兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

切られの与三郎の相棒・蝙蝠安は実在の人

2018年12月06日 | 歴史
春日八郎の歌「お富さん」の与三郎の仲間、蝙蝠の安はよく知られている。右のほほに蝙蝠の入れ墨をした無法者である。これは嘉永6年(1853年)戯作者瀬川如旱が歌舞伎に脚色して、「与話情浮名横櫛」として上演、大人気を博した。

与三郎は長唄の唄方四世・芳村伊三郎がモデルと言われ、架空の人物である。しかし与三郎の相方・蝙蝠の安は実在の人である。蝙蝠の入れ墨は、実際は右ほほでなく、左足の太ももにあったと言われている。

蝙蝠の安は、文化元年、木更津五平町で油屋を営む「紀の国屋」の次男として生まれ、名前を山口瀧蔵と呼ばれた。若い頃よりやさ男で男ぶりが良く、天性の美声で花街の遊女に人気があったという。金回りも良くため、木更津の無宿博奕仲間と交わり、無法者の評判が出るが、決して乱暴者ではなかった。

博奕仲間との付き合いの中で、自身も欠落、逃亡して無宿者となる。千葉房総地方は漁師村で各地から流れ者が集まり、博徒が多い地域として知られている。有名な飯岡・笹川一家の天保水滸伝の舞台となった場所でもある。幕末、関東取締出役の博徒捕縛が始まり、多くの博徒が島流しの刑となった。無宿の無法者蝙蝠安も伊豆新島へ流刑となった。

新島の流人は、軽犯罪者が主体で、無宿者の無頼漢が多く、島に到着しても、島抜け、殺人、放火などの凶悪な犯罪が頻発した。新島にはそのような流人が再び犯罪を犯した者には厳しい厳罰が科せられた。刑罰には頭剃り(丸坊主)、敲き、島替え、入牢、死罪などがある。死罪の処刑は島の本村向畑に刑場があった。

新島の処刑は縛り首で、刑の執行人は流人の役目である。処刑は「金太まわし」と呼ばれた。執行人を命ぜられた流人の金太が考案した。方法は、まず松の木の下に深い穴を掘り、穴の上に板を渡して、その上に罪人を座らせる。松の木からおろした縄が罪人の首に食い込まぬよう、縄のヨリを戻し、縄を十分によじったうえで罪人の首に巻く。板をはずすと罪人は回転しながら穴に落ち、絶命する。

そのまま穴を埋めれば完了である。現代の絞首刑と同じ理屈で、自分の体重で落下する際、頸椎骨折で気絶し、首を絞める縄によって脳への血流停止で死亡する。罪人は苦しまずに気絶するため、仏の「金太まわし」と呼ぶようになった。

この「金太まわし」で処刑された者に蝙蝠安がいる。蝙蝠安が新島に流された1年前に、甲州の博徒「吃安」こと竹居安五郎が島抜けに成功している。それを知ってか、蝙蝠安は数人の仲間と島破りを企てたが、失敗に終わり、島牢に入れられた。

死罪は「代官下知」という代官の判決を必要としたが、代官下知には数ケ月を要した。その間に牢死、病死する者も多い。「自滅申し付ける」とかの理由で密かに「金太回し」などの方法で処刑される者も少なくなかった。

新島向畑には刑死者の墓地があり、その中に蝙蝠安の墓もある。島特有の柔らかい坑火石の墓碑には「妙法自縁居士」という戒名が刻まれ、側面には「施主同船中」という字が刻まれている。同じ流人船で乗り合わせた仲間が心遣いで建てた墓だろう。この墓地には83基の墓石があったと言われる。ということは83人が処刑されたと言うことである。

蝙蝠安が新島で処刑された翌年の嘉永6年、江戸で歌舞伎与話情浮名横櫛が初演され、大人気を受けた。蝙蝠安の墓は、生まれ故郷の木更津市選桿寺境内にもある。その墓には戒名「進岳浄精居士」と書かれ、慶応4年4月5日とある。処刑から15年後、元号が明治に代わる直前に、親族が建立したものと思われる。

春日八郎 「お富さん」


ブログ内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
八丈島を島抜けした博徒・佐原喜三郎という人


写真は新島にある蝙蝠安の墓。正面は戒名「妙法自縁居士」側面には「施主同船中」という字が刻まれている。


下の写真は生まれ故郷の木更津市選桿寺にある蝙蝠安の墓


下の写真は新島向畑にある流人が処刑された刑場跡地である。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする