名は「歓広院徳寿栄翁居士」である。大胡町の墓は子分たちが建てたと言う。

作家・山田風太郎は著書「人間臨終図巻」で大前田英五郎を下記のように記述する。

「若いころ、2,3人たたっ斬ったことはあるものの、生涯の大半、長どすを封印し、大きな喧嘩も、女沙汰もなく、やくざは盆の垢をなめてゆく日陰者だとして大きな肩を縮めて生き、しかも国定忠治、清水次郎長さえも頭を下げた。

上州の大親分・大前田英五郎は75歳になった明治元年、引退して故郷の上州大胡で、鶏を飼い、橋の掃除をしながら、隠居生活を送る。明治7年正月、引いた風邪がもとで、2月16日、「天下の和合人」と呼ばれた大侠客らしく、畳の上で大往生をとげた」と。


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ヒーロー博徒・国定忠治という人

博徒・国定忠治の最期


写真は大前田英五郎の墓。周囲には英五郎の兄の要吉、父母の墓もある。前橋市大前田町の畑の中の墓地にある。こちらの辞世の句は
「安らかにゆくさきしれぬ死出の旅」と少し違っている。しかし戒名は同じである。

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島抜け物語

2021年10月02日 | 歴史
流人の島抜けは、島破り、脱島とか言われ、流人犯罪の花である。しかしその成功率は千に一つ。失敗すれば極刑に処され、成功しても幕府は面子にかけても捕縛の努力をするため、最終的には本土で捕まり、獄門が待っている。

それでも多くの島で島抜けが繰り返し発生している。特に多発したのは、本土に近い新島は言うまでもなく、三宅島や黒潮の流れの果てにあり、最も遠く島抜けが困難な八丈島でも発生している。

新島では寛文8年から明治4年までの200年間に18件、三宅島では明和2年から文久3年まで100年間に35件、八丈島では享保7年から万延元年まで138年間に25件の島抜けが発生している。

御蔵島は三宅島の南約20キロの海上にあり、神津島よりやや大きく、伊豆七島の中では五番目の大きさの島である。長い間、三宅島の属島としてその支配下にあった。御蔵島は火災で流人帳を焼失していて詳細は不明である。

三宅島の記録によれば、享保14年(1729年)には島民110人のうち流人5人。寛保2年(1742年)には島民100人に対して9人の流人がいたという。有名な流人では絵島事件の奥医師の奥山交竹院や禁制日蓮宗不受不施派の僧侶、日縁などがいる。

流人の少なかった御蔵島にこんな島抜けの物語がある。宝暦3年(1753年)当時、御蔵島には8人の流人がいた。その中に漁師で海に詳しい善吉という男の呼びかけに応じて、8人流人全員で島の村に火を放って、島抜けしようと計画を立てた。

ところが流人のなかのひとりの長右衛門が島の娘と恋仲の関係にあり、長右衛門が密かに娘と別れを告げたため、娘から島抜けの計画が発覚した。娘から島役人に密告されて、7人の流人は捕縛され、斬首された。しかし長右衛門だけは村を火から守った救世主として特別に一切の罪を許され、娘と夫婦となって島で暮らしたという。


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八丈島 女流人お豊


写真は御蔵島ヘリ―ポート崖下にある島抜けに失敗し、斬首された流人の「古入金七人之墓」の石碑「七人塚」と呼ばれている。

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伊豆流刑地・新島の流人たち

2021年09月11日 | 歴史
以前にこのブログで、伊豆新島の流人「甲州博徒・竹居安五郎」「蝙蝠安」について書いた。今回は、新島に送られたその他の流人について書いてみたい。

新島は江戸から157キロ、下田からは70キロの島である。島の両端に二つの山を持つ細長い島で、東西に長い砂浜があり、その浜が白かったので、新島と呼ばれたと言う。新島は「本村」という村が一つだけで、漁業中心の島である。島には流人船が運んできた独特の江戸文化が根づき、「中江戸」と呼ばれた。

新島が流刑の島となったのは、江戸幕府四代将軍家綱の時代、寛文8年(1668年)から、流刑地が北海道に替わる明治4年(1871年)までの約170年余りの期間である。その間、1,333人の流人が送られている。このうち赦免された者605人(死後赦免112人を含む)、島抜けを企てた者61人、島で犯罪を犯し処刑された者11人、ただし実際は90人以上と言われている。

身分別では無宿者が486人で最も多く、女流人が26人を数える。主な流人には、ブログに掲載済の島抜けに成功した甲州博徒・吃安こと竹居安五郎、切られ与三の相棒・蝙蝠安のほか、「羽黒山中興の祖と言われる僧侶・天宥法印」、「飛騨の義民・上木甚兵衛」、「新選組最後の隊長・相馬主計」などがいる。今回は、天宥法印、上木甚兵衛、相馬主計の3名の流人物語である。

一人目の僧侶・天宥法印は「新島流人帳」に記された最初の流刑者で、いわば新島流人の第一号である。天宥法印は、25歳で第50代羽黒山別当に就任した僧侶で、羽黒山の中興の祖と言われている。

天台宗の高僧・天海僧正の弟子となり、真言宗の出羽三山全山を天台宗へ改宗を図るとともに、財政苦境にあった羽黒山の改革を実施した。具体的には、羽黒山本堂の造営、参道の改修、植林開田、治水などの大改革の断行である。しかし結果的には、反対派宗徒や庄内藩主酒井氏と争うことになった。

当時、黒衣の宰相と言われ、師でもある上野寛永寺天海僧正が死去したことから、後ろ盾を失い、一方反対派の工作もあって、天領の領地争いに巻き込まれ、75歳の高齢で新島に流刑となった。流刑後、新島の地役人前田家の出入りも許され、流人としては破格の扱いを受けたが、島に来て7年後の延宝2年(1674年)に81歳で死去した。

二人目は飛騨の義民・上木甚兵衛である。飛騨は昔から幕府直轄地で、代官の支配地である。ここに派遣された代官大原彦四郎は、着任後年貢増率に加え、新規に開墾された田畑の再検地を実施、強引な年貢増税策を実施した。

これに対して飛騨農民の反対運動が発生、江戸での駕籠訴、代官所への強訴が起こった。代官所は隣国に出兵を要請し、武力で鎮圧した。いわゆる「安永の大原騒動」である。

この騒動では、水無神社神主4名が磔。百姓7名が獄門、遠島17名の処分があった。飛騨高山町の町人で造酒業・上木屋甚兵衛は、多くの小作地を持つ大地主でもあったが、終始百姓の味方となり、代官との交渉でも農民側の代弁をした。そのため安永3年(1774年)12月、町人としては唯一遠島の罪に処された。新島に流刑となったとき、62歳の高齢であった。

新島に流された甚兵衛は、島の子供たちに読み書きを教えたり、島の教養人と俳句連座の交流をした。上木家から送金される年10両のお金から、寺の本堂改築に寄付したりしたため、島の人々から「飛騨んじい」と呼ばれ、敬愛された。在島15年、中風発作の後遺症で半身不随となり、それを知った息子の勘左衛門は奉行所の許可を得て新島に渡り、父の介護をした。

それから8年後、寛政10年(1798年)甚兵衛は在島23年、享年85歳で死去した。息子の勘左衛門は、甚兵衛死後なお1年間、島に留まり、念仏を唱えながら、父の墓を刻み、さらに自分の姿の石像を彫り、自刻像の胎内に法華経を収めた。

三人目は新選組の最期の隊長・相馬主計である。相馬主計は常陸国笠間藩士の子として生まれ、慶応元年(1865年)笠間藩を脱藩、幕府の歩兵隊募集に応募する。応募後は第二次長州征伐に参加、長州征討軍の解散後、新選組に入隊した。入隊時期は不明だが、慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いに参加した記録がある。その後甲陽鎮撫隊に参加、近藤勇が捕縛され処刑されると笠間藩預かり謹慎の処分を受ける。

しかし笠間藩を脱走して上野彰義隊の戦いに参加する。敗北後、福島磐城方面に転戦し、仙台で新選組上司・土方歳三と再会する。土方歳三と合流してから、函館五稜郭の市中取締の任にあたる。函館戦争で土方歳三が戦死すると、残った新選組隊士を引き連れ、函館弁天台場の守備隊長となり、明治2年(1869年)5月、新選組隊長に就任した。

五稜郭の榎本旧幕府軍敗北後、明治3年10月、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑で伊豆新島に流罪となる。新島では大工棟梁・植村甚兵衛宅に身柄を預けられ、甚兵衛の次女マツと結婚し、甚兵衛宅で寺小屋を開いた。明治5年(1872年)赦免され、東京蔵前に居住した。翌年の明治6年、豊岡県の司法関係の役人15等出仕を勤めるも、明治8年、役人を免官され、東京に戻った。その後に死亡した。

死亡した時期は不明だが、自殺と噂され、妻マツが自宅に帰宅した際、すでに割腹をしていたという。相馬は死に際、妻マツに「他言無用」と厳命し、マツもそれを守り通したため、相馬の死に関する詳細、菩提寺、墓の所在地等は不明である。

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新島を島抜けした博徒・竹居の安五郎という人


下の写真は新島にある天宥法印の墓である。


下の写真は写真は新島にある上木甚兵衛の墓。墓の右隣にあるのは息子の勘左衛門が作成した石像である


下の写真は新島の処刑された流人たちの墓である。
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