日柳燕石は讃岐国仲多度郡榎井村(香川県琴平町)・惣兵衛のひとり息子として生まれた。父・惣兵衛は質屋兼地主、屋号は加賀屋といい、かなりの財産家である。日柳燕石は、子供の頃から、学問を仕込まれ、博徒には珍しい学者タイプであり、随筆、漢詩も残している。本名は長次郎、後に耕吉と改める。日柳燕石は雅号である。
本 名 加賀屋長次郎(耕吉)
博徒名 日柳 燕石
生没年 文化14年(1817年)~明治元年(1868年)8月25日 奥羽戦争従軍の途中で病死
榎井村は讃岐の金毘羅の近くで、社領でもあるため治安力が弱く、博徒による博奕が盛んであった。長次郎は加賀屋のひとり息子、財産持ちで、女にもて、14歳頃から放蕩の味を覚えた。博徒になった年代は判らない。加賀屋の長次郎としていい顔で通った。本妻のほか妾が三人おり、本妻・ぬいの間に道之助という男の子がいた。学者肌の博徒として、喧嘩は苦手だが、縄張りは広く、寺銭の収入は莫大だった。
安政2年(1855年)39歳頃から高松藩勤皇派と繋がりが生まれ、挙兵の計画を立て、兵器製造、軍資金の調達の役目を受ける。長州の高杉晋作を匿った話は有名である。当時の勤皇急進派では関西一の頼りのできる侠客として知られ、博徒のカスリを勤皇派支援につぎ込んだ。慶應元年に、琴平の芳橋楼で捕縛される。高松の牢に送られ、そこで2年半の入牢生活を過ごす。
高松藩は朝廷側に味方することが決定して、慶應4年(1948年)1月20日、出牢が許された。同時に仁和寺大総督官の日誌方に任命される。直ちに奥羽戦争に従軍する。しかし同年8月25日、越後柏崎で熱病に罹り、病死した。享年52歳だった。明治24年、朝廷よりその功績を賞され、靖国神社に合祀された。さらに明治36年には従四位が送られる。受勲を上申したのは香川県知事小野田元熙である。
小野田は、香川県知事になる前、山梨県知事に就任していた。山梨県知事当時、黒駒勝蔵に殺された舘林藩浪人犬上郡次郎の遺児(女児)探しを命じた男である。犬上郡次郎は、黒駒勝蔵の親分、竹居の吃安を騙して、国分の三蔵と祐天仙之助と共謀し、吃安捕縛に一役買った人物である。そのため、黒駒勝蔵から親分の仇として命を狙われた。
郡次郎は、元治元年10月17日甲州等々力村(勝沼町)万福寺に身を寄せていた際に、殴り込みをかけた黒駒勝蔵一家に殺された。運よく一緒にいた郡次郎の妻と子供は命が助かり、生きのびた。小野田と郡次郎は同じ舘林藩の出身であり、お互いに知人だったと思われる。
舘林藩は、藩主が毛利家から婿入りしており、幕府から睨まれていた。そのため、徳川親藩からも養子を迎え、徳川につくか、朝廷側につくか迷っていた。日柳燕石は、舘林藩の藩士・塩谷良翁と交流があり、塩谷を介して、官軍側に付くよう説得した。説得が功して、舘林藩は賊軍の汚名を逃れた経緯がある。このように舘林藩と日柳燕石とは不思議な因縁があった。
(参考)日本の侠客100選
ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
竹居安五郎と祐天仙之助甲州博徒の抗争
写真は日柳燕石の墓。柏崎市柏崎招魂所にある。
写真は香川県琴平町にある先祖の墓所にある日柳燕石の墓。爪、髪が埋められたと言う。
本 名 加賀屋長次郎(耕吉)
博徒名 日柳 燕石
生没年 文化14年(1817年)~明治元年(1868年)8月25日 奥羽戦争従軍の途中で病死
榎井村は讃岐の金毘羅の近くで、社領でもあるため治安力が弱く、博徒による博奕が盛んであった。長次郎は加賀屋のひとり息子、財産持ちで、女にもて、14歳頃から放蕩の味を覚えた。博徒になった年代は判らない。加賀屋の長次郎としていい顔で通った。本妻のほか妾が三人おり、本妻・ぬいの間に道之助という男の子がいた。学者肌の博徒として、喧嘩は苦手だが、縄張りは広く、寺銭の収入は莫大だった。
安政2年(1855年)39歳頃から高松藩勤皇派と繋がりが生まれ、挙兵の計画を立て、兵器製造、軍資金の調達の役目を受ける。長州の高杉晋作を匿った話は有名である。当時の勤皇急進派では関西一の頼りのできる侠客として知られ、博徒のカスリを勤皇派支援につぎ込んだ。慶應元年に、琴平の芳橋楼で捕縛される。高松の牢に送られ、そこで2年半の入牢生活を過ごす。
高松藩は朝廷側に味方することが決定して、慶應4年(1948年)1月20日、出牢が許された。同時に仁和寺大総督官の日誌方に任命される。直ちに奥羽戦争に従軍する。しかし同年8月25日、越後柏崎で熱病に罹り、病死した。享年52歳だった。明治24年、朝廷よりその功績を賞され、靖国神社に合祀された。さらに明治36年には従四位が送られる。受勲を上申したのは香川県知事小野田元熙である。
小野田は、香川県知事になる前、山梨県知事に就任していた。山梨県知事当時、黒駒勝蔵に殺された舘林藩浪人犬上郡次郎の遺児(女児)探しを命じた男である。犬上郡次郎は、黒駒勝蔵の親分、竹居の吃安を騙して、国分の三蔵と祐天仙之助と共謀し、吃安捕縛に一役買った人物である。そのため、黒駒勝蔵から親分の仇として命を狙われた。
郡次郎は、元治元年10月17日甲州等々力村(勝沼町)万福寺に身を寄せていた際に、殴り込みをかけた黒駒勝蔵一家に殺された。運よく一緒にいた郡次郎の妻と子供は命が助かり、生きのびた。小野田と郡次郎は同じ舘林藩の出身であり、お互いに知人だったと思われる。
舘林藩は、藩主が毛利家から婿入りしており、幕府から睨まれていた。そのため、徳川親藩からも養子を迎え、徳川につくか、朝廷側につくか迷っていた。日柳燕石は、舘林藩の藩士・塩谷良翁と交流があり、塩谷を介して、官軍側に付くよう説得した。説得が功して、舘林藩は賊軍の汚名を逃れた経緯がある。このように舘林藩と日柳燕石とは不思議な因縁があった。
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竹居安五郎と祐天仙之助甲州博徒の抗争
写真は日柳燕石の墓。柏崎市柏崎招魂所にある。
写真は香川県琴平町にある先祖の墓所にある日柳燕石の墓。爪、髪が埋められたと言う。