兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長の兄貴分博徒・津向文吉

2021年12月03日 | 歴史
津向文吉は、駆け出しの頃の次郎長が喧嘩の仲裁をした時の相手方で、それを機に次郎長の兄貴分となった博徒。次郎長より9歳年上、次郎長伝では文吉が仲裁人として顔を出せば、どんな大喧嘩でもピタリと収まったという。

文吉は温厚な性格で、男盛りの39歳で、八丈島に島流しとなったため、あまり知られていない博徒である。しかし、細面で品のある二枚目の色男。長年の流刑暮らしで、主たる抗争もなく、長寿を全うし、畳の上で生涯を終えた幸運な博徒である。

(博徒名) 津向文吉    (本名)宮沢文吉
(生没年) 文化7年(1810年)~明治16年(1883年)  享年73歳

津向文吉は甲斐国鴨狩津向村(現・山梨県西八代郡市川三郷町)に生まれた。生家は代々村名主を務める旧家宮沢家である。鴨狩津向村は甲斐と駿河を結ぶ富士川船運の物流拠点である。近くには竹居安五郎(通称吃安)の活動拠点である竹居村(笛吹村)があり、竹居安五郎とは長い間縄張り争いの抗争を繰り広げた。

弘化2年(1845年)、甲州鰍沢で竹居安五郎との抗争があり、文吉は甲州博徒祐天仙之助と組んで、安五郎の食客で武士の桑原雷助を殺害した。同じ年には駿河の博徒・次郎長の叔父にあたる和田島太右衛門との間で出入りがあり、子分10人を引き連れて駿河庵原川(静岡県静岡市清水区)まで出向いている。

ところがこれが博徒・三馬政の計略であると知らされ、まだ当時駆け出しの次郎長の調停により、出入りは回避された。文吉はこれを機会に次郎長との関係を深め、兄弟分となった。

嘉永2年(1849年)の博徒取締により、文吉は捕縛され、流刑が決定。八丈島への出港は同年4月4日、文吉39歳。同年4月から9月まで三宅島に逗留して、9月からは八丈島の末吉村に流された。その後、明治2年(1869年)の恩赦まで20年間を八丈島で流人として暮らした。八丈島では島の娘との間に男女二人の子供が生まれている。

津向文吉が八丈島に流刑となった2年後に、長年の抗争相手であった竹居安五郎も賭博の罪で流刑が決定する。安五郎の兄弟分である大場久八は、昔から懇意である韮山代官の江川太郎左衛門を通じて、安五郎の流刑先を八丈島から変更を依頼した。

江川は、抗争博徒が同じ流刑地では色々治安上問題があるという理由をつけ、安五郎の流刑地は新島に変更された。もし、遠い八丈島からの流刑地変更がなければ、安五郎の新島からの島抜けは成功しなかっただろう。

文吉は、明治の恩赦後、本土に戻ると、すぐに清水次郎長のもとを訪れ、帰国の報告をしている。その後は、生地の鴨狩津向村で木賃宿の「つむぎ屋」を営む一方、八丈島で覚えた寺子屋に近いことや、医者の真似事もしながら余生を送ったという。

文吉は明治16年(1883年)10月5日、73歳で死去した。市川三郷町の共同墓地に文吉の墓がある。大正10年(1921年)9月建立で、建立者は宮沢姓の廣作・音一の2名の名が記されている。廣作は文吉の孫。文吉の墓に隣接して子分・飯窪定五郎の墓がある。定五郎は帰国後の文吉の家に子分として長く住みついていたという。

文吉の戒名は「普顕院英山文雄居士」、文吉の妻は安政2年4月24日死去。文吉八丈島流刑中だった。戒名は「普明院清山浄香禅大姉」俗名はお清(せい)、栄吉と定という二人の子がいた。

栄吉は氷堂と称する画家となった。定は車田(現・身延町車田)に嫁に行った。文吉は、帰国後、後妻をもらい、音吉と藤吉の二人の子をもうけた。文吉は晩年、定の嫁ぎ先近くの中三沢(現・身延町三沢)に移り、帰国屋と称していた。


当ブロクに関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
次郎長お目付け役博徒・安東の文吉という人

新島を島抜けした博徒・竹居安五郎

下の写真は津向文吉の墓。墓の上の部分の墓石のみ新しく作り直した。土台は当時のもの。



下の写真は津向文吉の墓の隣にある子分・飯窪定五郎の墓。文吉を慕い、文吉の隣にぜひ墓を造らして欲しいと依頼があったと言う。


下の写真は文吉の生家の庭にある「津向文吉生誕地の碑」


写真は宮沢家の墓誌。栄吉、廣作氏の名前がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする