幕末、戊辰戦争では多くの草莽志士による諸隊が編成された。有名な新選組も清河八郎らによって編成された浪士組が始まりである。最も有名なのが高杉晋作の長州・奇兵隊であろう。文久3年(1863年)6月、長州は攘夷決行政策に失敗し、英仏軍によって、下関を徹底的に攻撃され、下関砲台を一時占拠された。
長州藩主・毛利敬親は「何か策はあるか」と高杉晋作に今後の対応を聞いたところ「下関防備の件は私に一任ください」と答えた。高杉晋作は吉田松陰の教えである「志でつながる草莽集団」(草莽崛起論)による非正規軍・奇兵隊を下関で創設した。
奇兵隊の5割は下級武士、4割は農民、残りが僧侶、商人である。下関の廻船問屋の豪商である白石正一郎も会計として資金調達を担当、1年で本業商売の事業資金がなくなるほど協力した。晋作は白石の本業支援のため、藩に白石家の屋敷買取を願ったが、藩は拒絶している。
江戸時代の戦闘集団は武士の家格、禄高によって階層的に編成されていた。従来型の方式では、幕末の近代的欧米の小銃装備兵中心の戦闘集団に対応できなかった。近代的軍事集団は平等的兵士集団を万能的な優秀な士官が統制する軍隊である。近代的戦闘集団として、奇兵隊は圧倒的な攻撃力で戊辰戦争を戦い、明治2年(1869年)5月、函館五稜郭軍降伏まで戦いに貢献し、多大な戦果を挙げた。
戊辰戦争終了後、長州に戻った奇兵隊士は新政府から多くの恩賞がもらえると考えた。だが恩賞は一部の上級幹部のみで、5,000人余りに膨張した一般隊士には人員整理の対象である。
新政府軍は、以前の各藩に養われた藩兵とは異なり、資金の余裕もなく、新政府親兵として採用されるのは1,500人程度、残りの身体を負傷した者、40歳以上の隊士にはわずかな報奨金を与え、余剰人員の除隊・人員整理を強制した。
岩倉具視は「草莽の志士は制御しがたい存在と評し、尊王を掲げているため、朝廷においては哀憐すべき存在であるが、多くは直径怪行で激論家が多い。事を為すにも現実を見ず、理想論ばかり。今後は功績あれば賞すとも、命に背いたら罰すべき」と言っている。
親兵は政府が給与を支給せねばならない。とても経済的に負担できない。そのため軍務官権判事の井田譲のように、親兵を二条城に集め、一撃抹殺を主張する暴論まであった。
明治2年12月、長州に戻った奇兵隊の不満が爆発、山口の駐屯地から脱走した。山口の宮市、三田尻(現・防府市)に200人余りの奇兵隊士が集結した。翌年1月、奇兵隊は、当時の山口藩庁の軍港である三田尻と山陽道宿場町である宮市の二か所を押さえると同時に、山口藩庁へ至る重要地に砲台を構築して、山口藩庁を包囲した。
山口藩知事・毛利元徳は反乱奇兵隊の行為を不問にして、説得、帰還を求めた。それに対して脱走奇兵隊は、解雇戦傷兵士、老兵の生活保障、諸隊幹部の斬首、免官処分、反乱軍幹部の人材登用を求めた。
これに危機感を抱いた東京在住の木戸孝允は急遽、下関に戻り、反乱軍の鎮圧を図った。2月初めには藩の正規軍・干城隊、奇兵隊常備軍、長州四支藩の藩兵が山口に集結した。小郡口(山口市)、山之井口、勝坂口(防府市)三か所から攻め登り、反乱軍を壊滅、武装解除させた。
木戸は短期間で鎮圧せねば、新政府の薩摩、土佐の介入が避けられず、何としても長州単独で制圧する必要があった。そのため鎮圧後の逃亡隊士の探索、追及も厳しかった。
反乱軍首謀者35名は山口郊外の柊刑場で斬首処刑された。遺体は刑場脇の古井戸に投げ捨てられた。さらに山口より逃亡した脱走兵、諸隊残党は探索隊、追手により捕縛され、最終的に、133名が斬首、梟首された。処刑は見せしめとしてそれぞれの死刑囚の故郷で決行された。
反乱の記憶が薄れかけた明治5年(1871年)秋、長州吉敷郡恒富村(現・山口市平川)から鋳銭司(現・山口市)に向かう鎧ケ垰で、不思議な噂が起きた。峠に立つ小さな墓碑に庶民が群がり、石碑に願い事をすれば必ずかなうと言う噂である。山口県は通達を出して、墓碑への参詣を禁じた。墓は「藤山佐熊」という戦死した脱走諸隊兵のものであった。
諸隊がここに滞在したとき、医術、製薬の心得のある軍医・佐熊は親切に村民の病を診てやったという。墓碑はその村民によって建立された。墓は「隊中様」と呼ばれて親しまれ、禁止の通達後も参拝者がやむことなく、花や供物が絶えることはない。長州奇兵隊の反乱を地元庶民がどのように捉えていたのか知ることができる。
伊藤博文、山県有朋、井上馨、品川弥二郎、山田顕義、桂太郎、明治政府の元勲、閣僚はいずれも諸隊出身だった。近代日本は草莽の思想を受け継ぐ人々によって形づくられた。一方において元勲たちとともに戦いながらも報われず、使い捨てられ、むなしく散っていった多くの草莽たちがいたことを忘れてはならない。
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草莽志士を目指した甲州博徒・祐天仙之助という人
写真は「隊中様」藤山佐熊の墓。山口市黒川の山中にある。
写真は反乱奇兵隊士が処刑された柊刑場跡地に明治26年建立された招魂碑。ここに獄舎もあった。隣には大村益次郎の記念碑もある。山口市大内長野にある。
長州藩主・毛利敬親は「何か策はあるか」と高杉晋作に今後の対応を聞いたところ「下関防備の件は私に一任ください」と答えた。高杉晋作は吉田松陰の教えである「志でつながる草莽集団」(草莽崛起論)による非正規軍・奇兵隊を下関で創設した。
奇兵隊の5割は下級武士、4割は農民、残りが僧侶、商人である。下関の廻船問屋の豪商である白石正一郎も会計として資金調達を担当、1年で本業商売の事業資金がなくなるほど協力した。晋作は白石の本業支援のため、藩に白石家の屋敷買取を願ったが、藩は拒絶している。
江戸時代の戦闘集団は武士の家格、禄高によって階層的に編成されていた。従来型の方式では、幕末の近代的欧米の小銃装備兵中心の戦闘集団に対応できなかった。近代的軍事集団は平等的兵士集団を万能的な優秀な士官が統制する軍隊である。近代的戦闘集団として、奇兵隊は圧倒的な攻撃力で戊辰戦争を戦い、明治2年(1869年)5月、函館五稜郭軍降伏まで戦いに貢献し、多大な戦果を挙げた。
戊辰戦争終了後、長州に戻った奇兵隊士は新政府から多くの恩賞がもらえると考えた。だが恩賞は一部の上級幹部のみで、5,000人余りに膨張した一般隊士には人員整理の対象である。
新政府軍は、以前の各藩に養われた藩兵とは異なり、資金の余裕もなく、新政府親兵として採用されるのは1,500人程度、残りの身体を負傷した者、40歳以上の隊士にはわずかな報奨金を与え、余剰人員の除隊・人員整理を強制した。
岩倉具視は「草莽の志士は制御しがたい存在と評し、尊王を掲げているため、朝廷においては哀憐すべき存在であるが、多くは直径怪行で激論家が多い。事を為すにも現実を見ず、理想論ばかり。今後は功績あれば賞すとも、命に背いたら罰すべき」と言っている。
親兵は政府が給与を支給せねばならない。とても経済的に負担できない。そのため軍務官権判事の井田譲のように、親兵を二条城に集め、一撃抹殺を主張する暴論まであった。
明治2年12月、長州に戻った奇兵隊の不満が爆発、山口の駐屯地から脱走した。山口の宮市、三田尻(現・防府市)に200人余りの奇兵隊士が集結した。翌年1月、奇兵隊は、当時の山口藩庁の軍港である三田尻と山陽道宿場町である宮市の二か所を押さえると同時に、山口藩庁へ至る重要地に砲台を構築して、山口藩庁を包囲した。
山口藩知事・毛利元徳は反乱奇兵隊の行為を不問にして、説得、帰還を求めた。それに対して脱走奇兵隊は、解雇戦傷兵士、老兵の生活保障、諸隊幹部の斬首、免官処分、反乱軍幹部の人材登用を求めた。
これに危機感を抱いた東京在住の木戸孝允は急遽、下関に戻り、反乱軍の鎮圧を図った。2月初めには藩の正規軍・干城隊、奇兵隊常備軍、長州四支藩の藩兵が山口に集結した。小郡口(山口市)、山之井口、勝坂口(防府市)三か所から攻め登り、反乱軍を壊滅、武装解除させた。
木戸は短期間で鎮圧せねば、新政府の薩摩、土佐の介入が避けられず、何としても長州単独で制圧する必要があった。そのため鎮圧後の逃亡隊士の探索、追及も厳しかった。
反乱軍首謀者35名は山口郊外の柊刑場で斬首処刑された。遺体は刑場脇の古井戸に投げ捨てられた。さらに山口より逃亡した脱走兵、諸隊残党は探索隊、追手により捕縛され、最終的に、133名が斬首、梟首された。処刑は見せしめとしてそれぞれの死刑囚の故郷で決行された。
反乱の記憶が薄れかけた明治5年(1871年)秋、長州吉敷郡恒富村(現・山口市平川)から鋳銭司(現・山口市)に向かう鎧ケ垰で、不思議な噂が起きた。峠に立つ小さな墓碑に庶民が群がり、石碑に願い事をすれば必ずかなうと言う噂である。山口県は通達を出して、墓碑への参詣を禁じた。墓は「藤山佐熊」という戦死した脱走諸隊兵のものであった。
諸隊がここに滞在したとき、医術、製薬の心得のある軍医・佐熊は親切に村民の病を診てやったという。墓碑はその村民によって建立された。墓は「隊中様」と呼ばれて親しまれ、禁止の通達後も参拝者がやむことなく、花や供物が絶えることはない。長州奇兵隊の反乱を地元庶民がどのように捉えていたのか知ることができる。
伊藤博文、山県有朋、井上馨、品川弥二郎、山田顕義、桂太郎、明治政府の元勲、閣僚はいずれも諸隊出身だった。近代日本は草莽の思想を受け継ぐ人々によって形づくられた。一方において元勲たちとともに戦いながらも報われず、使い捨てられ、むなしく散っていった多くの草莽たちがいたことを忘れてはならない。
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写真は「隊中様」藤山佐熊の墓。山口市黒川の山中にある。
写真は反乱奇兵隊士が処刑された柊刑場跡地に明治26年建立された招魂碑。ここに獄舎もあった。隣には大村益次郎の記念碑もある。山口市大内長野にある。