兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長妻・三代目お蝶の仲人・西尾の治助

2020年02月01日 | 歴史
広沢虎造の浪曲「森の石松三十石船道中」の中に次の名調子の語りがある。「東海道には、良い親分がいる。三州寺津間之助、西尾の治助・・・」「飲みねー、食いねー、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」寺津間之助は清水次郎長の兄弟分として有名である。ではもう一人の西尾の治助とは何者か?

西尾の治助とは西尾藩一帯を縄張りとする香具師(ヤシ)の親分。香具師とは的屋(テキヤ)同様に、寺院の祭礼や縁日に露店を出したり、見世物興行する大道商人の呼称である。的屋はもともと射幸心をあおるギャンブル的な商売を売り物とした。しかし現在、その差はほとんど無い。

通称名  西尾の治助(初代井上治助)
本名   柴田又蔵
生没年  文政2年(1819年)1月4日~明治31年(1898年)12月1日 79歳で病死 

江戸時代の香具師・虎の巻によると「13番香具師」と呼ばれ、売薬、果物売り、小物売り、曲芸居合抜き等に分類される。香具師の親分は場所割りやショバ代の徴収などに独特の権利と仁義を持っていた。フーテンの寅さんが香具師の仕事である。江戸時代初期は旗本の中間や奴がこの親分の任務をしていた。八代将軍吉宗は、香具師の親分という身分に各地の隠密の役割を持たせ、全国に派遣した。その後、祭礼・縁日の露天商を取り締まる権利が認められるようになった。

江戸時代、寺院は寺社奉行の直轄で、町奉行などの役人は立ち入ることができない。元禄以降、寺院は経営維持のため、高額の祈祷料を取るようになった。幕府は維持費捻出のため、祭礼時、境内で小屋掛けして賭場を開くことを許可した。賭場の上がりの金を「寺銭」と言うのはここから出ている。その後、博徒が生まれ、賭場を仕切る権利が香具師にも与えられ、博徒と香具師が同一視されるようになった。

浪曲に出てくる寺津間之助との違いは、間之助は菊間藩大浜陣屋の配下、十手、捕縛を扱う博徒の二足のわらじの親分、勢力範囲は幡豆、吉良、一色、寺津、矢田、平坂、中畑の範囲。一方、西尾の治助は西尾藩一帯の博徒、勢力範囲は旧西尾市内、碧海郡小川村までの範囲である。

清水次郎長は寺津間之助と親交を結んでいたが、西尾の治助とも付き合いがあった。治助は、次郎長より1歳年上。明治3年、次郎長は、前年に「二代目おちょう」を亡くして、やもめ暮らしをしていた。西尾の治助が西尾藩士の江崎丹次(篠原東吾という説もある)の娘の「おけん」を紹介した。この娘が「三代目おちょう」である。当時、次郎長50歳、おけんは次郎長より17歳年下、33歳であった。

彼女は西尾藩御殿女中を勤め、学問もあった。当時、おけんは夫と死別し、子連れで江崎家の実家に戻っていた。次郎長が博徒の親分ということで、丹次親子は結婚に反対した。次郎長は、連れ子のあることを承知で「わが子同様に可愛がるから」と結婚を申し出た。父親の丹次は、治助親分の紹介でもあり、治助の人柄を信用して嫁にやることにした。時代が変わり、士族の将来も期待できないことも影響した。

治助は祝言の仲人を務めた。江崎丹次は当時失業の身で、娘の嫁入り支度が出来なかった。替わりに江崎家の先祖伝来の懐剣一振りを授け、江崎家の形見と告げた。彼女はこの懐剣を西尾思い出の品として大切に扱い、現在も次郎長の生家に保存されている。また三代目おちょうの連れ子は成人して、鈴与倉庫の発展に貢献、今日の隆盛の基を築いたといわれる。

明治17年施行「博徒取締」は猛烈を極め、次郎長も捕縛、獄舎に入った。当時、香具師と博徒は同一視され、零細露天商たちは生活に苦労した。そこで治助は幡豆郡露天商の代表として組合発起人となり、明治18年3月、政府と愛知県令に組合認可を申請した。

これが認められ、博徒と組合員は完全分離され、正式認可された露天商組合の第一号となる。治助は初代組合長になり、露天商の正業としての地位向上に貢献。組合は愛知県東部街商協同組合に法人化され、現在に至る。西尾治助は明治32年、79歳で病死した。

三代目おちょうは明治26年、清水の末廣で74歳の次郎長を看取った。その後、おちょうは大正5年、81歳で死亡した。辞世の句は「頼みなきこの世をあとに旅姿、あの世のひとにあふぞ嬉しき」(思い残すことのないこの世から今、旅立つ、あの世であの人に会うのが嬉しい)

次郎長は船宿・末広を経営したが、商売は上手ではない。末広には全国から多くの博徒が居候した。多いときは30人近く居た居たと言う。それを嫌な顔もせず、面倒をみたのが三代目・おちょう、家計の繰り回しが上手だった。昔の貧乏士族の生まれが役に立ったのだろう。
(参考)「実録・荒神山」味岡源吾著・1992年1月発行・絶版。


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写真は西尾治助(初代井上治助)の墓。井上一家の墓となっている。愛知県西尾市須田町浄賢寺内。




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