博徒の中で有名なのは国定忠治と清水次郎長だろう。しかし二人は正反対、忠治は反体制派、次郎長は体制派。忠治は磔処刑され、次郎長は畳の上で生涯を終えた。演劇、講談で物語になるのは忠治であろう。その生涯は波乱万丈で逸話も多い。忠治の最期はどんな様子だっただろうか。
(博徒名) 国定 忠治 (本名) 長岡 忠次郎
(生没年) 文化7年(1810年)~嘉永3年12月21日(新暦1851年1月22日)享年42歳
大戸処刑場で磔処刑。
まず最初に忠治の博徒としての出来事を振り返る。
文政9年(1826年)17歳 地元の無宿者を殺傷して、地元博徒・大前田英五郎のもとに逃亡。
天保5年(1834年)25歳 関東取締出役道案内・島村伊三郎を三ツ木の文蔵ら8人で殺害、信州中野の博徒・勝太へ逃亡。
天保6年(1835年)26歳 信州より戻り、敵対博徒・玉村主馬兄弟を襲撃。
天保7年(1836年)27歳 兄弟分茅場の長平仇討ちで、信州博徒・原七討伐のため、子分を連れ、大戸関所を破る。
天保9年(1838年)29歳 三ツ木の文蔵捕縛、奪還のため赤城山麓に子分集合、関東取締出役ら役人集結で諦める。
天保13年(1842年)33歳 主馬に殺された子分・民五郎の報復で、玉村主馬を殺害。同年に中嶋勘助を殺害、会津へ逃亡。
弘化3年(1846年)38歳 会津から戻るも、その間に子分・浅次郎は捕縛され斬首、日光円蔵も捕縛され牢死。
嘉永3年(1850年)41歳 7月に発病、8月に関東取締出役中山誠一郎に捕縛される。12月、磔刑。
忠治は弘化3年、会津逃亡から上州に戻って4年が経過。発病の当日、妾の町は田部井の兄のところに居た。忠治は田部井村まで出かけそのまま町の所に泊まった。その夜、中風で倒れる。後始末に困った子分は、田部井村名主・西野目宇右衛門の屋敷に匿い、療養させる。忠治の発病を知った大前田英五郎は不治の病だから捕縛される前に自決した方が良いと忠告した。
忠治の居所を密告したのは宇右衛門本人という説もある。忠治は役人の動向を聞き込むため、木崎宿道案内役・左三郎及び馬太郎、太田宿道案内・苫吉の3人をそれぞれ3両の賄賂で買収した。間に立った左三郎が苫吉分の3両を使い込み、1両しか渡さなかった。ネコババされたことを怒った苫吉はことの次第を関東取締出役に申し立てた。これが潜伏先判明の真相と言われる。
忠治一味の取り調べは、9月28日から10月15日まで17日間、玉村宿に留置、実施された。その後江戸送りとなる。江戸送りになったのは、忠治、妾の町、とく、子分の清五郎、七兵衛、次郎右衛門、世良田村名主・幸助、田部井村名主・宇右衛門の合計8名である。
嘉永3年(1850年)10月19日、忠治は江戸に到着。その時の忠治の衣装を「藤岡屋日記」は次のように伝えている。「特別誂えの丸籠に乗り、衣類は、棒縞模様のちりめん綿入れの三枚重ね、黒じゅすの半襟付きの中形染のちりめんを着て、三枚重ねの敷布団にどてらを二枚掛けて座っている」とまさに江戸市民を意識した演出である。
公事方勘定奉行・池田播磨守頼方の吟味が始まった。吟味の結果の仕置き(刑)は老中の許可を得て決定する。忠治の罪と刑罰は、「博奕主催、賭場荒らし」は遠島。「島村伊三郎殺害」は死罪。勘助殺しは「甥・浅太郎に尊手殺害させた罪」に当たり「引き廻しの上獄門」の重刑。「大戸関所破り」は「その関所で磔」の極刑に該当した。玉村宿主馬殺しは博徒間抗争として不問となった。
決定された処罰は、忠治は磔、名主・宇右衛門は死罪、子分清五郎は遠島、その他の子分は中追放、妾の町、とくは30日間押込の軽い刑罰となった。中追放とは財産没収の上、居住地ほか、武蔵、東海道、木曽路、下野、甲斐、駿河国等の範囲内に立ち入ることが禁じられる刑である。
12月16日、忠治は大戸関所での磔刑が決定。処刑のために関東取締出役道案内、えた頭弾左衛門等の配下役人、総勢200名に達する護送のための行列が組まれ、江戸を出発した。
その時の忠治の衣装が護衛に同行した道案内・嘉十郎の記録に残っている。「浅黄無垢、表裏とも無地の薄藍色二枚と、無地の白絹一枚を重ね着し、白の襦袢の下着、白無垢の手甲脚半を身に着け、中に綿の長い芯を入れて丸く作った丸くけ帯を締めている。籠の中の座布団は異国もの唐更紗二枚に、紅色の座布団一枚を重ねて、忠治が座り、首には大きな数珠を掛けている。」特製の唐丸籠は竹の面を取って、目を粗くし青網をかけている。観衆から忠治がよく見える配慮である。
大戸処刑場の忠治の様子は「赤城録」に記載されている。「刑吏が槍を取って、鷺のように前進し、鋭い得物を忠治の眼前に突き付けた。忠治はひるむことなく破顔一笑して検使役人に向かって、今回の処刑に対し深く感謝の気持ちを述べた。左の刑吏は声を上げ、左の脇腹から右肋骨を刺し貫き、肩上に数尺突き出るのを確認して引き抜いた。右側の刑吏も同じくこれを行った。左右交互に刺し貫くこと14回、ようやく忠治は瞑目した。時に41歳であった」と
現場を見た関東取締出役手先・楡木宿惣佐衛門の描写はもっと具体的だ。槍で突かれる寸前に忠治は言う。「まあ待ちねえ、お役人方にお礼申し上げねば」と制止した。「手前儀、悪党を致しまして国の見せしめになって御成敗と決まり有難うござんす。お陰様で小伝馬町牢内でも身持ち大切にできやして、かように天下の御法に叶うことに相成り、天にも昇るような喜びにござんす」と言い、刑吏にさあ突けと目を閉じた。一槍抜くごとかっと目を見開き、1500人の見物人を見回した。
忠治の死体は2夜3日晒しの上、死体と磔柱は取り捨てられる。その忠治の遺体が盗まれた。首だけでなく手・足まで持ち去られた。実行者は妾・徳とその周辺の者と思われる。刑吏に金をつかませたのだろう。忠治の首は菩提寺養寿寺住職・貞然が寺に隠したと言う。文久元年(1861年)11月12日、貞然の墓碑に刻まれた貞然の辞世「あつかりし ものを返して 死出の旅」預かり物とは忠治の首ではないかと。文久元年は忠治13回忌の年、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立されたのもこの年である。
忠治に3人の女性が居た。正妻の鶴、愛妾の町、もう一人の妾の徳である。鶴は忠治より2歳年上、長岡家と付き合いのある佐位郡今井村の桐生家から嫁いだ。鶴とは実質別居状態だったと言う。町は忠治と同じ年、田部井村名主・尾内小弥太の養女。一度結婚して村を出たが、離婚後、田部井村に戻り、忠治と知り合った。かなりの美人と言われる。徳は忠治より6歳年下、忠治の子分・千代松の元妻、気が強く、頼りがいのある女性として知られている。
忠治護送の衣装などを手配し、演出したのは妾・徳である。彼女は田畑を保有する独立地主で養蚕業、金融業も兼ねるやり手の女性。本名は菊池徳、通称を「五目牛のとく」と言う。21歳で五目牛村千代松の奉公人となり、24歳のとき正妻を追い出し、千代松の後妻となる。千代松は忠治の子分、千代松の死後、忠治の妾となった。
忠治処刑後、正妻・鶴は栃木県鳥山の山伏右京と再婚、福島県平に住んだ。同所で明治9年11月21日死去した。妾の町は国定村の近く、下谷の高橋某の後妻となる。間もなく高橋も死亡し、田部井村の実家に戻り、明治3年7月20日、62歳で死去した。徳は忠治処刑時、34歳の若さだった。忠治に義理立てしたのか、最後まで独り身で過ごし、明治22年(1889年)2月6日、73歳で死去した。
(参考)「国定忠治」高橋敏著・岩波新書
ブロク内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
忠治に殺された博徒・島村伊三郎
「赤城の子守唄」関東取締出役道案内・中嶋(三室)勘助
写真は忠治の妾・徳が忠治の手足を埋めたと言う「情深墳」である。戒名「遊道花楽居士」
刻まれた銘文は「以念仏感得 衆罪悉除滅 甚深修行者 決定生安養」その意味は「念仏をきわめれば、罪障はすべて徐滅する。尋常ならざる修行者は往生間違いなし」
(博徒名) 国定 忠治 (本名) 長岡 忠次郎
(生没年) 文化7年(1810年)~嘉永3年12月21日(新暦1851年1月22日)享年42歳
大戸処刑場で磔処刑。
まず最初に忠治の博徒としての出来事を振り返る。
文政9年(1826年)17歳 地元の無宿者を殺傷して、地元博徒・大前田英五郎のもとに逃亡。
天保5年(1834年)25歳 関東取締出役道案内・島村伊三郎を三ツ木の文蔵ら8人で殺害、信州中野の博徒・勝太へ逃亡。
天保6年(1835年)26歳 信州より戻り、敵対博徒・玉村主馬兄弟を襲撃。
天保7年(1836年)27歳 兄弟分茅場の長平仇討ちで、信州博徒・原七討伐のため、子分を連れ、大戸関所を破る。
天保9年(1838年)29歳 三ツ木の文蔵捕縛、奪還のため赤城山麓に子分集合、関東取締出役ら役人集結で諦める。
天保13年(1842年)33歳 主馬に殺された子分・民五郎の報復で、玉村主馬を殺害。同年に中嶋勘助を殺害、会津へ逃亡。
弘化3年(1846年)38歳 会津から戻るも、その間に子分・浅次郎は捕縛され斬首、日光円蔵も捕縛され牢死。
嘉永3年(1850年)41歳 7月に発病、8月に関東取締出役中山誠一郎に捕縛される。12月、磔刑。
忠治は弘化3年、会津逃亡から上州に戻って4年が経過。発病の当日、妾の町は田部井の兄のところに居た。忠治は田部井村まで出かけそのまま町の所に泊まった。その夜、中風で倒れる。後始末に困った子分は、田部井村名主・西野目宇右衛門の屋敷に匿い、療養させる。忠治の発病を知った大前田英五郎は不治の病だから捕縛される前に自決した方が良いと忠告した。
忠治の居所を密告したのは宇右衛門本人という説もある。忠治は役人の動向を聞き込むため、木崎宿道案内役・左三郎及び馬太郎、太田宿道案内・苫吉の3人をそれぞれ3両の賄賂で買収した。間に立った左三郎が苫吉分の3両を使い込み、1両しか渡さなかった。ネコババされたことを怒った苫吉はことの次第を関東取締出役に申し立てた。これが潜伏先判明の真相と言われる。
忠治一味の取り調べは、9月28日から10月15日まで17日間、玉村宿に留置、実施された。その後江戸送りとなる。江戸送りになったのは、忠治、妾の町、とく、子分の清五郎、七兵衛、次郎右衛門、世良田村名主・幸助、田部井村名主・宇右衛門の合計8名である。
嘉永3年(1850年)10月19日、忠治は江戸に到着。その時の忠治の衣装を「藤岡屋日記」は次のように伝えている。「特別誂えの丸籠に乗り、衣類は、棒縞模様のちりめん綿入れの三枚重ね、黒じゅすの半襟付きの中形染のちりめんを着て、三枚重ねの敷布団にどてらを二枚掛けて座っている」とまさに江戸市民を意識した演出である。
公事方勘定奉行・池田播磨守頼方の吟味が始まった。吟味の結果の仕置き(刑)は老中の許可を得て決定する。忠治の罪と刑罰は、「博奕主催、賭場荒らし」は遠島。「島村伊三郎殺害」は死罪。勘助殺しは「甥・浅太郎に尊手殺害させた罪」に当たり「引き廻しの上獄門」の重刑。「大戸関所破り」は「その関所で磔」の極刑に該当した。玉村宿主馬殺しは博徒間抗争として不問となった。
決定された処罰は、忠治は磔、名主・宇右衛門は死罪、子分清五郎は遠島、その他の子分は中追放、妾の町、とくは30日間押込の軽い刑罰となった。中追放とは財産没収の上、居住地ほか、武蔵、東海道、木曽路、下野、甲斐、駿河国等の範囲内に立ち入ることが禁じられる刑である。
12月16日、忠治は大戸関所での磔刑が決定。処刑のために関東取締出役道案内、えた頭弾左衛門等の配下役人、総勢200名に達する護送のための行列が組まれ、江戸を出発した。
その時の忠治の衣装が護衛に同行した道案内・嘉十郎の記録に残っている。「浅黄無垢、表裏とも無地の薄藍色二枚と、無地の白絹一枚を重ね着し、白の襦袢の下着、白無垢の手甲脚半を身に着け、中に綿の長い芯を入れて丸く作った丸くけ帯を締めている。籠の中の座布団は異国もの唐更紗二枚に、紅色の座布団一枚を重ねて、忠治が座り、首には大きな数珠を掛けている。」特製の唐丸籠は竹の面を取って、目を粗くし青網をかけている。観衆から忠治がよく見える配慮である。
大戸処刑場の忠治の様子は「赤城録」に記載されている。「刑吏が槍を取って、鷺のように前進し、鋭い得物を忠治の眼前に突き付けた。忠治はひるむことなく破顔一笑して検使役人に向かって、今回の処刑に対し深く感謝の気持ちを述べた。左の刑吏は声を上げ、左の脇腹から右肋骨を刺し貫き、肩上に数尺突き出るのを確認して引き抜いた。右側の刑吏も同じくこれを行った。左右交互に刺し貫くこと14回、ようやく忠治は瞑目した。時に41歳であった」と
現場を見た関東取締出役手先・楡木宿惣佐衛門の描写はもっと具体的だ。槍で突かれる寸前に忠治は言う。「まあ待ちねえ、お役人方にお礼申し上げねば」と制止した。「手前儀、悪党を致しまして国の見せしめになって御成敗と決まり有難うござんす。お陰様で小伝馬町牢内でも身持ち大切にできやして、かように天下の御法に叶うことに相成り、天にも昇るような喜びにござんす」と言い、刑吏にさあ突けと目を閉じた。一槍抜くごとかっと目を見開き、1500人の見物人を見回した。
忠治の死体は2夜3日晒しの上、死体と磔柱は取り捨てられる。その忠治の遺体が盗まれた。首だけでなく手・足まで持ち去られた。実行者は妾・徳とその周辺の者と思われる。刑吏に金をつかませたのだろう。忠治の首は菩提寺養寿寺住職・貞然が寺に隠したと言う。文久元年(1861年)11月12日、貞然の墓碑に刻まれた貞然の辞世「あつかりし ものを返して 死出の旅」預かり物とは忠治の首ではないかと。文久元年は忠治13回忌の年、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立されたのもこの年である。
忠治に3人の女性が居た。正妻の鶴、愛妾の町、もう一人の妾の徳である。鶴は忠治より2歳年上、長岡家と付き合いのある佐位郡今井村の桐生家から嫁いだ。鶴とは実質別居状態だったと言う。町は忠治と同じ年、田部井村名主・尾内小弥太の養女。一度結婚して村を出たが、離婚後、田部井村に戻り、忠治と知り合った。かなりの美人と言われる。徳は忠治より6歳年下、忠治の子分・千代松の元妻、気が強く、頼りがいのある女性として知られている。
忠治護送の衣装などを手配し、演出したのは妾・徳である。彼女は田畑を保有する独立地主で養蚕業、金融業も兼ねるやり手の女性。本名は菊池徳、通称を「五目牛のとく」と言う。21歳で五目牛村千代松の奉公人となり、24歳のとき正妻を追い出し、千代松の後妻となる。千代松は忠治の子分、千代松の死後、忠治の妾となった。
忠治処刑後、正妻・鶴は栃木県鳥山の山伏右京と再婚、福島県平に住んだ。同所で明治9年11月21日死去した。妾の町は国定村の近く、下谷の高橋某の後妻となる。間もなく高橋も死亡し、田部井村の実家に戻り、明治3年7月20日、62歳で死去した。徳は忠治処刑時、34歳の若さだった。忠治に義理立てしたのか、最後まで独り身で過ごし、明治22年(1889年)2月6日、73歳で死去した。
(参考)「国定忠治」高橋敏著・岩波新書
ブロク内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
忠治に殺された博徒・島村伊三郎
「赤城の子守唄」関東取締出役道案内・中嶋(三室)勘助
写真は忠治の妾・徳が忠治の手足を埋めたと言う「情深墳」である。戒名「遊道花楽居士」
刻まれた銘文は「以念仏感得 衆罪悉除滅 甚深修行者 決定生安養」その意味は「念仏をきわめれば、罪障はすべて徐滅する。尋常ならざる修行者は往生間違いなし」